再生産殺しの生産/a-b-c間

冨樫義博ハンター×ハンター』を生まれてはじめて読んでいる。「ゴンさん」などネットミームとしては触れていたが、ジャンプを通らずに歳をとってきたのでいままで読まずにいたのだった(ワンピースは単行本で読んでいた)。無料公開されていた340話から読みはじめるという暴挙にで、主人公がほとんどでてこないことに衝撃を受けつつも、話のすさまじい入り組み具合にこれはひょっとしてめちゃくちゃおもしろいのではないか?となっていまはあたまから読んでいる。後半部も追いつつ、ジャンプラで公開されている5巻まで読みおえ、単行本そろえるか?のきもちになる。序盤のテンポ感と後半の「思惑」の過剰による重量感の落差がすごい。ハンター試験の展開は、小学生の頃に友達の家でナルトの中忍試験を途中まで読んだ記憶がよみがえってくる。はたしてあれは誰の家だったか?

夜、チャーシューと椎茸のポン酢醤油かつぶしまぶし。うまい。

チェンソーマン5話。「コト」は省略されなかった。これまでの話でも見られていた窓外からのカットは小動物の視点の導入として用いられているのだろうか?と思ったが、どうなのか。回想の入れかた、おわりかたの選定など、構成がいいと思った。眼や血の描写に力を入れるのはひとつの省エネ作画の作法なのだろうか。

ワークのためのリサーチに時間を費やす。とりあえず手をうごかす派としてはじっくりすすんでいる感があるが、こうしてぼんやりと考えているあいだにも(いるからこそ)アイデアが芽吹くことがあり、つまりあるひとつの目的があたまのうちに携えてある状態で何かを見たり聞いたり読んだりすれば、事前には無関係と思える事柄のうちにも発見が起こるということである。Aさんとの電話のなかで小説を書く際のプロットの話になり、わたしはそれを書かない代わりにメモを書くのだけれども、つまりそれは事前に線を準備するか点を準備するかのちがいで、その点をどう結びつけていくかに関心があるのだと思った。

夜、はんぺんバターチーズ醤油焼き、ピーマン玉ねぎ挽肉チーズのハリッサ炒め。うまい。



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たいしてうまくもかたくもないチョコレートを噛むと口内に違和感が生まれ、手のひらの上にだすと、茶色まみれの銀歯があらわれた。何年かまえにとれた銀歯もそのまま放置しているが、とくだん問題は起こっていないので今回もそうなる。そもそも虫歯でないのにヤブ医者に歯を削られ銀歯を埋めこまれたと思っている節がある。不信がある。

ここのところほしい本が日々増えているのだが、それなりにおおきなギャラの案件がずっと停止しており、それさえうごけば本が買えるのになと泣いている。

夜、豚汁、その出し殻昆布の山椒佃煮。うまい。豚汁はこれまでの人生のなかでいちばんよくできた気がする。具は豚肉、舞茸、ごぼう、人参、里芋、こんにゃく、長ねぎ。豚肉と舞茸を別途フライパンで炒めてから入れたのと、火を止めてから追い昆布したのがポイントか。わたしは通常味噌と醤油を混ぜてつくるが、今回味噌のみにしたこともよいほうに作用したのかもしれない。

立派なかぼちゃを切断すると、なかからわらわらと芋虫があらわれ、さらにはピョンピョコ飛び跳ねて悲鳴がでる。カボチャミバエというハエの幼虫、つまりはウジ虫らしい。さいあくの気分になる。

同人会議。ハンターハンター、ラジオ、マイノリティ同士の軋轢などの話をする。わけのわからない喩え話によってラジオにおける会話のボリュームが形成されるという話、おもしろかった。

デパプリ35話。ここねお別れ!?回。ここねファミリーを招聘しようとしているマイラ王女とのビデオ通話後、真っ暗になったディスプレイにプリキュアチームで唯一ここねを映りこませないことによって別離の予感を描く手腕にまず唸る。そのムードを増幅させるようにトンボやイチョウによって季節の遷移=時間の経過=つまりはここねたちと過ごしてきた「歴史」をあらわす演出も冴えていた。とりわけ、ここねがひとり公園のベンチでたたずむシーンの、イチョウの落下と上昇のうごきは白眉。それをスイッチさせるのが相棒であるパムパムである美しさ。「分けあう美味しさ焼きつけるわ!」なシェアリンエナジーあふるるお弁当を分けてもらうシーンもやけに泣ける。バトルシーンにおいてもここねにとって大切な「ボールドーナツ」を模したような土団子でたたかう計量スプーンウバウゾーを配していて、その連接の手腕にもしびれた。ほか、風船をつけたチャリでイースキ島からおいしーなタウンへと渡ろうとするパムパム妄想内のここねがウケた。脚本は伊藤睦美、コンテと演出は土田豊。上野ケンのつよい作画もグレイトだった。

