ダブルドット/シャット・ダウン

朝、豚しゃぶの残り汁で卵雑炊。うまい。

ここのところ抑鬱傾向にあるが、フライヤーへの賛辞によってすこし元気になる。こうやって言葉や反応がダイレクトにとどいてくるのはSNSのよいところだと思った。心底ありがたいきもちになる。

ワクチン2回目。医者のやる気のなさみたいなのがいちどめに比べて顕著で、それにたいして思っていたよりも不信な気分になるのがおもしろかった。このようにして自分のこころのうごきをメタ的にみる癖がついたのは、会社員時代に離人症めいた状態になってからなのではないかと思った。打って5時間ほどでしっかりとした痛みが接種部分を覆いはじめた。

夜、麻婆豆腐。ひき肉・長ネギ・豆腐。生姜、にんにく、豆鼓醤、豆板醤、ケチャップ、醤油、酒、味噌、カイエンペパー、胡椒、粉末鶏ガラスープ、水溶き片栗粉。うまい。

トロプリ37話。いま明かされるグランオーシャンの秘密。すべてが解決した折にはローラとまなつたちははなればなれになるかもしれない。そんな未来をあたまの隅で想像しながらも、目の前のヤラネーダをやっつけてみんなのやる気パワーをとりもどすことにちからを注ぐプリキュアたち。この「いま」へのこだわりは、問題を未来へと先送りすることと同義であり、あとまわしの魔女が掲げる「永遠のあとまわし」とも近似線を描くことになるだろう「大人になったら何になる?」の回のまなつのことばがよみがえってくる。まなつとローラが幼少期に出会っていたエピソードは、まなつの行動原理におおきな影響を与えていて、ふたりの関係性がさらに尊いものとして浮かび上がってくる。人魚の女王の名の末尾にムネモシュネという語が置かれていたが、その音を聞くとムネモシュネの娘たちが浮かんでくる。

バイス11話。女は家にひっこんでろ思想の炸裂。弟くんや母にその台詞を言わせるところに悪意がある。その構造が観るものをさくらに同化させ、彼女の決意に同調するエモーションを生むが、それをいちど挫折させるところにおもしろさがある。あのままラストで変身していればきもちのよいカタルシスを得られただろうに、それをしない。そして次回予告で変身した姿と名前を見せる。ストレートにはやらないという作劇への意欲が見える。



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一夜明け、腕の痛みは前回よりもたいしたことがない気がする。夜になる頃にはだいぶおさまっていた。

宮本浩史『映画 プリキュアドリームスターズ!』(2017)。登場するプリキュアが直近の3作品にかぎられており、春映画が「オールスターズ」でなくなったメルクマール的作品。アバン全体がフルCGだったり、プリキュア自身がミラクルライトの説明をするなど、新たな試みがおこなわれていたが、なんといっても低年齢層向けに舵を切った点がこれまでとのおおきなちがいだった。メタ演出の前面化ともいえる、映画館の館内を模した「観客とのかけあいシーン」がたびたび劇中にインサートされ、子供たちとの相互のコミュニケーションが目指されるとともに、戦闘シーンはコミカルで明るいものが志向されており、歴代の映画にあったような恐怖感はずいぶんと脱色させられていた。とくに、キュアホイップと赤狗の最初のバトルシーンは、お互いがゆっくりと歩み寄るカットから幕開けるつくりになっていて、これはこれまでとちがうぞと思わせるものがあった。キャラクターの頬にピンクが差してあるのも、幼い層に向けてのしかけのように思えた。Goプリのシーンでときたまあらわれる画面の四つ角に模様がくるくるする演出は、ウテナだ!とちょっとウケた。

田豊『映画 キラキラ☆プリキュアアラモード パリッと! 想い出のミルフィーユ!』(2017)。宮原直樹による、妖精たちにフィーチャーしたフルCG短編『Petit☆ドリームスターズ!レッツ・ラ・クッキン?ショータイム!』付。ハトキャ以来のパリふたたび! 単独映画にもかかわらずまほプリもゲスト参加!などのフックに引っ張られながらながめていると本作も低年齢層に標準を合わせていることがわかるが、前作よりもこちらにわたしが惹かれるのは、その明るさをつくりだす作劇の手腕にある。家賃の取り立てとカラスの大群が襲来するなか、暗闇に踊りながらミルフィーユをつくるジャン=ピエールの滑稽さ。建物がスイーツに変貌するさまを見たプリキュアたちに「建物がお菓子になった!」から「おいしそう!」と台詞をつながせる、とぼけたチャーミングさ。モチーフとなる動物(プリアラはお菓子と動物がそれぞれのプリキュアのモチーフになっている)がチェンジされることで起こる性格変容のばかばかしさ。うさぎモチーフのホイップが亀になってひっくり返っている際の台詞が、「起こしてください」でも「起こしてくれませんか」でもなく「起こしてくれ〜」なのがとてもいい。子供向けアニメでこうした語法をつかうためにはセンスが必要だが、的確な場面選択だと思った。2021年時点でのテレビシリーズ最新作『トロピカル〜ジュ!プリキュア』においてもそうだが、こうした明るいシーンにこそ土田の才は光る。ギャグとしてのパルフェのおでこアタックが、後半キメのポイントで再登場するなど、わらいの対象だったモチーフをシリアスへと転化させる技も冴えわたっている(観ていて、排気口じゃん!と思った)。プリキュアのちからをつかってお菓子作りをするシーンは、キュアマリンが自室の掃除のためにそのパワーを炸裂させた場面を思いだしておもしろかった。これは∀ガンダムが洗濯をする魅力と同義である。思いも寄らない場面で力能を発揮させること。「世界中をスイーツに変える」という黒幕・クックの目的も、キャラクター造形と同様、明るさを担うキュートさがあってよかった。

