淡水公園から歩いて5分

8冊目、長嶋有『猛スピードで母は』。文藝春秋社、2005年刊。単行本は2002年にでている。ふたつの中編が収録されており、先に入っているデビュー作「サイドカーに犬」を読んで放置していたのを、さいごまで読み通した。深夜の読書にぴったりの、たまらないきもちになる。サイドカーの方は読んでからずいぶんと間があいてしまったので、比重としては表題作にかたむきながらふれていく。両作とも家父長的国家が「正統」とするものからはみだしたところにある家族のすがたを、子供の視点から描いたもので、1本目では娘と父の恋人の、2本目では息子と片親である母の関係性を主軸に、淡々と言葉が積まれている。そのあっさり加減がとてもよい。エモーショナルな出来事を描く文章がエモーショナルでないことが、かえって読者にエモーションを催させる。読んでいる最中は気づかなかったが、いまこの文章を書いていて、もしやアゴタ・クリストフ的なのか?と思った。が、同時にやはりちょっとちがう気もする。


前回触れた『逃亡くそたわけ』でも頻出していたが、本作にも方言がでてくる。

いきなり炊かずにしばらく置いておくことを「米をうるかす」といった。「うるかす」という言葉が標準語でないと知ったとき、慎はずいぶんうろたえた。自分の過ごしたある時間をまるごと否定された気がしたのだ。(長嶋有「猛スピードで母は」)

うるかす。北海道の言葉としてでてくるが、これは東北でもつかわれるもので、わたしにとってもなじみ深い言葉である。変換したら「米を売るカス」とさいしょにでてきた。標準語にしてみれば、ふやかすとか水に浸けておくとか、そういう言にいいかえられるだろう。いま引用箇所を打ちこみながら思ったのは、うるかすを「標準語でないと知った」のは、作中時間にはあらわれていないずっと未来の話ではないかということだ。方言を方言として自覚する*のは、標準語と相対したときで、北海道に住んでいるかぎり、慎がそれを自覚するためには遠方からの転校生に遭遇するとか、他者の存在が必要になるが、そんなシーンは本作のなかに存在しない。「サイドカーに犬」でも大人になった「私」が過去をふりかえる回想的な構造が導入されていたが、本作でも遠い未来の時間が織りこまれているのだ。

*方言を方言として自覚する
この方言が自覚される構造は、アイデンティティについてグレイソン・ペリーが『男らしさの終焉』で述べていたこと(「私たちはアイデンティティについて語るとき、車椅子に乗った黒人のムスリムレズビアンといった人を思い浮かべる。これは、アイデンティティが疑問を投げかけられたり脅かされたりするときにのみ論じうる問題になるためだ。自分のアイデンティティがうまくいっているときにはアイデンティティを意識しない」)と通じる。


本作の推進力は子供的感性だ。主人公である子供の五感がさまさまな起伏をつくり、物語を前へ前へと推しすすめていく。

一人で部屋に長くいると上階の物音がよく聞こえる。ボールを落としてバウンドさせたような音や椅子をひいた音などがかすかに響く。たまに諍いのような声も。その度に慎は上をみあげた。みえるのは天井と照明だったが、何度でも反射的にみあげてしまう。同じ音を聞いているうちに、ボールのバウンドは金槌で叩く音に、椅子をひく音は鋸をひく音に思えてきた。何年も聞いていると、上の人がなにかを作っているのではないかと考えるようになった。最近は家の中にログハウスを作っている様子を想像している。諍いは設計をめぐっての対立に違いない。(同上)

「常識」にまだ侵されていない、たくましい想像力がここではうごいている。ちいさい頃、外では石や木の枝をつかって、机の上では粘土や瓶の蓋などをもちいて、よく見立て遊びをしていたことが思いかえされる。あれは惑星、あれは怪獣、あれはロボット。何かをべつの何かに見立てて、想像上の時空をげんじつの上にかさねる。そうしたちからはもうわたしたちにはのこっていないのだろうか? 否、そうではないと、本作はクラスの端で音も立てず手を挙げるように、それでいてちからづよく宣言する。いうまでもないが作者の長嶋有は子供ではない。子供的感性を大人が文に落しこんでいる。わたしたちは皆、子供時代をひとしく経験している。先に述べた未来からの記述がメタフォリカルに意味するのは、ひとはいままで過ごしてきた年月を自らのうちにたくわえており、それをくりだそうと思えばいつでもだれでもくりだすことができるということだ。もういちど引用文をながめてみよう。「何年も聞いていると」とある。そのちからのなかには、過去の時間がしっかり折りたたまれているのだ。