ドンブラ36話。獣人犬塚大暴れ回。自身の調理した生姜焼きのたくさん載った大皿と、その肉をつまんだ割り箸を手に走り回る人(獣人犬塚)の画。いつにも増してきょうれつすぎる、と思った。圧倒的馬鹿=天才の脚本・演出である。「ツッコミ」をキャラクターに言わせる演出が本作の特徴のひとつとしてあるが、今回はソノイから託された獣人に対する口上をメモ紙片手に(不完全に)読んだソノザに対してタロウが「何の時間だったんだ」と呟くシーンがあり、そのめずらしい人選・組み合わせも相まってたのしい瞬間だった。獣人/人間の反転性をカメラワークによってあらわす演出も○。タイトルの「イヌイヌがっせん」をラストの数分でやる構成も攻めの姿勢を感じた。

最後の失い

わたしのタイムラインでも「泣いた」との言及をいくつか見かけたメロスの記事を読み、しっかり落涙した。古典・神話の風格がある物語だよなと思う。「初夏、満天の星である」に対する「CM入れるなら絶対ここじゃん」という感想、30分アニメの構造が身体化された発言で、わらうと同時にまさに!となる。そういう個に属した読みかたがわたしは大好き。

omocoro.jp


猫を飼ってからというものの、全身に生傷が絶えないがために、「傷」が意識下に上がってくることが増えた。ブスケを読んで以来、傷はわたしの重要なモチーフのひとつで、とはいえさいきんは詩を書く時間も少なくなってあまり身近に考えてこなかったのでこれ幸い、という気になる。

アドビを更新し、モリサワと更新時期いっしょにしなくてよかったなあと安堵する。あてにしていた入金がどれもその段階にたどりついていないので貧困期にある。

貧困といえば奨学金の延納願いを投函する。人生の日没を感じる。延納の限界がきたとき、おれの人生の限界も訪れる気がする。

中山竜『チェンソーマン』4話。vs.ヒルの悪魔回。電柱に攻撃がヒットしてくずれていく演出がよかった。戦闘シーンとの対比を感じる後半のロウなムードもよし。何よりアキたちの部屋での「生活」にリキを入れた描写が光っていた。この丹念さは必ずや後半(2クール目?)の展開をよりかがやかせる布石となるだろう。一瞬だけ登場したコベニちゃんの声の高さも印象的だった。胸を揉まずに次回へ続かせる構成もグレイト。わたしだったら「コト」は省略してその場面を回想させるがはたして。

ライド。峠の途中まで。ここに至る道のりの別ルートを走る。もうピークは去っている感があったが、紅葉がきれいであった。総走行距離は30キロくらい。峠はさいごまでのぼりきるつもりだったが、出発が遅かったがために日没を恐れてはやめにひきかえした。

朝、肉まん、ニボバタじゃが。うまい。肉まんは市販。煮干しはもはや自家製アンチョビみたいなものだ。



紅葉


わたしはひきこもり系在宅ワーカーなのでよく猫がなつき、そのさまを見て妹が文句をたれている。ねむたくなると膝の上にぴょんとやってきてだらり眠る猫らを撫でていると、心身がやさしくほどかれていくとともにあらゆるパワーが吸いとられてしごとや制作が一気にはかどらなくなる。かわいさの諸刃を感じる。

夜、どんこバター醤油、春菊舞茸豚炒め、鯖の押し寿司。うまい。寿司は市販。椎茸の深みを今年はしってゆくか。

朝、合挽き蓮根椎茸厚揚げの炒め煮。うまい。

水魔6話。色恋はどこに宿るかと言えば、言動の背景である。それぞれの発語やうごきを駆動させる恋のちからがドラマを生んでいる。ミオミオらを見ていてそう思った。また「21年前」という不穏さあふるるワードの存在感が、物語のギアを一段上げた感がある。寮を追いだされて野宿しているグエル先輩、期待を裏切らないギャグキャラクターになっていていい。エランの退場をハッピーバースデーの曲とともに描くわけだが、そうした生と死を入り組ませるギミックはプロローグ/1話間でも展開されていたなと思った。それにしても次回総集編は早すぎないか?? ウテナ的な総集編だったらたのしいけれども、そういうリアリティラインの作品じゃないしな、、

朝、煮干しオイル漬けとハムとチーズのスパゲティ。うまい。圧倒的なうまさ。オイル漬けはインスタントラーメンにトッピングしてもその力能を発揮していたが、真価はここに明らかになった。たらふく食べてしまった。

夜、キーマカレー。出し殻鶏そぼろ、蓮根、玉ねぎ、春菊。赤缶、タマリンドクローブナツメグフェンネル、クミン、カルダモン、カイエンペパー。うまい。時折煮干しオイル漬けやチーズもトッピングして味変する。