夜、焼き鳥(塩・ねぎま)、きくらげ入り酸辣湯風。うまい。

デヴィッド・リンチツイン・ピークス』(1990-1991)1stシーズン6-最終7話の途中まで。6話の展開のラッシュに目を離せなくなる。さまざまな思惑が交差し、死の影が次々に忍び寄る。こうやって観てきて、勝手にわけのわからん話がくりひろげられるのだろうなと思っていた先入観が突きやぶられてきた感がある。筋はきちんとしている。7話でのローラが犯されている場面をふりかえるジャックの口元のドアップがめちゃくちゃキモくてよかった。そのあたりまで観ていったん休止。8話まであると思っていたが、7話でおわりだという。さいごまでがんばって観た『レイズド・バイ・ウルブス』が心底つまらなかったので海外ドラマに抵抗感が生まれていたのだが、本作はたのしんで観れている。

ミャーの存命を乳房に刺青する

明確に寒い。居間に入ったところで意識せずに「寒い」と言葉が口からでたことで、それをしった。出勤する妹を見送る。

何も浮かばんなあと思いあぐねていたテキストにいざとりかかると、手が勝手にアイデアを引きこみ、スラスラ、とまではいかなかったがしまいまで書けてしまった。この体験に寄りかかるのは危険だが、行為のさなかにこそ何かが生まれることは信じたい。事前に書く地図を否定するわけではないが、現地の実感こそがわたしをうごかす指針になる。

幾原邦彦少女革命ウテナ』(1997)4-7話。4話、決闘直前をあたまにもってきて、そこから時系列を遡ってそこに至るまでを描く、それも次の5話まで引っ張るという構成にしてやられる。5-6話ではただでさえ秀でていたユーモアの炸裂が冴え渡っており、「まあ姫宮アンシー筆箱にでんでん虫入れてる作戦」から始まる七実の悪巧みの数々に大いにわらわせられた(「まあ姫宮アンシーって机の中に青大将飼ってる変な子だわ作戦」→「何と姫宮アンシークローゼットの中に生タコ飼ってる変な子だわ作戦」と展開し、そのすべてが失敗する、作戦を発声する際のイントネーションまでもがおもしろい)。影絵少女の寸劇に「かしらかしら、でも頭」とくだらないダジャレが織り交ぜられていたり、突然校内に「暴れ馬」が登場し、それが「暴れ牛」、「暴れカンガルー」と変転していったりするのもふざけていてよかった。西園寺がふところから交換日記をチラ見せしてアンシーとの関係性をこめて言い放つ「忍ぶ愛」の間もサイコーにすばらしかった。また、徹底的に否定していたものに敗れ、そもそもその否定の対象が呪いの元凶でもあったことが明かされる7話の話の展開には目を瞠った。同性愛が「普遍化」への度合いを深めているいまから見れば衝撃は薄まっているのかもしれないが、ファンのあいだでは「7話まで観て!」というのが通説となっているようで、その意味がよくわかった。それにしても1話あたりの密度、それも物量ではなく質に由来するものが毎話毎話ものすごくて圧倒される。

夜、レタスと豆腐の卵スープ、菊芋とベーコンとねぎのチーズカレー粉炒め。

安寧がほしいと思っている自分に気づく。わたしがしっているかつてのわたしは波乱こそをもとめていたはずで、丸まりを感じざるを得ない。精神の弱り。精神の衰えか。肉体だっておわっている。死んでる。ゾンビだ。いやだね!


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排気口 / 菊地穂波企画公演『金曜日から』のフライヤーをつくりました、あらすじ含めコピーも書いています、よろしくお願いします、制作ノートのようなものも載っている詳細はこちらより


デヴィッド・リンチストレイト・ストーリー』(1999)。幕切れの美しさ。本作は弟が病気の兄に会いにいくロードムービーだが、まったくドラマチックでない再会の直後に、カメラを上に向けるという最低限の所作できょうれつなエモーションを炸裂させることに成功している。道中で偶然出会うひとびとに宿るあたたかなやさしさが、ラストシーンの素っ気なさを照らしだす熱源となって、つよくかがやいている。いい映画だ、と思った。が、好きな映画かと言われるとちょっとちがう。べつに嫌いなわけでもない。好きなシーンはたくさんあった。たとえば、兄が倒れたことをしらせる電話がかかってくるシーン。窓の表面を流れる雨の影が主人公・アルヴィンに覆いかぶさり、電話に応答する娘の声が画面外からうっすらと聴こえ、「不安」が視覚化されていた。娘の喋り・イントネーションのふつうでなさもひじょうによかった。「真っ当な道」をはずれた人物たちの、素朴な生活の手触りがそこにあった。

アルヴィンが芝刈り機に跨って旅立つシーンで、彼の友人である老夫たちと、まったく関係ないであろう犬たちが道におどりでるところもよかった。華々しくない画面の、明るい騒々しさ。横切るトラックによって起こされた風に帽子を飛ばされたアルヴィンが、同じことはにどもくりかえすまいと帽子を守る仕草もかわいらしかった。彼のマシンのそばを何台も通り過ぎていくトラックもそうだが、とにかく彼はまわりのものものに視線を向ける。そのさまがいちいち愛らしい。鹿との衝突事故を目撃する際の、彼の顔面に対するズームアップと、激突音のかさなるさまもよかった。衝突の場面はカメラに映さずに、それを目撃する男の顔と、音だけでその出来事を伝える。これは、第二次世界大戦を回想する際に、その語りに爆撃機の音だけを重ねる場面にも適用されていて、つよい効果を上げていた。

