やらかい花びら、いちまいにまい

3冊目、本谷有希子『静かに、ねぇ、静かに』。講談社、2018年刊。それぞれSNS/インターネットをギミックにした3本入りの短編集。1本目の「本当の旅」を事前に演劇作品として鑑賞しているが、そのサイテーだった舞台版がかき消されるほどに本書はおもしろかった。筋はかわらず、SNS中毒の夢追い中年男女3人がクアラルンプールに行って、いついかなるときもポジティブシンキングを忘れぬままに理不尽な暴力に巻きこまれる話である。悪意のまなざしは変わってはいないはずなのに、このちがいは何なのだろう。メディアの相違だけで片づけてしまっていいのだろうか。舞台について触れたこの記事では作品の冷笑に異を唱えているが、小説においてはそれは奥へとひっこみ、ホラーの趣きが前景化していた。文章においては読むわたしがつよい主体として作品と対峙するが、舞台においては生身の身体が介されることによって、観るわたしの主体は弱まり、他者による強要感が増すのだ。

つづく「奥さん、犬は大丈夫ですか?」「でぶのハッピーバースデー」もおもしろかった。前者はネットショッピング依存症の妻が夫の誘いに乗って大してなかよくもない夫の同僚夫婦とキャンピングカーで旅行に行く話で、後者はリストラされたアンダークラスの夫婦が歯列矯正やらファミレスバイトなどを通して再生および破滅していく話。どの話も、じっさいにいそうなひとが、これまたありそうな、それでいて少しげんじつからはずれたような出来事につまづいて、深みに嵌っていくストーリーである。本谷有希子はひとを見る目がほんとうに精緻なのだなあと感嘆する。わたしはちがう瞳で世界をながめている。

でぶは湯の中でもう一度歯の表面をなぞってみる。まるで狂った階段のような歯並びだ。こんな階段を用意されたら、誰だってどこかへ辿り着くことを諦めるだろう、とでぶは思う。(本谷有希子「でぶのハッピーバースデー」)

ぐちゃぐちゃの歯列を「諦めている人」であることを示すひとつの忌むべき印としてとらえる夫妻の話だが、それを象徴的に記したすばらしい描写。わたしがこれまでに読んだ『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』や『江利子と絶対』では、描写よりも物語に重きを置いている作家という印象があったが、本作ではストーリーのおもしろさはそのままに、より洗練された技巧が見られる。


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4冊目、小山田浩子『穴』。新潮社、2013年刊。標題の芥川賞受賞作含む、3本入りの短編集。ふしぎだ。奇妙だ。夫の実家の隣家に移り住んだ女が体験する、日本的マジックリアリズムとでも形容したいおかしなひと夏。でしゃばりながちなきょうれつタイプの義母や、耄碌して一日中水撒きをしている義祖父、存在することすらしらなかった物置に住まう義兄に、地面に深い穴を掘る謎めいた黒い獣といった、どこかいびつなものらが主人公あさひを取り囲み、「ジャアジャアジャア」と鳴く蝉の声をバックグラウンドにしながら物語は不穏な穴のなかへと転がり落ちてゆく。そのあとに収録された「いたちなく」「ゆきの宿」という連作短編もこれまたへんてこな読み味で、ちょっと古めの日本文学を模したような会話文でふたつの夫妻の交流が描かれる。前者は不妊に悩む夫婦が天井裏にいたちのでるようになった友人夫妻の家に猪鍋を食べに行く話で、後者は子供の生まれた友人夫妻の家を吹雪の日に訪ねる話である。決定的なことはなにひとつ描かれない(ように見える)のだが、その周縁を変な姿勢でぐるりぐるりとのたり歩いているような、そんな魅力がある。

ソファでうつらうつらしていた私の携帯電話に、見知らぬ番号が着信した。「あさちゃん、ごめん、今大丈夫?」私はとっさに身構えたが、出ると姑だった。(小山田浩子「穴」)

「(…)あさちゃんが今忙しくないんならば、それをね、代わりに払い込みに行ってもらえまいかと思って。今から用事ありますか?」敬語交じりなのがおかしかった。誰かが後ろで聞いているというのだろうか。その割に、姑の背後はしんとしていた。平日の昼間なのだから今姑は職場にいるのだ。それにしては異様に静かだった。何となく、とても涼しくて快適な場所なのだろうなと思った。私は借家のリビングにいて、扇風機を弱風に入れ、ソファに座ったり立ったり動きまわったり風がよく通るようにカーテンを開けたり眩しいので閉じ直したりしているうちに眠っていた。頭痛が始まる予感のようなものがこめかみ辺りに漂い、それは蝉の声と呼応していた。近隣の家からは子供の雄たけびのような声が聞こえていた。まだ七月頭で、おそらく夏休みではないのに昼日中から叫んでいるのだから未就学児なのだろうが、それにしてはくっきりとした大きな叫び声だった。わたしはことさらにきびきびした口調で答えた。「用事、ないです」昨日、久しぶりにバスに乗って電車に乗って遠出をして治療途中だった歯医者に行った。虫歯の治療は終わった。今日からは先に何もない。朝も昼も夜も平日も週末も暇だった。(小山田浩子「穴」)

上記ふたつの引用は、ひとつの通話描写のあたまとおしりにちかい部分であるが、ともに時空間のゆがみがおもしろくて付箋を貼りつけた箇所だ。先のものでは、電話にでる前に姑の発話があらわれており、寝起きの目覚めていない感覚がみごとに描写されていると思った。「出ると」とあるから、「とっさに身構えた」のは電話をとる前なのだろうと推測されるが、このような順序で書かれるとそれが曖昧になり、電話にでているうちに相手が姑だとわかっていくような、そんな感覚を読者にももたらす。

もう一方のものは、さらに事態がふくざつである。義母の発話から、その印象、そこから思い浮かぶ相手のいる空間についての想像、対比されるわたしのいる空間、その空間にいるわたしの(していた)挙動……と連想的に時間と空間が入りみだれ、寝入りばなか、夢か、現在か、そのあわいのようなところで「蝉の声」と「子供の雄叫び」がひびきだす。義母に返事をしたあとも、「用事」という語が昨日行ったという歯医者を招き寄せ、「今日から先」という未来にまでその射程がのびてゆく。わたしたちはじっさい、電話をしながら「敬語交じりなのがおかしかった」と相手に対して感じたり、「用事、ないです」と答えながら「朝も昼も夜も平日も週末も暇だ」と思ったりするが、すぐに流れ去ってしまいがちなこれらのことは「書く」というふりかえりの技術によって留置くことができる。そうして可視化された意識の流れは、圧縮された時間としてその身をさらし、読むものの認識にひとすじの光りを放ちながら、読書の快楽をわたしたちに教えてくれるのだ。