生活が薄まっている。だから言葉も痩せ細る。ここで触れていなかったが、ここのところ町屋良平『ほんのこども』をちまちま読みすすめている。混濁した語りの上を匍匐するような読み味があり、『青が破れる』からずいぶんと距離を取ったなとたのしく頁をめくっている。まだ数十頁しか読んでいないが、書くことの暴力性について話が深まっていきそうな気配がある。ちょうどAさんから創作についての電話があり、そこでもそういう話になった。カメラもペンも凶器である。本書は野間文芸新人賞の発表前に読みおわろうと積本タワーから手にとったのだが、圧倒的に間に合わなかった(受賞はめでたい)。

健常賢女臭いか死ぬか

中山竜『チェンソーマン』3話。予告がバチバチだったので本編を観るのをたのしみにしていたが、そしてvs.コウモリの悪魔シーンはじっさいバチバチだったが、期待を超えたかと言われるとちょっと口ごもってしまう。マキマとアキのドライブシーンの台詞と噛みあうカット割やコウモリハウスに向かう際のフレーミングなんかも気が利いていてよかったし、オフィスビルに突っこむシーンではたらく会社員のカットから場面をはじめる構成にも感心したので、何が足りないのだろう。たとえば自販機の前でのデンジとパワーの会話シーン、アニメ的ケレン味のあるテンポとカットで演出されていたら? 全体的に流れているある種の「オトナ感」をわたしは疎んでいるのかもしれない。

森本晃司『永久家族』(1997)。1話25秒、全53話という異色の構成をもった超短編アニメーションシリーズ。好みかそうでないかで言えば好みの範疇に入るはずだがあまりたのしめなかった。2周するとまた印象も変わってきそう。しかし2周するならほかのアニメ観るかな、みたいな。わたしの好きな佐藤大のアニメ脚本デビュー作だそう。

夜、煮干しチャーシュー炒飯、舞茸小松菜豚大根の生姜五香粉煮。うまい。煮干し出し殻のオイル漬け、ちょううまい。スパゲティのソースにつかったりやトーストにのせてもぐっどだと思う。

Hさんと電話。ものをつくるための話はたのしい。

夜、肉じゃが。具は牛肉、エリンギ、じゃがいもだけ。煮干し油をつかう。うまい。

デパプリ34話。野球回。野球ユニがそれぞれちょうかわいい。マリちゃんの師匠であるジンジャーと品田ママにつながり?みたいなカットがあり、後半はシナモンなんかも交えて「過去」がより出張ってくるのだろうか?と思った。「おばあちゃん」もキーパーソンなわけだし。

ドンブラ35話。ただでさえおもしろいのに、さらにおもしろくなってきた感がある。「指名手配に松竹梅があるなら〜」にわらう。犬塚が獣人となる展開もいいし、「青春スロー」の馬鹿馬鹿しさもサイコー。

水魔5話。色恋が軸になることのおもしろさを思った。ギャグに振っていたこれまでから、シリアスへと舵を切ったことによってそれが意識化された。「色恋」というと、ダンバインの名を召喚したくなるが、ああいうのともまたちがうんだよな、と思いなおす。

夜、豚トマ舞茸スープ。にんにくとバジルをきかす。うまい。



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座古明史『映画デリシャスパーティ♡プリキュア 夢みるお子さまランチ!』(2022)。これまでのプリキュア映画にでてきた要素を素材に、うまく料理していると思った。敵対者との約束工場という舞台装置妖精の変身……。納豆ミサイルさくれつシーンやブラぺによる救出シーンに顕著なヌルヌル作画も見どころで、トロプリ映画におけるあすか先輩の描写を彷彿とさせるあまねのギャップ(遊園地ではしゃぐわりに絶叫マシンが苦手!)にも惹かれた。キュアモフルン鑑賞時にはまほプリ本編を観ていない状態で鑑賞したためにその変身に対する感動が薄かったのだが、かといって本編を観ているデパプリに関しても予告でさんざん煽られていたのでそこでの高揚はちいさかった気がする。タイトルにも冠されている「お子さまランチ」をモチーフにした物語は、大友へのメッセージとしても受けとることができ、劇場内でたったひとりその呼称で呼ばれるであろう状態だったわたしは勇気づけられて映画館を後にしたのであった。

おしりにくっついている短編『わたしだけのお子さまランチ』のノリもたのしかった。過去のプリキュアを画面に登場させるために、短時間の尺内で幾度も同じ展開を反復させるユーモア。観客=スクリーンに対して話しかけるpov手法も新鮮で、配信を見据えた選定に思えた。これでプリキュア映画マラソンを完走したことになる。2020年の11月からスタートしたので、走りおえるのに2年ちかくかかったことになる。達成感がある。

平日真昼時にプリキュアの映画を観に来る異常者であることを、3組の家族連れとともにスクリーンを見つめながら思った。前席に座る子供たちが持っているキラキラした袋を見て、あ、入場特典もらい忘れたなと上映終了後に受付に行くと「(配布は)もう終わっちゃったんですよ」と言われ、かなしみを背負いながら大型書店に寄って、さんざん棚を見回った挙句何も買わずに家に帰った。映画を観に行って帰ってくるだけで映画がもう1本観れてしまう交通費を払う羽目になるこのクソのような立地からはやく脱さねばならないと思う(同じことを行く前にも書いていてわらった)。