ほか、鹿肉を焼くアルヴィンの周囲に鹿の剥製がずらずらと立ちならぶシーンのばかばかしさがよかった。

夜、豚しゃぶ、きゃべつ餅。前者のだしがらである昆布を刻んで後者に入れたのだが、ベリナイスだった。きゃべつ餅とはわが郷土である福島が一地方に伝わる料理だそうだが昨晩母の口からその名を聞くまでは存在をしらず、たまたま材料があったのでこしらえたのだった。ちぎったものでも、千切りにしたものでも、とにかく好きなように切断したきゃべつを油を敷いたフライパンにならべ、顆粒だしと砂糖を適当にまぶし、その上に切り餅をのせ、醤油をまわしがけて弱火で炒め煮する。甘じょっぱい餅がまずいわけはないし、何よりたまたま入りこむことになった刻み昆布がひじょうによいしごとをしていた。

adobeの使用に支障がでるのがこわくてbig surのosアップデートを見送っていたら、いつの間にかさらに新しいmontereyというのがでていた。こうやってずっと好機をのがしつづけるのが人生。かなしすぎないか?

ネリーブレン、ユウブレン、ヒメブレンのロボット魂での立体化、マジでうれしい。人生で唯一買ったプラモ(未組立)がヒメブレンなのでこれは買ってしまうかもしれない。ブレンパワードはいちばん大好きなロボットアニメ。つまりは、エルゴプラクシーと並んで、五指に入るマイベストアニメ作品である。ほかはなんだろう、テクノライズFLCLあたりだろうか。ふりかえってみると、WOWOWアニメに好きなものが多いのかもしれない。妄想代理人とか。

ぽぽぽぼ

村瀬修功閃光のハサウェイ 』(2021)。同じく村瀬が監督を務める『エルゴプラクシー』がこれまで観たアニメのなかで五指に入るほどに大好きな一方、伊藤計劃原作の『虐殺器官』はあんまりだった(小説はラブです)にんげんですが、これはサイコーでした。アニメでリアリズムをやることに懐疑的なわたしでも、その文法をつかってここでおこなわれている「いままで観たことのないガンダム」には興奮するわけです。あの画面を横切る火と重量の鮮烈! 視点をモビルスーツではなく地表に置くことがきょうれつな効果を発揮していました。とりわけ、メッサーとグスタフ・カールの衝突によって引き起こされる「花火」には感嘆するしかありませんでした。美と死とが、画面上ですばらしい結合を魅せていました。この感慨は「ガンダム」という枠組みにも左右されているのかもしれませんが、だとしても、そのかがやきはそれを突破する光度をもっていたように思います。

テロが跋扈している時代であることを伝えるアバンや、ギギとハサウェイの会話におけるNT的会話の洗練具合、そしてその会話を言葉ではなく動作と風景で見せるスタイルなど、細やかな部分への配慮も目を惹きます(話している最中にカメラのフォーカスをずらすテクニック)。ギギから受けとったマグカップをわざわざ回転させて同じ飲み口を避ける描写なんかも、観ているこちらにウフ、みたいな気分をもたらしてくれます。ほか、ハサウェイがその瞬間に心底囚われていることがひと目でわかるクェス・フラッシュバックの鮮烈さや、成層圏(?)でエメラルダ(このテキストを書くために名前をしらべなおしていて声がトロプリのみのりん先輩と同じことをしっておどろきました、観ている最中にはまったく気づかなかった、、石川由依の技量……)が物資をキャッチする際の緊迫感あふれる演出なども見事でした。観ているこっちがちゃんとドキドキできるこわさと迫力がありました。できることなら第2部は劇場で観たいなと思いました。アムロの声が響く際の音響設計、すさまじかったです。

富野作品マラソンはここでいったん小休止?と思っています。キングゲイナーVガンダムGのレコンギスタがU-NEXTの見放題に入ったら再開します。海のトリトンもアリです。ザブングルとダイターンは観ることができますが、どうなんでしょうか。ブレンパワードのブルーレイを買って再見するという手もありますね。メディアを変えてハサウェイの小説を読む道も。ガーゼィの翼とリーンの翼も気になります。なお、ウテナ以外にもう1本走らせるアニメは、スペース☆ダンディにしようかと思っています。併読・併観スタイルがわたしのつねです。

デヴィッド・リンチマルホランド・ドライブ』(2001)。明るい音楽に彩られた影と分裂のデュオダンス(そう、このオープニングにいろんなものが象徴的につまっている……)という、おっ、と惹かれるサイケな導入からしばらくながめていると、次第にあまり好きではないのかもなと思いはじめるようになるが、おわりに向かっていくにつれてまた興味がふくれあがり、やがて四方八方に拡散した。そんな鑑賞だった。リンチは〈画のイメージ力〉ではなく、〈展開のイメージ力〉でものを作るひとなんだと思った。たとえば、観たものにつよいインプレッションを残すであろう泣きニー(泣きながらオナニー)をする場面も、その画自体というより、そのシチュエーションのあらわれかたに重きが置かれているように思った。笑顔の老夫婦が追いかけてくるシーンがあるが、それも最初の登場時に「こいつら死ぬんじゃないか?」と思わせてくれる不気味さがあるからこそ光っている。画づくりに言及するならば、「死角」に不穏を宿らせる構図の多用や、目のアップの多さが挙げられるが、なかでもダイナーで男二人の会話をとらえる際の微動するカメラワークにきもちわるさがあって印象的だった。

