ガン見ガン聴ガン触ガン嗅

映画を観おえたあとはそのまま同館にあるジュンク堂へ。棚をつまみに話をくりひろげながら、ヒープリのオフィシャルコンプリートブックを入手する。のち、パルコまで移動し、映画の感想を話しながら天ぷらを食す。揚げたての品々が一個一個時間差でやってくるスタイル。うまい! パルコで食事を摂るときは田中そば店ばかり利用していたが、お隣の天ぷらたかおもめちゃめちゃアリだなと思った。食後はそのまま階を下り、ニンテンドーショップ、ニチアサガールズショップ、カードキャプターさくらカフェの物販コーナー、ポケモンセンターを周遊する。ニチアサガールズショップでは明日のナージャのグッズがあれば買おうと思っていたのだが、あいにく品切れだった。代わりにトリトドンとフワライドのぬいぐるみ(ポケモンフィット)を買ってしまう。会計を担当した店員さんが、ポケモンをじっさいの生き物として扱う姿勢を見せていて感動した。レジに並んでいる際、わたしのうしろにいたおっさんが離れて並ぶように指示する床に引かれたラインを無視して立っており、不快感をおぼえた。この不快はコロナどうこうに由来しているわけではなく、おっさん特有の「身体性のなさ/雑さ」に端を発しているのだと思った。子供のプレゼントを買おうとべつのポケモンセンターにいる母親と電話していることも、言行が乖離しているようで嫌な気分になった。

パルコをでてからはディスクユニオンやゲーセンをチラ見したのち、人間関係で茶。「本物のオタク」についての話がおもしろかった。そんなにんげんにはいまだかつて会ったことがないというOのきびしさ。乗代のいう「本物の読書家」にも通ずる作品への、人生への向きあいかた。はたしてわたしはそのようなにんげんになれるだろうか? 「プリキュアのオタク」になれるだろうか? そもそもオタクとはなりたいと思ってなれるものだろうか? オタクとは「生き方の問題」ではなかったか?

Aさんも引き連れ、HQハウスで今回の演劇について語りつめる。親しい友人のなかでさえポリコレによる線引きが異なるのだから、いまの世のなかで作品をだすことのきびしさを思うに憂鬱な気分になる。だが、その「きびしさ」はこれまで顧みられることが少なかったマイノリティが受けてきたきびしさであるのだから、わたしがいま書いたことは傲慢以外のなにものでもない。むりやりAさんを連れてきたというのに、わたしは一足先にねむってしまう。

Hさんとふたりで銚子丸に行き、寿司を食らう。もりもり食らう。目の前で刃を入れられたまぐろの、捌きたてのかまとろを食べ、くちのなかでとろけるあぶら!といたく感動する。ひさびさに食べ物でこころをうごかされた気がする。これまで銚子丸で食べたネタのなかでいちばん美味だった。

店をでてわかれたのち、クリスチャン・マークレー展@東京都現代美術館を観る。テキスト、オブジェクト、映像、音といったさまざまな素材を、「編集」の手つきによって作品化する作家で、編集ラブなわたしにはもちろんラブリーな展示として映った。とくに4面スクリーンでさまざまな映画の「演奏」をつぎはぎして構成した《ビデオ・カルテット》(2002)と、これまたさまざまな映画をつぎはぎし、線と点のアニメーションをその上にかさねた映像作品《スクリーン・プレイ》(2005)。前者が音楽的な編集が為されているのに対し、後者は意味的・造形的・イメージ的な編集がほどこされていて、そのちがいもたのしかった。ほか、展示のラストに置かれた「手話による無音の演奏映像」《ミクスト・レビューズ(ジャパニーズ)》(2021)の裏手で、その楽曲のスコアの書かれた最初の展示室に鳴りひびくファクトリーサウンドがわたしの立つ「ここ」までもれでてきており、心をゆさぶられた。配布テキストには「元の(レビューが描写しようとした)音楽と、これらの無音の身振りの間には失われたものが多くある。にもかかわらず、それが音楽であるという感覚を得ることができる」とマークレーの言葉が引かれていて、それはそれで情動を引き起こす構造だと思うのだが、作家のこの目論見を遮るような「ノイズ」の存在は、またべつの回路をひらいていた。