夜、煮干し炒飯。うまい。

今村夏子『星の子』読みおえる。新宗教にどっぷり浸かった家庭に育った少女の、彼女なりのまごうことなき「青春譚」。まあまあおもしろかった。Hさんからの今村夏子推しによって積み本タワーからひっぱりだしたわけだが、そんなHさん味のある会話があり、思わず付箋を貼った。

「……おれは知らなかった」と新村くんがいった。「おれは本当に知らなかった。そうか、あれ林の父ちゃんだったのか」
「ごめんね」
「あやまるなよ……。そうだったのか、おれてっきりかっぱかなにかだと思った」
「バカじゃないの」
 となべちゃんがいった。
「まじなんだ。そんなわけないとは思ったんだけど、なんか全身緑色に見えたし、頭の上に皿のせてるし。それに隣りのやつが水かけてただろ、皿の上に」
「隣りにいたのわたしのお母さんだよ」
「えっ。あれ女?」
「うん」
「……そうか、ごめん」
「新村、近視だから」
「そう、おれ近視なんだ」
「暗かったし」

夜の公園で「信仰」を実践する両親を目撃してしまったことをいっしょに見ていたクラスメイトとのちにふりかえる場面、温度感はちがうが、「かっぱかなにかだと思った」、もっといえば「新村、近視だから」のそこに結びつけるのか!というロジックの立てかたはまさにHさんの書くテキストにも流れるものだと思った。「近視」の一言で見間違えの論理をグッと圧縮する手管。見事である。ネトフリにあるようなので、映画も観ようかなという気になった。

夜、椎茸バター醤油、ねぎひき肉チーズのサテトムポン酢そぼろ。うまい。

まるまりトーキング(NO FACE)

チャック・ラッセルブロブ/宇宙からの不明物体』(1988)。宇宙から飛来した殺人アメーバ(?)が街の人々を次々に殺戮していくSFホラー映画。だいぶまえに大学の先輩であるTさんからすすめてもらったおぼえがある。おすすめメモリストからあまり長くない映画を、ということで選んだ。95分。宇宙から空、街へと降下していくクレジット付きの長めのオープニングシーンを見て、こんなゆったりはじまっていって大丈夫かと思ったが、後半は容赦なく主要な登場人物たちが死んでいく展開でおお、となる。後味わるめのオチもウケるが、全体的に画があまりワクワクするものでなく、好みではなかった(クリーチャーによる個性的な殺人シーンはイカしていた、とくに排水口バキュームキル)。

夜、鶏トマ卵チーズ炒め。うまい。

夢のなかで感動して泣いていた。めざめてもそのシーンはきょうれつに脳裏にのこっていて、いつかわたしが書くもののなかにその光景を移設してやろうと思った。じっさいに存在するバンドの、存在しない楽曲のミュージックビデオ、という体の夢だった。

水魔4話。グエルの告白から逃亡するスレッタの場面、スタコラサッサという感じのカットのつなぎが冴えていた。まだまだひよこちゃんということで、つねに階段の低段にたぬきを位置させるのもいい。

Qさんから電話があり、同席していたSさんHさんの幽霊論をラジオ代わりに聞きながらひさびさに武田百合子富士日記(上)』をひらく。想起(と因果)が幽霊発生の条件として挙げられていたが、では誰からも、何からも想起されない幽霊は存在しないのか、と3人の話を聞きながら考えていた。話者が口にする「いま話している3人が」という声を耳にしながら、「3人」に含まれないながらも平面としてその場に存在し、話に耳を傾けているわたしは幽霊のようなものであろうか?とも。富士日記は相変わらずいい日記だ、と思った。

プリキュアの映画を観に行こうと思ったが、起きれず取りやめる。往復の交通費で映画が一本観れるこの映画難民地域に救いをくれ(ありがとう各種サブスクリプションサービス)!

夜、きのこ豚炒め。舞茸、エリンギ。うまい。ラーメンのしこみもおこなう。鍋に入れた水に煮干しを浸けておき、茹で卵を塩と中華スープの素を溶いた塩だれのなかに沈ませておく。明日は鶏煮干しラーメンをつくる。麺は市販。スープのみがんばる。



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ドンブラ34話。犬塚の呟いた「などと申しており」で夏美の記憶がふっかつするのがアツく、さらにはそれをスライドさせておでんのからしでソノイの記憶も元通りになる作劇がよかった。犬塚逮捕を見守る密告者・雉野の背景の窓でグラグラと傘を揺らす演出も見事。犬塚を取り調べるのが鬼頭叔母であるというヒキもすばらしい。思わず口から「おもしれー」と漏れてしまった。