同じくリンチ『ツイン・ピークス』(1990-1991)1stシーズン5話。「私たち思いやりがありすぎるわ。人のために欲しいものをあきらめる。死ぬまでそうよ」と不倫相手であるエドに語るノーマ。いい台詞だと思った。情によっていまの相手と別れることのできないことを、このように言葉にするのかと思った。ほか、オカルト推理をおこなっているクーパーが、事件をこの丸太が目撃したのよと語る切り株を抱えたおばさんのことを拒絶するさまや、ローラパパの泣きダンス、発砲シーンに滝の落下するカットをつなぐ編集などがよかった。リンチは泣きながら何かをするアクションが好きなのだろうか。

夜、すき焼き風のなにか。白菜、しらたき、しいたけ、豆腐+牛豚mix。


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かつてのかなしみが身中にこみあげるとき、みなさんはどのように対処していますか。ふとしたときによみがえるひりひりした記憶が、わたしのこころを蝕みます。なぜ、どうして、といった言葉がうちがわを裂いてゆきます。

朝から夜までよくはたらく。イヤホンを買わないと夕方以降の能率がやばい。きちんと孤独に制作をしたい。

夜、ひき肉と大根の葱スープ、豚牛筍のガーリック味噌オイスター炒め。うまい。

メールを打っているとき、文章があたまのなかで渦巻いてニュータイプになりてえ!と思うが、なったらなったで「伝わりすぎて」あるいは「わかりすぎて」しまってすぐ破滅するのが目に見える。ガンダムで得た教訓。このアンヴィヴァレンツが作品を彩っている。もっと気楽さをもってひとと関わったほうがいい。よくない。バランスだ。うるさい。胃が痛い。苦痛を味わうことへのブランクができている。味わわなくて済むのならばそれに越したことはない。甘い話ばかり考えている。

夜、豚バラとブロッコリと菊芋の炒めもの。かつぶし・にんにく・カイエンペパー・醤油をベースに。うまい。

妹に弱音を吐く。弱音を吐けるひとが身近にいるのはとてつもない救いである。彼女もいま岐路に立っていて、さいきんはよくその進展に相づちを打っている。よい道を歩んでいってほしい、と書くときの「よい」の内実はなんだろうか。「後悔しない」ことか、「自分のきもちに逆らわない」ことか、「より自由にふるまえる」ことか。これまで臨んだ自身の岐路を思いかえすに、そのような言葉が浮かんでくる。

犬と骨

 実家の犬が生き返った。享年二十で死んだから、死ぬことなく生きのびつづけていれば今年で五十になっていた。が、当然のごとく生きのびつづけることがなかったので、いま電話の先で吠え立てているジョニーは、いま、まだ、二十歳のままだ。生まれたのはたしか夏の盛りだったので、あと二、三ヶ月もすればふたたび齢をかさねることになるけれど、じゃあいったいそれは何歳と呼びあらわすことができるのか、ぼくにはよくわからなかった。そういうことだから、とにかく、と母はなるだけはやい帰郷を促し、愛犬の死に目と生き目──生き返り目? どちらにせよそんなふしぎなことがあってたまるかという不可解な心持ちを胸に巣食わせながら──に立ち会いそびれた新旧の後悔に追い立てられるようにしてなつかしい地名の印字された切符を買い、押し入れからひっぱりだしたキャリーバッグに荷を詰めはじめた。連休はじめの、うわついた昼下がりのことだった。
 ジョニーはぼくが生まれる前から実家の庭を走りまわっていた。父の手でそれなりに整備された芝生の上を風のように駆け、ときにはその場で宙返りなどもしたりして、まだ幼かったぼくの姉を驚かせもした。父も姉も、もうこの世にはいないから、そんな風景は二度と見ることができない。ジョニーが死んでからは庭も手入れされる回数が減って、父がその生を全うしてからは、ぼうぼうののび放題となったさまざまな草花が母の目をたのしませた。ある基準に則ってきれいに整備された庭園よりも、雑然とした荒れ地のほうが風情があっていいじゃない、というのが母の風景に対する持論で、父の存命中には周到に隠し通されていたその欲望が、箍を外したようにあふれた結果がいまぼくの目の前にひろがっている光景だった。ひょろっとした茎の先で、橙の花をぷらぷらとゆらす草が楽隊のように身を立たせている。
「意外と秩序があるでしょう」
 茶の入った湯呑をふたつ盆に載せ、母が戻ってくる。
「あそこに並んでるオレンジいのがナガミヒナゲシ。その奧の白いのがハルジオン。もうだいぶにぎやかになっちゃってね。ほら、あのあたりにはタンポポなんかも咲いてるの」
「うん」
 ぼくは手渡された茶を啜りながら、母の声にしたがって花の咲くのをながめる。陽の光を受けてつやつやとかがやく緑の上にひらくさまざまな花弁の合間を、ひらひらと蝶々が飛ぶ。母が「にぎやか」という言葉であらわした庭は、複雑な線によってみたされていて、ぼくの立ち入る隙は一分もないように思えた。じっさい、足の踏み場をつくるには、草花の上に汚れた靴の裏を押しつけるほかはなかった。記憶のなかの庭は明確に区分けがなされていて、もっと単純なすがたをしていた。当時は庭を見て「単純」なんて思いもしなかったが、よく茂った眼前の植物たちの存在が、事後的にそのような解釈を促していた。のどを通り過ぎた茶の味は、むかしとまるで変わりがなかった。
「ところでジョニーは、」
 切りだすと、母は胸の前で手をたたいて「そうそう、そうよね」とお茶を淹れに台所へ向かったときと同じように家の奥へとひっこんでいった。電話を受けた折には、母の発語に覆いかぶさるような元気な鳴き声が前のめりにはずみまわっていたが、ぼくがここに到着してからはたったのいちども聞こえてこなかった。耳には川の流れる音がしていた。家の裏手にコンクリートでつくられた細い水路があり、そこからひびいてくるのだった。
「ほおら、ジョニちゃん」
 せせらぎを割って、母の声がきこえた。長い年月をかけてたくわえられた脂肪と贅肉とが鳴りに深みを与えている廊下の軋音がだんだんと近づいてきて、母が体躯をふるわせて角を曲がってくるすがたが想像された。ジョニーの四つの脚先についた爪が立てるカチャカチャという音はそこに含まれていなかったが、そのひびきをつくるちょこまかとしたうごきは脳内で再生されていた。その動作の少し上、黒く湿った鼻先がついているはずの場所に、母の両眼があらわれた。思い描いていた位置とはまったくはずれた、床から三十数センチというところに、母の顔面が出現した。
「ワン、ワン」
 丸々と肥ったふたつの拳が、つめたい木の板をたたいて再会のよろこびをはげしく伝えていた。あふれんばかりの歓喜が獣じみた声となって、四つん這いのからだから発散されていた。その拍子に、咥えられていた骨が口もとから落下し、おもさの感じられない音を立てて、もろく砕けちった。

