応答しない姉たち、あるいはフルーツバスケット

6*冊目、絲山秋子『逃亡くそたわけ』。講談社、2007年刊。単行本は文藝春秋社より2005年にでている。福岡の精神病院を衝動的に抜けだした男女2名、やぶれかぶれのキチガイたちによる晩夏の逃避行。車をひたすら南に走らせながら、目についた畑の作物をむさぼり、酒を万引きし、飯を食い逃げする。火山に行き、車をぶつけ、川で溺れ、温泉に浸かる。そう、これは青春ロードノベルである。その道中、ピーズの楽曲が、ふたりの気だるさと、刹那的なよろこびを彩るテーマ曲のようにしてあらわれ、エモーションをぐんと高めてくれる。そして、なんといってもふたりの口からくりだされる方言の魅力。

 しょんぼりしてしまったなごやんを横目で見ながら、歯ブラシに歯磨き粉をつけて、「まりかぶらんだけよかやないと?」と言った。
「なんだそれ」
「しかぶるじゃない方」
「すごい言葉だな。まりかぶる?! どんな字書くの?」
「字は知らん」
「『そいぎんた』よりすごいな」
 それは全然意味が違うのだが説明をするのも面倒なので、ユニットバスに戻ってガシガシ歯を磨いた。(絲山秋子『逃亡くそたわけ』)

東北に生まれた者として、わたしもその言葉を維持していたいと思うのだが、こと自らの作品に導入するかと問われると少々距離を感じてしまう。東京にでてきてからは日常的には標準語を用いているとはいえ、親兄弟と話す際はきちんとローカリティにみちた発話を為すのだが、書き言葉としての方言はまだ自分にはむつかしいなと思う。いつかは試してみたい。九州にも行ってみたい。

解説を渡部直己が書いていて、本作の第一行目からくりかえされる主人公・花ちゃんの幻聴「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」を起点に、マルクス主義という視点から作品を照応するさまが痛快だった。こういう豪腕な批評はサイコーだ。わたしからはでてこない、思いもよらない読みにであうことのおもしろさ。作品全体として好みかと問われるとそこまでクリーンヒットはしなかったのだが、タイトルの清々しさに打たれるきもちのよい読書だった。


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7冊目、ペーター・ハントケ『私たちがたがいになにも知らなかった時』。論創社、2006年刊。原著は1992年。訳者は鈴木仁子。完全にタイトル買いである。よすぎないか? 宗利淳一のブック・デザインもひじょうに冴えている。「ドイツ現代戯曲選30」というシリーズのなかの1冊で、ほかにイェリネクやファスビンダーなどがラインナップされている。『不安』の折にも触れたが、ハントケオーストリアの作家で、解説によればいまはフランスに住んでいるそうだ。本作はひとつの広場を舞台とした台詞のない無言劇で、実演の折には、そこで起きる〈こと〉や〈行為〉が鑑賞の対象として生起することになる。わたしは戯曲をこれまで文学作品として読んだ経験が少なく、せいぜい安部公房とソポクレスをつまみぐいしたくらいで、あとは自分が出演するときだったり、稽古の見学に行ったときや、デザインをする際の材料としてだったり、あるいは観劇の追体験として読むというような、そんな横道ばかりを通っているのだけれど、作中、際限なくあらわれるひとの群れに、ひとりに複数役をもたせたとしてもこれはずいぶんな人数が必要になるのでは?と上演の心配をしてしまう、そんな読書体験だった。ここで深めることはしないが、「上演の想像は戯曲を読むにあたって邪魔であるか?」と問いを立てておく。

