玉ねぎから芽が生えていて、それはしばらくまえから捕捉していたのだが放置していて、今日つかおうと手にとったらねばつく液をだしてくさっていて、捨てる羽目になった。そんな人生を送っている。
もっと自分の好きに生きよう、そういう理念をきちんとたもちつづけること。のこる半年は回復の季節にしたい。
津村喬の死。先日『戦略とスタイル』を買ったばかりだった。その名はさまざまな書物のなかで目にしており、そのすがたはポレポレ東中野(ポレポレ坐)で観た井戸紀州の『LEFT ALONE』のなかで瞳に焼きつけていた。
ちいさいころの記憶、でかいプールやサウナやウォータースライダーがあるスパリゾートのロッカールームで、手当たり次第にロッカーが締め忘れられていないかを取っ手に手をかけてガチャガチャとたしかめるクソガキども(当時のわたしよりは何歳も年長である)。恥ずかしくないのだろうか。なんでこんな記憶がよみがえってきたのかといえば、いまだに更新がつづいているみしらぬひとのブログのひとつに、ロッカーから財布が盗まれたということが書かれていたからであった。
夏はバンドTを着まくろうね
朝、よだれをだらだらにたらしながら起床。洗濯機をまわす。味噌マヨきゅうりとひき肉と鰹節のカルボナーラ。きゅうりがあまりにうまく、長持ちする保存法をしらべて、一本一本をキッチンペーパーでつつむ。群馬県産。でかくてぶっとい。まあまあ高いのを買っただけある。洗濯物を干し、シャワーを浴び、家をでる。ユニクロでプロパーから半額に値下げされたパンツを買う。発売日に試着して、買いそびれていたものなのでとてもうれしい。原宿のひとではものすごく、「もとにもどった感」がすごかった。オープンしたばかりのIKEAでは整理券を配布しており、行列ができていた。駅舎も新しくなっていた。
Eさんとタイ料理を食べ、代々木公園をぷらぷら散歩して茶を飲む。腹がはちきれんばかりに食べた。ひと月、いや半年ぶんの犬を見た、といいたくなるほど犬たちの歩いたり吠えたりするさまを見た。森のみどりにクローバーの新芽が生えている。
安易な言葉で片づけたくないことを、抱えつづける。それはたいへんなことだけれど、そうしないほうを選びたくない。つまりそれは倫理的に生きるということだ。話はすこしずれるが、書いていて似たような構図の思考の断片を下書きに残していたことを思いだしたのでひっぱってくる。
究極的には論理の一貫性なんてものはどうでもよいと思っているが、究極的に至るまではそれを維持しようとすることはたいせつだと思う。遠目から見ればブレていないが、近くで見るとめちゃくちゃブレまくってるみたいな、生きるうえでのたとえばなしがあるが、これはそういう話とはまたべつのものだ。倫理的に生きようとする態度と、そこにがんじがらめに縛りつけられることのないようにすることの並走を肯定するということである。
話がふくざつになってきたが、げんじつが話よりもふくざつでなかった試しなどない。そのげんじつに直面して生きていかざるを得ない以上、わたしたちはそのふくざつさに耐えきれる身体か、もしくはそれを鋭敏にとらえる視聴覚か、あるいは何が流れこんでこようが大丈夫な空洞的な精神をもつしかない。どれを選んだって、こわれてしまう未来しかわたしには想像ができないが、たとえそうであっても、それを選ぶ。それを選んだということが、わたしのわたし性を担保する。あなたにとっての最初の扉が、わたしにとっての最後の砦であるように、ひとは決定的にわかりあえない。たがいの顔を見あわせて、「じつは〇〇でした、よかったね」では済まないことばかりを、わたしたちはとりかえしのつかないやりかたで、日々おこなっている。その日々のかたちが、わたしにとっての、あるいはあなたにとっての、そのときの生の突端のあらわれであればよい。そこに生じるゆがみやきしみが、過去や未来のわたしが信ずべきひかりを映すことになるだろうから。