fixed a pool, tutorial needles

出渕裕のロングインタビューを読む。媒体特性のことを考える。原稿のなかでも触れられているが、だれしもが他者の検閲なしに文字をパブリッシュできる時代であることと、事実上「紙幅」の存在しないインターネット空間について。精度や密度の高いテキストは、さまざまなしかたで「限定化」されることによってしかじつげんできない。時間芸術は区切られることによって「作品」となる。構成の話とはまるきり逆の「唯一の型」の話をしている気がして、嫌気が差してきた。

キャラクター性について。わたしがジョナス・メカスを愛するようなまなざしが、富野由悠季にも注がれている、インタビューのなかで披露される彼のエピソードのいちいちを読んでいて、そう思った。好きな作品をつくる作家自体も作品と同じ様に愛せることは幸福である。

夜明け前のふとんのなかで、みじかい小説を書くのを再開しようと誓った。おわらせる回数が必要だと思った。なまけている場合ではない。

デヴィッド・リンチツイン・ピークス』(1990-1991)1stシーズン4話。くりかえされるinvitation to love...…。テニスのラリーを場転の開幕にもってくるのがよかった。

夜、焼きほっけ、かぼちゃと鶏のトマト煮。

トロプリ36話。不穏さへのアクセル全開! 底抜けに明るいプリキュアだっただけに、そのドス黒さが引き立つ。記憶を吸い取る装置をそのうちに備えつける人魚の国・グランオーシャン。禁忌とされていた生き物のヤラネーダ化解禁。伝説のプリキュアと後回しの魔女の暗い過去とともに、シリアス展開への扉がいよいよひらいた感がある。人魚の国へ行けるとしったみのりん先輩のアトランティスムー大陸ニライカナイへの連想や、ローラが貝から生まれることをしったプリキュアチームの貝の名前列挙遊びが愉快だった。ハードな展開だっただけに、全体的にいつもよりもスローでていねいな演出がおこなわれていたように感じられた。

バイス10話。仮面ライダーエビルevilから仮面ライダーライブliveへの反転のアツさ! 単純だけど、戦闘シーンでかかるオープニング曲「liveDevil」と、「白黒つけようぜ」という前口上もあって高揚するものがあった。そしてさくらの闇堕ちの布石! つぎはどうなるの?と思わせてくれる話運びがうれしい。連続ドラマの現在形。


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夜、ベーコンと玉ねぎと燻製チーズ入りポテサラ、酢鶏。むろん、ボウルにいっぱいつくる。豆乳でのばしてなめらかスタイル。無限に食べられる。わたしはポテサラが好き。

idles『crawler』を聴く。全体的にロウな気分がありつつ、おどけた空元気の痛々しさが切実なものとしてひびいてくる。ひさびさに和訳記事書こうかなというやる気がでてくる。

朝倉かすみ『てらさふ』読みおえる。おもしろかった。日本の文学のフィールドには純文学とエンタメの二分法があって、巻末の広告や連載時の掲載誌が『別冊文藝春秋』であることから、本書はその後者に属することが窺われるのだが、読んでいる最中も、読みおえたいまにあっても、その境界線はずいぶんとたよりないものだと感じられた。そもそも「巻末の広告や連載時の掲載誌が『別冊文藝春秋』であること」という外縁的な要素が理由になるのが、その不安定性のあらわれである。

内容についてはこれまで小出しに触れてきたのであらためてまとめることはしないが、印象にのこった点をいくつか書いておく。冒頭で主人公ふたりの夢のなかのイメージとして「カーテン」と「ガーデン」を対比させているのがまずよかった。これはのちのち卵の「黄身」と「白身」に展開していくが、その役割のありかたを考えるに、おもしろい変転が起こっているように感じられる。遮蔽物と、鑑賞される対象。

「ニコは書かなくていいから」
 ピースマークみたいな笑顔を浮かべる。
「心配しないで」

高橋さんも井上さんも編集長もみんなからだじゅうから紙吹雪を出しているように喜んだ。

といったよろこびのさまを伝える比喩表現もおもしろかった。ピースマークも紙吹雪もうれしいきもちと結びつくものではあるが、それを笑顔やようれしがりかたに直接接続するところに作家の手腕が光り、言語芸術のたのしみがあらわれるのである。

