富野由悠季『∀ガンダム』39-46話。39話「小惑星爆烈」、核弾頭が地球上で爆発してしまう描写を踏まえて、「人の叡智が生み出したものなら、人を救ってみせろ!」と月に落下する小惑星を爆破させるために核をつかうロラン・セアックのすがたに感動する。人を殺すための武器も、人を守るためにつかうことができる。「道具なら使いようがあるはずだ!」(44話「敵、新たなり」)ともロランはいっていた。ひとへの信頼に裏打ちされた言葉である。
42話「ターンX起動」での足場が謎に上下する会話劇もたのしく観た。アグリッパが宮殿を脱出するため、という物語上の理由づけもあるのだが、それだけではディアナらの昇降の理由にならず、台詞を補強する「演出」の前面化シーンとして観た。黒沢清『クリーピー』などにも見ることのできる、こうした過剰さを伴った演出がわたしは大好きである。何話か忘れたが、ギンガナムとアグリッパが通話をしている際にギンガナムの顔が映るディスプレイが大きくなったり小さくなったりする箇所もよかった。こうした「過剰」が「アニメ」という媒体の特性をよく利用したかたちであらわれていたのが44話「敵、新たなり」だった。至るところで意味づけのための誇張された表情が頻出し、これこそがアニメ-絵だからこそできるリアリズムの膜を突き破った表現だと思った。最終盤、自らのふるまいをふりかえって困惑にみちた台詞を吐くミドガルドを、ジグザグに走らせることでその錯綜ぶりを示すシーンが白眉だった。このような場面にたのしさを見ることは、「アニメ」でリアリズムをやってどうするのだという話にもつながるが、それはラジオで話すことにする。『虐殺器官』に噛ませていうなれば、本作にでてくる「人間の闘争本能」はわりとちかい部分に光を当てているのではないか。
ほか、43話「衝撃の黒歴史」はまさにタイトルの通り。これまでのガンダム史を総括するために『機動戦士ガンダム』をはじめ、過去の作品のカットが画面に映しだされる展開は、リアルタイムで観ていたひとはあたまをブチ抜かれたのではないだろうか。20年後に観ているわたしにもかなりのインパクトを与えるシーンだった。ここにきてOPもEDも変わったが、「月の繭」のイントロが流れはじめるだけで瞳がうるんでしまった。OP映像のターンX、バンデット、∀ガンダムの仲良さげなならびがかわいい。
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夜、鶏ごぼう、菊芋のかつおぶしマヨ和え。菊芋は煮立てた醤油・酢・砂糖の混合液に着けてピクルスもつくっておく。芋はまだ残っているので唐揚げにして食べたい。
戸田ツトム特集の『ユリイカ』の読んでいなかった記事をパラパラ読み、かつてのスタッフが事務所に在席していた当時をふりかえる文章を目にして、わたしも回顧の精神にとらわれるなどする。
風呂に入りながらブログを読んでいると金曜ロードショーでやっていた『ハウルの動く城』について書いているひとがおり、そういえばわたしもぶつ切れに見たなと思いかえした。集中していなかったのもあるだろうが、以前に観たときよりもたのしめなかった気がする。来週の『ゲド戦記』のほうが気になる。ちまたでは評判がわるいが、よかった印象があるのだよな。