 ある朝、S市から国道に入るT字路で赤信号になった。
「そういえばどうでもいいけど」母は停車するとタバコに火をつけてからいった。
「あんた、キャッスルのスペル間違ってるよ」C・A・S・T・S・L・Eだよ。CASSLEじゃないよ。
「僕が書いたんじゃない」中学生がやってきて、僕の名前で勝手に書いたんだ。正直にいってみると、それはなんでもないことだった。
「馬鹿が多いんだね」母は眉間に皺を寄せて、煙草をふかした。
「おじいちゃんずっと一人暮らしだと寂しいから、私たちが引っ越しをしなきゃ」
「うん。いいよ」
「今度の学校も馬鹿がいないとは限らないよ」母はすでに吸殻でいっぱいの灰皿に煙草を無理矢理押し込んだ。
「平気だよ」自分でも意外なほどきっぱりとした言い方になった。母は慎の横顔をみつめた。(同上)

本書のなかでもいちばん好きなシーン。「そういえばどうでもいいけど」という前置きをはさんでの、母子の「なんでもな」くて、さりげない、それでいて決定的なやりとり。こうした場面に宿る体温のたしかさが、本作のリアリティをかたちづくっている。少し脱線するが、この「リアリティ」(現実性、真実性、実在……)について、わたしはリアリズム(写実主義)に対する「くそくらえ」の念をもっていて、これは文学だけではなく、絵画や写真、映像などあらゆる表現・芸術に対してのひとつの反感装置(と、同名の著作をもつ稲川方人がどのような意味で使っているのかはしりませんが、わたしの場合は反感を駆動させる心の機能というような意味合いでもちいています)としてわたしのなかで作動していて、たとえばハイパーリアリズム(まるで本物みたい!)の絵画なんかは典型的で、ほんとうにどうしようもないものだと思ってしまう節がある。いまの時代にこんなことしててどうなるの?という疑問、つまり、そこにリアリティはあっても、アクチュアリティはないのではという疑義。

話を本にもどせば、ここでいうリアリティはアクチュアリティともちがうのだけれど、けっしてリアリズムを標榜したものではない。物語の確からしさとでも読んでみたい、ひとつの架構的強度のことだ。作家の目と耳(あるいは肌や鼻、舌……)によってとらえられた、細部のあしらいによってそれは築かれ、そのつみかさねが書物の時間のなかに生きた血をめぐらせることになる。それってまさにげんじつを写しとったリアリズムの達成では?という疑念がもちあがるが、いや、そうではなく(そうではあるが?)、目指されているのはその先にあるのであって、げんじつのディティールを作品に描きこむことはフィクションの強度を高めるためのいち手段に過ぎないのだ。ということは、わたしのリアリズムに対する反感はつぎのようにいいなおすことができる。「げんじつの似絵をつくることが目的のリアリズムはクソである」。美しいハリボテだけではなくて、その先にある意図を、コンセプトを、(反)物語を見せてくれということだ。そしてそれは本作において、「大人」しい少年の、不安定で孤独な心のさざめきとなって、きらきらとした光をみせている。


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9冊目、滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』。NUMA BOOKS、2019年。アメリカのアイオワ大学でまいとしおこなわれている、IWP(インターナショナル・ライティング・プログラム)というさまざまな国の作家が参加する10週間のレジデンスの体験を、日記の形式で綴った記録文学。以前から気になっていた作家で、文フリで本人がブースに座っているのを見かけたときや、そろそろ品薄になっていそうな『寝相』が書店に陳列されているのを目にしたときなど関係がはじまりそうな気配はたびたびあったのだが、渋谷のHMV&BOOKSで本書のサイン本が面陳されていたのをきっかけにようやく手にとる。上でリアリズムの話をしたのでまずはそれをひきついでみると、日記とはいったいどのような書きものなのだろうかとあたまをなやませることになる。いま読みはじめている荒川洋治『日記をつける』にそのヒントが書かれているような気もするが、わざわざ読みおえるのを待って書くのもちがう気がするのでこのまま書いてみると、日記はべつにげんじつの似姿を文章に書き写すものではないだろうと思う。「日を記す」と書くとおり、その日がどんないちにちであったかを記述する、日々の記録のためのものだ。それも他のひとではなく、自分自身にとっての。昨月末にわたしはこんなことをブログに書いている。

フランスの戦傷詩人ジョー・ブスケは「書くという技法は他者のために思考する技法である」といっていて、それはまったくもってその通りなのだが、「書くという行為」は自分を救ってくれるのだよな。そしてそれを他者として読みかえすとき、わたしの思考の助けになってくれるのだよな。ありがとう、過去のおれ。

これは日記そのものについていっているわけではなく、ブログに文章を書き残すことについていっているのだが、ほぼおなじ範囲を指しているといってもよいだろう。そもそもブログにかこつけて、書く行為全般の話をしているともいえる。日記が読者を執筆者だけにかぎって自己完結の世界にしてしまう場合があるのに対して、鍵をかけたものはさておき、ブログは世界にひらかれてるが、この『アイオワ日記』も雑誌『新潮』での連載原稿として公開されることが前提の文章であった。自分自身のために書いている、とてもプライヴェートなものであるはずなのに、本やブログというパブリックなものとしてパブリッシュされるってふしぎだ。