さて、際限なくあらわれるひとは老若男女多種多様、釣り人、サッカーサポーター、ローラースケーター、ビジネスマン、掃除夫、ウェイター、サイクリスト、測量士、ハイカー、旅行者、警官、聖女、ドッペルゲンガー……とそのすべてを挙げようと思ったらきりがないほどである。パパゲーノやペール・ギュントチャップリン、モーゼまでもあらわれるが、象徴的なキャラクターとしてくりかえし登場するのが「美女」と「道化」である。広場に姿を見せるたびに自らの存在を見せつける美女と、気障りな人真似をしてからかいに徹する道化。パブリックな場において耳目をあつめるのは、約言すれば「美」と「パフォーマンス」であるとでもいいたげな──じっさい、それはまちがってはいないだろうが──作劇で、差異の際立つその異物性が、反復とともにキャラクターとして舞台上にはっきりと彫琢されることになる。

おなじく唐突に、この光景のまっただ中、雑多な一団が広場に乱入する。はじめはタップダンスを踊り、めそめそ声やどら声、大泣き、震え声、金切り声などさまざまな声をあげつつ、地面を縦横に転げ回る。やがて気がつけば、人数は減っており、先刻から闘いあっていたふたりも姿を消して、ただひとり、断末魔の苦しみにさらされている人物だけが残されているが、その人物もとうとう息を引き取る。なにかの包みが転がり、闘いのあいだに落ちた品々や靴がまわりに散らばっている。(ペーター・ハントケ『私たちがたがいになにも知らなかった時』)

直後、道化がやってきて「いまわの際の人物を最後の痙攣にいたるまで物まねする」のだが、わたしがおもしろいと思ったのは「先刻から闘いあっていたふたり」の方で、彼らは戯曲内において、ここではじめて登場するのである。つまり、彼らは事後的にあらわれて/「姿を消して」いる。「先刻」は暗黙のうちに葬られており、闘いの終わりだけがここにある。「ふたり」は「姿を消して、」「闘いのあいだに落ちた品々や靴がまわりに散らばっている」。舞台化の折には、ふたりは広場にいつのまにかあらわれ、事前に闘いをくりひろげるはずだが、こと役者によって身体化される前の文章においては、姿を見せた時点で闘いはすでにおわっている。これが小説だったとしても愉快な記述だとわたしは思うであろうが、上演を前提とした戯曲であることがもうひとつの視点をそこに差し入れ、より興味深い印象を抱かせるのである。

広場の人々はしだいにたがいを見つめあうようになる、いや、そうではなく、見守るようになる。たとえば突如半狂乱になり、どなり声を上げ、めくら滅法走り回っていた男が、唐突にしゃくりあげて泣きはじめた女が、悲しげに口笛を吹いていた男が、ただ見守られることによって、なだめられていく。見守る行為をする者は、同時に近づいていく。(ペーター・ハントケ『私たちがたがいになにも知らなかった時』)

本作の白眉である。演劇的な見せ場はほかにもたくさんあるのだが、優れた演出家がこの場面を手がけたら、そしてそれを観る機会があったら、わたしはきっと感動にうちふるえるだろうと確信する。台詞はなく、ただ身ぶりだけであらわされた「なだめ」。これまでに観たなかで、いちばん心をゆさぶられたダンス作品であるバットシェバ舞踊団の『LAST WORK』のことが思いだされる。同じ舞台芸術とはいえ、向こうはダンスでこちらは演劇なのだからベースもちがうし、テイストも異なるのだが、このシーンで起きている出来事の劇的さが似ているのである。「たがいになにも知らな」いひとびとのあいだで交わされる、信頼とでもいうべき、深い情愛のまなざし。これは、2020年4月現在の世界に蔓延する、「たがいを見つめ」るまなざしとは、まったく趣を異にするものである。やがて劇場の扉がふたたびひらかれ、ひとびとが恐る恐る、そしてうれしさに胸をふくらませて集うとき、わたしは広場にたくさんのひとびとがやってきては過ぎ去っていく、この作品を観てみたいと思う。


*6冊目
5冊目を飛ばしているが、すでにそれをもとにしたテーマに則った記事を書きはじめているので6としている。長期戦になりそうなので今後もズレていくと思われる。