ひと目見てからずっとずっと

マスクをしていないことでしらないひとから怒られたりするのも時間の問題ではという気がしている。そのときわたしはその相手に生権力がどうだのいう? いわない。いわないね。この「街でめんどうごとに巻きこまれたくなさ」はひじょうによくない主観性だと思う(だったらマスクをしろという話だが、そこはわたしなりのアティテュードの表明である、そもそもマスク売ってないし)。たとえばデモは国会前とかじゃなくて、渋谷スクランブル交差点でも新宿西口広場でもなんでもいいが、衆目のある場所でやることによってよりちからを発揮するのであって、政治性をもたない他者たちに対しての効力はそうした場において最大化される。のだが、前述の「巻きこまれたくなさ」はひとびとの精神に強固に根を張っており、ある程度政治性をもったひとはまだしも、チャランポランのひとびとに植わったそれをひっこぬくためにはおなじくある種の「チャランポランさ」をもってやるしかない、というのが外山恒一のやっていることで、ただそれさえも単なるネタとして消費されてしまうのが現代の地獄さである。街にくりだせツイートがバズっていたが、リツイートあるいはいいねをしたひとのうち、いったい何人が著書を手にとる、もしくは我々団の運動方針を読んだだろうか。


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夜に出社が云々というメールが届く。正気か?というきもちになる。が、wi-fiが使えるのはありがたい(狂った思考回路)。でかけること自体に抵抗はないのでそれはいいのだが、年齢的に上司の体調が心配である。だって下手したら死によって会社がおわってしまう。ワンマンカンパニーなので引き継ぎも不能である。そうなったらいったいわたしはどうなるの?? いや単にスーツ着て電車乗りたくないきもちのほうがでかいが(にんげんを感じるね!)。おれはこの健康を維持したいなあ、たいへんなひとたちもたくさんいるのはもちろんだが、こうして健康を噛みしめているひともけっこういるはずなんだ、読書会でしった「le monde d’après今後の世界」を考えていく上で、この体験はけっこう大きいのではと思っている。あと給与についてとくに何も聞いていないがこれからどうなるんだ? カットされたら泣いてしまうのだが(カットされてなかった)。昇給は?(なかった) こういうところで自粛するから世界はわるくなるんだよな。できうるかぎり対決しよう、そうしよう。

年単位で考えてゆけば、実家に帰るという選択肢もぜんぜんでてくる。というか帰るしかないのでは? 映画館にもギャラリー/美術館にも劇場にもライヴハウスにも本/古本屋にも行けないのに、高い家賃を払って東京にいる意味なんてほとんどないのだから。友人たちとはなればなれになってしまうのはかなしいが、わたしが東京に住んでる意味の大半は、カルチャー受容のためなんだよなとあらためて思う。じっさいに観にゆけないこともあってさいきんは美術に対する関心が落ち気味で、代わりに文学に対する興味が増しており、なおかついまの時代は映像も音楽も配信環境がきちんと整備されているのだから、帰郷して、編集とデザインをほそぼそとやりながら、好きなものを執筆して生きていく選択も大いにアリなのだよな。まあ、軌道に乗るまでは寄生虫みたいな生活になってしまうとは思いますが、、そしてわたしが無症状感染者で、家族に感染(うつ)してしまうのだけは避けたいですが、、

わたしには金銭的な意味での貯蓄的想像力というのがまったくなくて、老後のためにお金を貯めようなんてことはいっさい思わないのだけれど、このウイルスは「ひとはあっさり死んじゃうんだから、お金は貯めこまずに使っちゃいなさい」と「いつ危機がやってくるかわからないんだから、いざというときのためにお金は貯めておきなさい」のどちらのイデオロギーを強化するのかな。そもそも、わたしのような低賃金労働者からすれば選択の余地なんてなくて、しけた残高と、将来の不安と、その他もろもろのくそみたいなげんじつとなかよく肩組んで生きていかなくちゃいけないのだけれども。

わたしはわたしである以上わたしを基準として考えているわけですが、こうした「考える」行為が、何につながっていくかはさておいて、いろいろなところで独自に展開されていればいいなと思います。そのためにはやっぱり「書く」ってことが重要で、そのためには「読む」が必要なんですね。