デパプリ33話。ハロウィン回。あまねのパフェ食う速度よ! あまねにフィーチャーした回だったが、あまねでもフィナーレでもなく、演ずる茅野愛衣の芝居が際立っていたように思った。それに応えるように作画も映えていて、美麗な回だと思った。無音のつかいかたも冴えていた。「いたずらしてもいいコメ?」という台詞も相まってお化け仮装妖精ズのかわいさが○。スピリットルーがいつの間にか分裂しているのにもウケた。

夜、鶏煮干しラーメン。トッピングは白髪葱、味玉、チャーシュー、メンマ。うまい。鶏油をもっとたくさん抽出しておいたほうがよかった。味玉も味の浸透が薄かったのでもっと濃いたれをつくったほうがよかった。次回はスープに昆布も足してみるか。麺もべつのもののほうがよさそう。塩もグレードアップの余地あり。ほうれん草が具として合いそう。副産物として大量の出し殻煮干しと鶏そぼろができたので、前者は唐辛子とにんにくと塩を足して炒めてオイル漬けに、後者は酒砂糖醤油味噌を足して肉味噌風にする。

佐藤順一ユンカース・カム・ヒア』(1998)。多忙で留守がちな両親をもつ小学6年生の女の子・ひろみを主人公に、喋る愛犬・ユンカースとの日常や家庭教師への淡い恋心、親との対峙などをばつぐんの芝居作画によって描く。とりわけ、冒頭のひろみとユンカースが「犬が喋ること」について自室で対話するシーンの細やかな立ち居振る舞いに目を瞠った。しばらく家庭内のシーンを連続させたあと、「黒背景に割り箸銃」の画で学校のシーンに遷移させるのにも痺れた。のち、ひろみが弾を箒で撃ちかえして啖呵を切る場面があるが、そこで直撃を喰らった男児の友人が、クラスメイトたちのひろみに対する称賛の拍手への反応として照れを見せてあたまに手をのせるのを見て、マジで芝居がすごいぞ!となる。母が「父との別れ」を口に出した際のひろみの「止め」の怖さや、ひろみが圭介宛の手紙を盗み読んだ際に吹く「風」など、静かな演出のキレもいい。その地道な積みかさねが、唯一静けさが破られるクライマックスの浮遊シーンをよりワンダーに魅せることに成功している(ファンシーかつファンタジックなすさまじい背景作画!)。演出といえば、失恋シーンのエモさをコメディエンヌとしての家政婦の存在でセーブする一方、仲のわるい描写ばかりだった夫婦間において、いちどだけ「鈴子!」と叫ばせるのも心憎かった。劇中、もっとも頻出するであろうひろみの「はぁーい」という返事のもつぜつみょうな質感も、作品のいい重石として機能していた。ほか、白玉グリーンパジャマだったり、尾行時の格好(白ハンチング、サングラス、黄色水玉緑スカーフ、青ジャケ……)だったり、90'sファッションもよかった。

冬毛のスポーツカー

森達也『A』(1998)。オウム真理教を題材にしたドキュメンタリー。「撮る暴力」の刻印がすごいが、オウムを取材しにきたカメラマンが着ているスウェットに印字されている「BROTHER MOTHER HAIR LOLITA LEGS FAT」にわらってしまった。決定的なものを撮っているという認識が、その文字列から浮き上がってくるようであった(決定的といえば導入となる過剰なBGM演出もウケる「転び公妨」シーンも相当なきょうれつさである、公権力のゴミさがはっきりとそこには映っている)。オウムの面々に問答無用でカメラを向けるマスコミにも森はカメラを向けるわけだが、そこに際立つのは森のオウムへの取り入りかたのすさまじさである。そこに信頼がなければこうした映像はけっして撮ることができないだろう。同時に、画面に映る圧倒的なオウムに対する「否」の表象に、逆説的に森はえらい!というきもちにもなる。この作品がのこされていることは、後世を生きるわたしたちにとっておおきな遺産であると思った。統一教会バッシングのじっさいをわたしはしらないが、本作が最低限踏まえられるべき前提のひとつであることは疑いようがない。しかしそうは言ってもひとは感情でうごく。本作のなかで街頭でオウム廃絶を絶叫する1人デモばあさんの迫真さをわたしはけっして滑稽なものとは思えない。このひとは本気で怒っている。そう思わされる生々しさが画面に、音声に、宿っていた。

主人公として据えられる荒木広報部長に対する「女性の手をにぎったことはありますか?」「性体験は?」の質問、そしてその答えとしての「おそらくないでしょう」。逡巡の末に発される「おそらく」の語におれはつよく共振する。「荒木浩さん個人」を応援する、オウムへの破防法適用に反対するタスキを胸にかけた一橋大学の良心的な女学生との交流にこころが暖かくなる。麻原三女の入学を拒否したわたしの母校のおえらがたに彼女たちの爪垢を煎じて飲ませてやりたい。本作にアーチャリーは登場しないが、会見の場に傀儡として前に立たされているのであろうまだ10代後半の麻原長女の言動はほほえましいものとしてわたしの目に映った。「調子のいいときはピアノの端から端まで声がでる」と尊師の声域について語る信者のすがただったり、壁をうろちょろするネズミの寄りのショットから引いていくとサティアンの内部だったりするユーモアのまぶしかたがいいのも本作の特徴だろう。