日記とリアリズムの話をするはずだった。日記がげんじつに即していることはまちがいないが、リアリズムを志向しているわけではない。晩年の内田百間の日記はその日の天気と寝た時間しか書かれていなかったことが『日記をつける』のなかで触れられていた。話が本から逸脱している。逸脱大好き。

途中で会場にケンダルさんが来たので三人を紹介し、少し話してから外に出た。四時。さっき話していたレストランの前は結局素通りしたので、あとで行こうと言っていたわけではなかったらしい。なら私の、イエス、という返事はさっきどういう意味だったのか。(滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』)

アイオワに到着して3日目の記述である。著者は英語が不得手であり、こののちも何が話されているかわからないまま会話がすすんでいくシーンがたびたび描写されるのだが、日記のおもしろさがよくでている場面だと思う。おなじ記録の方法でも映像や写真とちがって日記は必然的にふりかえるという動作を経て書かれるものだから、そこに書かれる出来事の時間を自由にのびちぢみさせることができる。引用した場面でもさまざまな出来事が省略されている(たとえば「三人」で何を「話し」たのか)のと同時に、レストランにまつわる部分にぐっとクローズアップされ、そこにうごいた思念が書かれるものとして選択されている。事後的にその存在に気づく、ずっと宙に浮かんだままの「イエス」。何を書いて何を書かないかは詩や小説においても中核をなすことがらだが、こと日記に関してはそのひとが何を見て何を感じているのかがダイレクトにあらわれる気がする。そしてこの「何を見て何を感じているのか」ということこそが、作家が作家たる所以をあらわす最適の断面にほかならない。

作家のマリアンヌがどういう作家なのか、どういう経緯で我々のドライバーをしてくれているのか私はよくわかっていないし、そのあともずっとよくわからないまま、しかししばしば顔を合わせるので親しさだけは増していき、訊くタイミングを失っていくことになる。同様に親しさだけ増してそのひとのことが実はよくわからないまま、というひとはその後もとても多かった。(同上)

こうしたことは言語で隔たれていようがいまいがよく起こることだが、あらためて文章として整理されたものを目にすると、そうなんだよなあという感慨につよくおそわれる。もしかしてSNSではこの逆のことが起きているのでは? リプライで頻繁にやりとりするひとたちにとってはそんなことはないのかもしれないが、ただ見ているだけのひとにとっては親しさが増すことのないままにそのひとの好きなものや嫌いなものなどをしっていくことになる。どっちがいいかといったら、それはやっぱり前者じゃないか。そこには身体が必要なのだ。
 

イヴァやルメナが中心になっていろいろな役割分担や集金の方法を決めようとするが、ビールを飲むひと、ウイスキーを飲むひと、ワインを飲むひととで別々に集金しようとしたり、なかなか細かい段取りなので話が全然まとまらず紛糾する。誰が買い物に行くか、誰が荷物を運ぶか、その人数や方法などが話し合われているのだが、私はどうしてそんなに細かく分担を決めようとするのかよくわからないので黙って見ている。ほかのアジアの男性陣も黙って見ているだけだったが、次第に飽きておしゃべりをはじめ、会議がまとまらずわーわーなっているのが喜劇みたいでおもしろくて、アリやチャイと一緒に大笑いしていたらルメナに静かにしなさい! と怒られた。(同上)

私とカイはこういうときにさっさとグループを離れて帰れずに、乗りかかった船で無理して付き合ってしまうよね、これは単に私たちの性質でもあるけれども多分に日本や台湾の文化的な傾向のようにもやっぱり思えるよね、みたいなことをふたりで話しはしなかったが、私は内心そうカイに語りかけ、たぶんカイも同じようなことを思っていたのではないか。(同上)

こうした国による文化のちがいへの気づきも読んでいてたのしい部分。異国に足を踏み入れるとは、他者をしるだけではなく、自己をしることであるのだとあらためて教えてくれる。海外旅行を義務教育に導入することでいろいろなことが解決するのでは?などとも思ってしまう。そして打ちこんでいて気づいたのだが、「多分」と「たぶん」で表記を変えているのもよい。こうしたディテールへの気づかいにわたしはよわい。

また、ここでは引用しないが、言語のギャップから生じるユーモラスなディスコミュニケーションも本書の見どころで、芥川賞の説明をするくだりなどは声をだしてわらった。ぜひ手にとって読んでほしい。

さいごに、著者の妻である佐藤亜沙美が手がけた装丁のすばらしさにも触れたい。表紙の色味が何パターンもある贅沢なつくりで、なんと手張りだという装画のあしらいも目を惹く。カバーをあえてなくしていることでコストをカットしているのだろう。先日読んだ本谷有希子『本当の旅』でもおなじく佐藤が造本を担当しており、ともにもっていたい、と思わせる本である(なお、『本当の旅』は劇作家H氏からの借りもので、そのうちこんな事態になってしまってずっと借りっぱなしのままである)。