滝沢敏文『聖戦士ダンバイン New Story of AURA BATTLER Dunbine』(1988)1-最終3話。ポリゴンフラッシュ、ポケモンフラッシュ、パカパカ、呼びかたはなんでもいいが、クライマックスの画面明滅がすごすぎてあたまが痛くなった。イデオンでもビビった記憶があるが、その比ではないきょうれつさ。画面全体がすさまじい速度でビカビカにフラッシュし、それが長時間つづくものだからしばらくうごけない身になった。たかが光りの点滅だけで、ほんとうに体調がわるくなるのである。ギャスパー・ノエの映画とかって、これよりすごかったりするんだろうか。

作品自体は微妙な印象。尺稼ぎに見える間延びした演出を随所で感じ、スローなカメラ移動をともなうカットの長さや、不要な反復が散見される。予算があまりなかったのだろうか。古生物感のあるオーラバトラーのデザインはカッコいいのだが、いかんせん動かない。その動かなさも重厚さやふるめかしさの演出だと言われればそれまでだが、物足りなさのほうがまさってしまった。OVAと映画だから、単純な比較にはそぐわないけれども、逆シャアと同じ年に公開されていてこれか、みたいな。うなぎと百足が合体したようなサンドワームのフォルムは、ちょこまかとうごく脚のうごきも相まってきもちわるくてよかった。バイストン・ウェル物語は富野の生みだした世界だし、本作にも監修でかかわってもいるので、一応富野作品マラソンのタグをつけておく。

かしこい足並み

同人誌の2号を発刊。しらないひとにとどいてほしい。SNSをひさびさに稼働させる。

干刈あがた『十一歳の自転車 物は物にして物にあらず物語』、1編読む。

夜、にんにくきかせた鶏と蕪のスープ、ねぎのせ三角揚げを焼いたもの。

同人会議。ぶじ刊行できたことをおたがい祝い労いつつ、邦キチの池ちゃんの話、シュレーバーの話、日本のネオリベムードの話などを4-5時間くらい話しこむ。社会構造に目を向けず、起きている出来事にしか意識を向けない「われわれ」のむなしさ。教育の失敗? この状況って変わりうるのか?とあたまを悩ませた。弱肉強食の世をのぞんでいるひとびとが、弱者によるちゃぶだいがえしに文句を垂れるのはおかしいというOの話、もっともだと思った。いま起きている反乱は、おまえらの希望する世界が生みだす必然でしかない。そんな世界、どう考えたってまちがっている。

ここで立ち止まって考えてみたいのは、ネオリベを憎悪しつつも「反乱」を称揚するわたしは「弱肉強食」の世界を望んでいるのかということだ。答えは否である。〈世界〉そのものの否定としての反乱を肯定しているだけであって、その出自を肯定しているわけではない。たとえ弱肉強食の世界でなかろうと、こぼれ落ちるにんげんはいるわけであって、そのひとのどうしようもないさいごの抗いをわたしはむやみに咎めたくはない。その声に、きちんと耳を澄ませたい。これは先日書いたことと通じている。


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富野由悠季機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988)。10年ぶりくらいの再見。泣く。かつて観たときのおもしろさの記憶は視聴のあいだに色褪せていったが、そのぶん、べつのおもしろさが作品の輪郭線を新たに引きなおしていった。わたしがなみだを流しているのは、エモーショナルを炸裂させる画面と、高度に抽象化された言葉の応酬のとりあわせが生む「圧倒的なわけのわからなさ」にである。わたしのなかでは、わけのわからぬままに打ちのめされる感動こそが、あらゆる感動のなかでいっとう胸を打つものとしてあるので、もうこのおわりだけで万事OKみたいなところがある。

クェスが父とその愛人とともに飛行機に搭乗しているシーン、カットを割って左右から彼らの会話をとらえていて、印象にのこった。同じ画面内で「家族」として隣りあって座っていても、そこには切断があることを視覚的に伝えてくれる。これはのちに彼らが搭乗するシャトルにあわや隕石衝突かという場面で、神に祈る父に向かって唾を吐き捨てるクェスの動作を準備してもいる。観かえすまではアムロvs.シャアの印象だけがつよくのこっていたのだが、彼女と、その対となるハサウェイにも結構な度合いでカメラが向けられていて、作品全体への認識をあらためさせられた。以下は大人たちの影響を過敏に受けとるふたりがニュータイプ論をかけあう場面。

「インドのクリスチーナが言ってたのとちがうな。ニュータイプは、ものとかひとの存在を正確に理解できるひとのことだよ。それもさ、どんなに距離が離れていてもそういうのがわかるようになるの」
「ああ。人間って、地球だけに住んでいたときはあたまの細胞の半分しかつかってなかったんだろ? それが、宇宙にでて、のこりのあたまの部分を使うようになれば、テレパシーだって予知能力だって高くなるよな。じゃないと、地球とコロニーで暮らしてたら家族だなんて思えなくなっちゃうもん」
「あんたんとこの家族はわかりあってんだ?」
「親父、いつもうるさいけどな」
「うちなんか、家族で地球にいたんだよ」

遠くても、わかる。離れていても、わかりあえる。ここで話されていることは、ZZでジュドーとリィナの関係性をもとにエルとルーが話していたこととつながる。ふたつの会話をつなげれば、にんげんが原初的にもっていた潜在能力としての「テレパシー」や「予知能力」が、テクノロジーに寄りかかる生活によって失われていき、それが宇宙にでることによって再活性化することになるという流れだ。「じゃないと、地球とコロニーで暮らしてたら家族だなんて思えなくなっちゃう」に、わたしはつよい説得力を感じる。すごい想像力だと思う。