最終盤の森と荒木の問答において、荒木の眼鏡に「映り込み」が映っている演出・画づくりには唸らされた。オウムに対する社会の要請を問われた荒木は主に沈思によってそれに答えるが、彼の視界にはオウムという「色眼鏡」がかかってあり、「もう一つの風景」がつねに映しだされていることを画によって語っているのである。https://seimeikatsudou.hatenablog.com/entry/2017/05/22/092832:ドキュメンタリー映画における両輪がしっかりと合致したいい作品だった。

夜、オニオンコーンスープ、豚ニラネギエリンギ炒めオイスタージンジャー味。うまい。

捨てる神あれば拾う神あり、という言がこれまで生きてきたなかでいくたびも実感としてわたしのなかに起こっており、がゆえに、それは真理だと思う自分がいるのだが、しかしそれはわたし個人の範囲をはみでるものでないので、人類一般に敷衍することはできない、という事実と、いやしかしこの慣用句が慣用句として成立している以上、それはわたしだけに起こる特別な事象ではないのだ、ということがわたしをささやかにはげましてくれる。

ほんとうにめずらしく飲酒。ポテチをつまんでいたらビールを飲みたいきもちが異様に高まったので冷蔵庫に入っていたエビスの黒ビールをひと缶あけた。家でひとりで飲むのは数百日ぶりな気がする。アテは夕食の炒めものののこりと、キムチ、チーズ。缶チューハイもひとつあけ、いい気分になる。

酔っ払って猫と戯れていると、ペロペロとわたしのあたまを舐めるものがあり、しまいには耳にまで舌をのばしてきたので変な声をあげると深夜の2時になっていた。




ポップでワンダーな文芸誌「たくさんの的」、最新号公開されました、デザインのほか今回は小説を載っけています、入手できるのは2022.11.18の23:59:59まで、ぜひゲトってください


森達也『A2』(2001)。前作に引き続き、本作もおもしろい。オウム信者の住居ちかくで自然発生する自警団の怖さ。何の権限があって住居にはこばれる物資の確認をおこなうのか。しかしそんな監視の目を光らせる町民たちも、いつしか信者と友人のような関係性を築き、監視小屋は地域住民たちの交流の場にもなっていく。複数の団体がとなりあうようになった場所では対オウムではなく、その団体同士でいがみあいがはじまって小屋の解体に至るが、それを信者たちがなかよく手伝っているのがおかしい。組織と組織ではなく、ひととひとが対面するいい風景だ。友好関係がむすばれるのは住民たちとだけではなく、三女は仮設駐在所の警官とも和やかに会話をおこなっていた。当時たったの1日も学校に通えなかった彼女は市販の教材で自主学習するわけだが、劇中、「英語はだめ」だと話す彼女に森が英語での自己紹介を頼むシーンがある。うら若きオウムの幹部として、複数の名前をもつ彼女は「どの名前言ったらいいですか?」と問いかえし、森は「一番言いたい名前」と答える。やがて彼女の口からは「MY NAME IS RIKA MATSUMOTO」と本名が発される。なんとグッとくる瞬間だろうか。

若い女性信者がキティちゃんを偏愛するさまを映し、「わたしたち」と同様の普遍性をもっていることを指し示す一方、サリン事件の被害者である河野義行とのマスコミを入れての対談シーンでは、オウム幹部の社会性のなさ、幼稚さを露呈させる。そうした多面性の一例として、本作にはいかつい民族派右翼のデモシーンが収録されており(警察に警備されたオウムのアジト前で声を荒げる活動家に対して「アレじゃダメだわな」とわらいながらカメラに向かってしゃべるおっちゃんがいい味をだしている)、街宣車にまで同乗してしまう森の取り入りぶりに前作に引き続き感嘆する。彼らの暴動的なシーンから一転、巫女が画面を彩り、雅楽が鳴らされる神社での厳かな右翼新年会につなぐ編集手腕はあざやかだ。解散を発表した「SPEED」のことを「SPEEDって何? ドラッグ?」と勘違いする女性幹部のおもしろさも忘れがたい。

土だけにひびく警報を鳴らす

ライド。自宅から20キロちょい行った公園を目的地に設定する。途中、観音の看板があったので立ち寄る。本尊に相見えるためには事前予約が必要のようだったので、あたりをふらふらしてふたたび目的地を目指す。舗装してあるとはいえ狭い林道を通る羽目になり、しかも激坂のコンボでぶじ足つきした。いままで登ったなかでいちばんの急斜面だった。帰りも同じ道を通って帰ったのだが、たのしさよりも恐怖が上回るダウンヒルははじめての体験だった(熊がでるかもしれないおそろしさもあった)。到着した公園は何もない野っ原で、とくにすることもなかったのだが地面に散らばるどんぐりや栗などをながめてしばらくベンチにたたずんだ。刈り取られた田んぼがひろがる盆地を見下ろす眺めはよかった。水の張られた時期にくればよりよい景色がひろがっていることだろう。蛍が生息する公園も通って帰ったが、季節外れなのでもちろん黄緑色の光に対面することはなかった。その時期的理由からか公園は整備が行き届いておらず、池のまわりの生え放題になったさまざまな雑草の上を踏み荒らして歩くのがたのしかった。総走行距離は50キロくらい。明日、片道120キロのライドにでかけようとしているが、はたして。

夜、キーマカレー。豚挽肉、大根、茄子、玉ねぎ。トマト缶、赤缶、ローリエギャバのカレーフレーク、カイエンペパー。塩とコンソメ1個も加えた。うまい。昨晩のかぼちゃのトマト煮がいいトッピングになった。

ユニクロで服を通販する。ハットひとつ、シャツふたつ。試着なしにしてはどれもいい感じである(ひとつ、袖丈が短かったが、そういう服だと思えば問題ない)。注文した翌日に届く迅速ぶりにおどろく。これが資本主義のパワー、、

起床早々からだがバキッていることに怖気づき、ロングライドはとりやめる。猫のノミ取りをし、ズラウスキーの夜の第三部分のことを思いだした(あれはノミではなくシラミだが)。

夜、ニラ玉汁、もやしナムル、しいたけバター醤油。カレーの残りとともに食べる。うまい。

同人誌のデザインをすすめる。同人から原稿が続々とやってくる。わたしも自分の原稿を完成に向かわせる。あとは推敲をなんどかかさねればおーけーの域にたどりつく。掲載順を考えていく。



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目覚めて階下に降りていくと、猫のかたわれがガンガンに足にすがりついてきて爪が痛い。遊んでいると思われないよう無視しているが正解のしつけはどのようなものか。

中山竜『チェンソーマン』2話。デンジのきもちの高揚を車のエンジン音に託すさま(画は走行中のホイール)、マキマさんが好きなタイプを答える場面の光の差しかた、「胸揉んでみてぇ」シーンの背景のグラビアポスターづかいと演出に気が利いていた。また、原作再現の場面選定として、うどんを食べるシーンをチョイスするのがウケるし、正解!ともなった。てっきり文字のみ統一だとばかり思っていたEDに絵がついていたのもおどろいた。

原正行『マイの魔法と家庭の日』(2011)。行政企画でつくられためずらしい短編アニメ。キャラデザがかわいく、ゆーちゅーぶで全編公開されていたので観た。富山県で制定されている「とやま県民家庭の日」のPRのために制作されたそう。やはり絵がいい。父の発する「大丈夫です」の一言でおばあちゃんが父にとっての義母であることがわかったり(しかし後半その父を「守」呼びするのはどうしたことか)、つねに兄を「光」呼びのマイが、寝起きにかぎって「お兄ちゃん」呼びしたりと台詞の細やかさが光っていた。そのぶん、マイの発する「みんな忙しそう」だったり、祖父の遺影のあとに彼の形見であろう帽子を被る犬のカットを入れたりする「親切さ」は余計なものとして目立って見えた。出産を控えた母が入院する病院からの電話を着電した場面に、雪(そこではじめて画面に登場するのもこころにくい)の中を走行する車のカットをつなぐといった編集でも魅せることができるのだから、余計にもったいないと思ってしまう。行政案件だから仕方がないのか。しかしこうした家族称揚物語にうっかり感動してしまうおれの精神がこわい。

www.youtube.com
けなげな主人公マイちゃんの声は宮本佳那子!


原正行『万能野菜ニンニンマン』(2011)。自動再生で流れてきたのでつづけて観た。苦手な食べ物を食べるとその妖精たちが見える少女まりちゃんの友情物語。凝ったレイアウトがバチバチにカッコよく、そうそうこういう感じでマイ〜も観たかった!となる(観おえたあとにしらべると、監督の吉原は幽遊白書クレしんなどでキレキレの原画を描いていたようである、そっちも観たい)。飼い犬のいなくなってしまった空の犬小屋を見つめるモモちゃんの表情ににじむ感情もすばらしく、芝居のうまい演出家・アニメーターはサイコーだなとなる。マスク=ジム・キャリー風に画面をあばれまわるニンニンマンのキャラクターもたのしい。音楽がやけによかったがプリキュアでもおなじみの林ゆうきが担当していて納得する。声優もめちゃくちゃ豪華だった。

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本作も吉原がキャラデザを務めており、やっぱりかわいい、鼻の穴がいいよな

ニャオズ・バイブレーション

過日Qさんの電話のなかで、わたしが保坂和志の『残響』を引き合いにして書いた文言が音読された。
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そのことが、乗代雄介『パパイヤ・ママイヤ』にも書かれている、と思った。