一方、「大人」のシャアとナナイはこのように言葉を交わす。

「私は、宇宙にでた人類の革新を信じている。しかし、人類全体をニュータイプにするためには、誰かが人類の業を背負わなければならない」
「それでいいのですか? 大佐はアムロを見返したいためにこんどの作戦を思いついたのでしょ?」
「私はそんなに小さい男か?」
アムロ・レイはやさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている男です。女性ならそんな男も許せますが、大佐はそんなアムロを許せない」

おたがいを家族だと思いあえるようなニュータイプの特性を「やさしさ」と名づけること。しかし、それは欺瞞なのではないかとナナイはシャアのきもちを代弁する。地球潰しをアムロ咎められたシャアは、ならば「重力に魂を縛られ」、地球にへばりついて自分のことだけしか考えられない「愚民どもすべて」に「いますぐ」「叡智を授けてみせろ」と挑発し、その言葉に自身の家族を省みて瞬間的に共感を──あるいはアムロに反発を──おぼえたクェスは、この問答をきっかけにアムロ-ハサウェイのもとから離れていくことになる。このシャアのいらだちは単に独りよがりなものではなく、電車に同乗した民衆たちから花や歌を贈られるシーンがあるように、スペースノイドのあいだでは彼はカリスマ的な存在として熱烈に支持されている。シャアの考えがひとびとの深いところまで浸透しているわけではないだろうが、肌感覚での共感がそこにはあるのだ。

細々とした点にも触れていくと、ドック内でチェーンがνガンダムコクピット目掛けて飛んでいく際の動作がとてもよかった。アムロを部屋の前で待つシーンとともに、彼女のときめきが身体にあらわれている。身体といえば、ハサウェイが漫画のようなはしゃぎ脚を披露するカットがあり、ヌケのピークとしてその場面を見た。緩急のつけかたがおもしろかったのも、今回観かえしていて気づいた点だ。かわいさということであれば、ギュネイの搭乗するホビー・ハイザックのカラーリングがちょうキュートだった。ラストのアムロコクピットに必死にしがみついてガタガタやってる描写も、滑稽さと紙一重の演出で、このようにして振り切れたシーンが名場面として残るのだと思った。また、アクシズが落ちてくるかもしれない、という場面でミライとチェーミンがホンコンを脱出しようとする際、街中での爆破テロのカットがインサートされているが、それに対してひとびとがほとんど無反応であることが印象にのこった。地球の荒廃ぶりをよく伝えるシーンのように思えた。

逆シャアはほぼ「スピリチュアル」といっていい結末を迎えるが(そもそもニュータイプニューエイジ思想の賜物だ)、その片棒を担ぎたくない一心でしごとを辞めたわたしが本作をこんなにも受け入れてしまうのはなんでだろうかと思った。フィクション(嘘っぱち)における「奇跡」のような描写に惹かれてしまうことと、げんじつにおける「(嘘っぱちの)奇跡」に嫌悪をおぼえることは、根を同じにしている気がする。

スピりにも、先に触れた「叡智」にも関連するが、「しかしこの暖かさを持った人間が地球さえ破壊するんだ。それをわかるんだよ、アムロ!」「わかってるよ! だから、世界にひとの心の光を見せなけりゃならないんだろ!」というラストの問答は、後年のロランの発言につながっていくものでもあるだろう。そこには共通してひとへの信頼を見いだすことができる。アムロとシャアという、にんげんへの信頼のふたとおりの道のりが、サイコフレームのかがやきのなかでとけあい、地球を照らす光源として結実する。その光は、いま発されたばかりの産声とも共鳴し、未来へと注がれる。泣くしかない。

冬野梅子の『まじめな会社員』単行本化の報、うれしい。大山海『奈良へ』といっしょにひさびさに漫画を買おうかなという気分。川勝徳重の『アントロポセンの犬泥棒』も。

同速の口笛

ようやく芽生えたがんばろうと思うきもちを、どのようにして枯らさずに守ってやれるか。

朝倉かすみ『てらさふ』を6章のあたままで。起承転結でいえば転の域。そっちにころぶんだーとたのしくなる。

デヴィッド・リンチツイン・ピークス』(1990-1991)シーズン1の1-3話観る。2話のラスト、クーパーの夢が物語にからみはじめたあたりから作品のアクセルがグッと踏みこまれた感じ。毎話新たな人物が意味深に登場していくが、このような語りを文章でやるとどうなるんだろうと思いながら観ていた。ちゃんと読んだことないがピンチョンとか? それなりの尺を取って冒頭に流される「これまでのあらすじ」がおもしろい。時系列の操作やシーン選択によって重要度が決定づけられる編集のたのしさがある。暴力を振るう際にラジカセのスイッチをONにしたり(巨大化したように見える空間のみせかたもうまい)、ビンタをされてケーキにタバコが突き刺さったりするなどの演出がふざけていていい。石当てで犯人を絞っていくオカルト推理のくだらなさ。娘の死を嘆く父がのしかかることによって上下運動する棺の馬鹿馬鹿しさ。

夜、豚汁。豚バラ・ごぼう・長ねぎ・大根・里芋。生姜・にんにく・あごだし・酒・ごま油・塩胡椒・醤油・味噌。

ブックマークに登録してあるブログを読んでいると、日曜の夜23時頃にいまから資料をつくって先方に送れないかなと上司から打診されるくだりがあり、書き手は絶句しつつもそれを了承するのだが、読んでいて、自分のなかではげしく点火するものがあった。時間外労働をさも当然のように要請する上司も、それを拒否せずに請け負う部下も、日曜の夜中に資料が送られてきて「あ、こんな時間まで向こうのひとたちはしごとをしているんだ」と思う先方も、そう思わせようとする資料を送る側の思惑も、あるいはそうした関係性によってまわる社会も、すべて破壊しつくされればいい。かつてその現場に身を置くことで培かわれた怒りは、消えずにずっと燻っていることがわかる。永遠の焦土。