「ウチはあんたとぜんぜんちがうし、あんたの今までのこととか知らないし、あんたが落ち込んでてもどう励ましたらいいかわかんない。バレエとピアノやってたヤツに、ウチはわかってるよなんて絶対言えないし。言えないけどそれでも、それでもっていうか、だからって感じかもしれないけど、一緒にいない時も、けっこう一人で考えてた、あんたのこと」

中盤、SNSでつながった「パパイヤ」と「ママイヤ」という17歳の少女同士が、より自らの心中を言葉にし、おたがいの絆を深める場面。まさに「残響」から引いた箇所と同じことが、べつのしかたで語られている。わたしとは「ぜんぜんちがう」あなたに対して、「わかってるよなんて絶対に言えない」ことを含みおきながら、「一緒にいない時も」あなたのことを考えていたと告白する、その際に、「それでもっていうか、だからって感じかもしれないけど」と接続詞を言いなおすその切実さに、胸を打たれないわけがあろうか? 「それでも」ではなく「だから」。ちがうといえども、ではなく、ちがうからこそ。「わたしのことを、わたしの知らないところで、わたし以上に考えたり汗を流したりしてくれる人がこの世にいる」こと。そのおどろきを、その感慨を、時代や場所を隔てても感知することができるのだと教えてくれるのが「文学」であり、その営みである。作中、海に向かって投げられたボトルは、「誰か」の手によって拾われる。「投壜通信」の逸話をだすまでもなく、その「信」こそがひとにものを書かせ、ひとにものを読ますのだ。タイトルの人名に挟まれるかたちで打たれた「・」の途方もない深さ、そしてつないだもののきらめくほどのちかしさに、わたしは感動する。

デパプリ32話。ちゅるフェス回。かつてレシピッピを奪ってしまった引け目がつくりだすあまねの入店前の表情・芝居にグッとくる。台詞でそれを説明しないのがまたいい。くまモン発見後、熊本ラーメンのディティールを語るさまにもわらう。ブンドル団であったからこそのくわしさなのだろうか。くまモンとの出会いを語るらんらんパパの回想シーン、ラーメンの具材が画面の四隅からあらわれる演出がいい。Aパートおわりの「ホワチャー」と聞こえてきそうな止め絵も◎。

ドンブラ33話。タロウオペ回。マスターがオペの直前だというのに給仕を優先するのがウケる。オペ室もそうだが、ピーナッツゲーム時など音楽のつかいかたが冴えていた。

水魔3話。エレベータで向かう決闘委員会(!)の部屋にどこまでウテナをやるんだとわらう。たぬきのミオリネに対するミオミオ呼びも距離感のわからなさがでていていい。グエルの求愛で締めるエンドもたのしい。コンテや演出で惹かれるポイントはとくにないのだが、話はおもしろい気がする。

夜、椎茸挽肉ニラ大根の中華風炒め。うまい。

ワーク中、猫にPCのプラグを抜かれてぜつぼうする。データを復元できなかったら泣いていた。コンセントのある隙間に入りこまれないよう試行錯誤する。それにしてもねむいねむいとからだにすり寄ってきて、わたしの膝を枕にねむる愛猫たち、かわいすぎる。圧倒的癒されが日々発生している。



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猫を譲ってくれた母の友人の家にケージを組み立てに行く。我が家の猫たちの兄弟や父母にも会う。みなかわいらしい猫たちだ。とくに母猫の白黒の模様の出方がホルスタインみたいでらぶい。兄弟はうちの猫に比べてずいぶんと体格がよく、毛並みも心なしかつやつやしており、ながめているとほんとうに同じ日に生まれたのか?と訝しむきもちさえ起こった。途中、ちかくのとんかつ屋で昼食を馳走になりつつ(ひじょうに美味だった)、ぶじケージを完成させる。うちにあるものと同じサイズだが、ポールがついていたり足場が多かったりしてグレードのちがいを感じる。ダックスフントの老犬もおり、撫でさせてもらって犬派のわたしはたいそううれしい感慨を抱いた。死ぬまでに犬と暮らす時間をもちたい。食材やチェンソーマンの最新刊などを買って帰宅。書店には『鉄道小説』が入荷していたので買うか迷ったが、こんどまとめて通販で買おうととりやめた。

夜、オムレツ、豆腐と豚肉のごまおからパウダー和え。うまい。たんぱく質!という献立。食後にカゴメのなめらかオーツを飲む。うまい。母が買いこんだまろやかソイがうちには山ほどある。

藤本タツキチェンソーマン』12巻。連載時、いったいどんな「巻」としてまとまるのかと読んでいたが、こうして単行本として読んでもきちんとおもしろかった。アサがどうしようもないやつだという印象が増した。同人会議でもチェンソーマンの話になり、1部で描かれたデンジの成長が2部でどう処理されるのかというOの言及があらためて要点を突いていると思った。

夜、あぶらげとわかめの味噌汁、かぼちゃのトマト煮、鶏ハラミとレンコンのねぎ塩炒め。うまい。