明け方から夕方までよくはたらく。


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田中裕太『魔法つかいプリキュア! 奇跡の変身! キュアモフルン!』(2016)。ミラクルライトの説明→変身→タイトルバック→オープニング中に戦闘→名前入りカットインの挿入、とこれまでのプリキュア映画の蓄積が詰まりに詰まった快い幕開け。なのだが、作画の感じがこれまでのプリキュアとちがっていて、ちょっと違和感がある。何より、編集があまりきもちよくない。それともコンテが微妙なのだろうか?とあまり好ましくない印象ではじめのほうは観ていったのだが、タイトルにもある「キュアモフルン」の誕生には心がうごかされた。なんてったって妖精がプリキュアになるのである! それだけで勝ち!

「二人性」回帰の話を前作に触れた折にしたが、とにかく「手つなぎ」描写にちからを入れていたのもよかった。挿入歌多めのスタイルも、これまでのミュージカル的作風を取り入れている感じがあり、おもしろかった。ナウシカっぽさもある魔法界の夜の色調・背景は、アンニュイかつドリーミーなムードをつくっていて、目を惹かれた。モフルンとキュアミラクルが再会するシーンでは、過剰なまでの物理的な距離(流し見していた妹が思わず「遠くね?」とツッコミを入れていた)とそこからもたらされる声の遠さによって、ふたりがだんだんと近づいていくさまを演出していて、かなり攻めているなと思った。映画館で体験したかった。一方、戦闘シーンでのカメラワークやアクションがこれまでの作品に比べて弱い気がしたのだが、分身の術みたいな決め技はカッコよかった。クマタという別名をもつダークマターという敵キャラの名づけかたも、ひょうきんさがあってよかった。

夜、はんぺんチーズ焼き、ちくわと豆腐と白菜の味噌汁。食べずに寝る。3時間ほどでめざめてしまい、食事を摂る。ブログを書く。

つくったものに対する長い感想文がとどき、いたく感動する。作品のなかに練りこまれているわたしのこんがらがった無意識が、一本一本ていねいにほどかれてならべてあって、そうか、そうだったのかと自分の手つきの理由を、他者の言葉によって理解する。それは愉快なことである。

富野由悠季機動戦士ガンダムZZ』(1986-1987)34-最終47話まで。これって、あり得たかもしれないシャアの話なのか!?と最終盤に突如出現したセイラのすがたを見て思った。よくよく考えてみればシャアとセイラの関係に対応するようにジュドーにもリィナという妹がおり、なおかつプルとプルツーの姉妹関係や、ムーン・ムーンの双子、漁村の兄妹など、作品を通じてしつこく兄弟関係にスポットを当てている。熟慮するつもりもその観点から観かえすつもりもないが、そう考えると逆シャア再見にひとつたのしみが加わったよう。だけどセイラって逆シャアにいなかったような、、

34話、船を離れていたブライトが、ネオ・ジオンの襲撃に際して「なんで動いてないんだ?」とアーガマに憤っていたのに、いざ飛び立つと「誰が動かしている!」と感情が変遷しているのがよかった。状況によって変動するにんげんのこころ! あるいは、台詞が示す状況の変動! 今回のタイトルは「カミーユの声」だが、ラストでzのOP曲である「水の星へ愛を込めて」を流す演出のにくさと言ったらなかった。さらには次回予告でその死が宣告されるハヤト! じっさいの35話では、ハヤト機に直撃後、ZZ合体シーンを挟みこんでから撃墜させる編集にしびれた。37話ではブライトが退場し、子供たち≒ニュータイプが前面に押しだされることになる。その目線を敵方にむけてみても、ハマーンだって、グレミーだって、もちろんプルツーも決して大人ではない。そんななか可変MAジャムル・フィンを駆って登場するヴェテランの3D隊(ダニー、デル、デューン)のカッコよさったらないが、38話ででてきたっきり彼らの顔がふたたび画面にあらわれることはない。40話では子供の盗人集団がでてくるが、それはかつてのジュドーたちの似姿でもある。ずいぶんと序盤のコメディ展開から遠くにきた感があるが、中華なコロニーで旧式MS大戦が起こるひょうきんさもまだ残っている(ハマーンアッガイに搭乗する!)。

それが象徴的に突き破られるのは、物語から長らく退場していたマシュマーが引き起こす、自身の掲げていた「騎士道」とはまったくそぐわない「コロニー落とし」によってである。ZZの最終盤は、ニュータイプの亜流としての強化人間戦争と成り果てるが、あれだけ明るいキャラクターだった彼やキャラ・スーンがその犠牲となった末に爆散するさまはさびしいものがある。強化の実態が暗に示されるだけなのも効いている。対比の構造でいえば、グレミーをルーに落とさせるのも冴えていた。

おわりのムードはエルガイムにちょっと似ていた。再会と、旅立ち。ジュドーが思わずハマーンを救ってしまう場面があった(42話)が、そして最後の戦いでふたりが通じあうかのような描写があったが、そのことが彼を新たな地へと旅立たせたのだろうか。全体としては、エルガイムと同程度の作品としてわたしの胸のうちに刻まれた。

夜、人参とレタスのハリッサマヨサラダ、アジとカレイのみりん干し。魚があまり食卓にのぼらないという妹からのリクエスト、祖母の健脚を願いながら買いだしに連れて歩き、帰り道にふたりで三日月をながめた。彼女の体力は数ヶ月前よりも落ちている。カレイのほうが美味だった。