美術館をあとにし、プリキュア本と舞城本を探しにブックオフめぐり。錦糸町秋葉原に行き、それぞれの街のブックオフ、後者のラジオ会館アニメイトゲーマーズをまわった。ブックオフでは探していたうちのひとつ舞城王太郎煙か土か食い物』と、プリキュア小説としての言及を見かけた柚木麻子『終点のあの子』を入手し、あみあみではトロプリのキラキラカードグミを発見したので箱買いする。地元では売っているところを見たことがない。メイトとゲマズははじめて立ち入ったが、わたしは顧客の範疇からはずれている感じがした。秋葉原を発ったあと、足を運ばなかったまんだらけと、ラジオ会館にあったハビコロ玩具というところにプリキュアグッズの取扱いがあることをしり、時すでに遅しとなる。ラジオ会館、途中で引きかえさずにぜんぶめぐってみればよかった。さいごの目的地シブツタではお目当てのスタプリのオフィシャルコンプリートブックをゲトり、ちょう満足する。

いったんHQハウスに荷物を置きにもどり、さいど駅までむかってHさんと飲む。家のなかではまだしも、ふたりで外で飲むのはいつぶりか? ひょっとするとはじめてか? もう10年来のつきあいだが、新鮮なきもちで日本酒や焼き鳥をたしなむ。隣のテーブルを囲んでいたサラリーマンたちが自慰についての話をしていて、「おまえは何で抜くの」と上司に問われた部下が「僕は漫画で抜きます」といっていたのが印象的だった。こんなどうでもいいディティールばかりが記憶にのこってしまう。こうして書いておかなければそんな出来事も記憶の底に沈む。

帰宅後、Hさんとツイキャス&スペース。Sさんもやってきて、主にデザイナの立場から今回のフライヤーについて話す。何を話したのかはおぼえていない。Sさんとは濱口竜介の話なんかもするつもりだったが、またはやくにねむってしまう。


f:id:seimeikatsudou:20220113155601p:plain
458


去る日。2日連続の寿司! HさんQさんと。昨日は調子づいてそれなりの枚数を食べた気がするが、今日はたったの4枚で満腹になる。こちらが平常である。わたしのあたまのなかには寿司を食べずに帰路についた記憶ばかりがこびりついているが、それは前々回であり、前回も寿司を食べて家路についていた

家の前でわかれ、中野ブロードウェイへ。キャリーをもってまわるにはたいへんな建物である。東京にいた頃にはタコシェぐらいしか行く店がなかったのであまりゆかりのない場所だったのだが、プリキュアという目的をもつと俄然魅力が増すスポットだった。まんだらけプリキュア本、プリキュアグッズ、ザンボット本を落手する。2日目に入手しそびれたラメールのキーホルダーは見つからず。現行シリーズの人気はすごい。ニュウマンで土産を買い、帰宅。道中、ザンボット本の人間爆弾の記述に鑑賞した際の感動をよみがえらせ、涙ぐんだりする。天気予報から察するに、こっちにもどるころには積雪しているだろうと踏んでいたのだが、わたしをでむかえたのはむきだしのアスファルトであり、寒波がやってくるのは今週末だという。湯を浴び、よくねむる。

区画化された愛(うるさい)

思っていたよりもライヴははやくおわり、Yくんと新宿で飲む。会社員をしていたころに足をはこんでいた中華の店。空いていた。さいきん酒量がやばいというわたしとは真逆の話をきく。こういう話をきくと、日常的には酒を飲まなくなったのは「よかった」のか?と思わされる。わたしたちが刊行している『たくさんの的』の影響でさいきんプリキュアの映画を途中まで観たというが、話を聞いていても作品の判別がつかず、おのれのにわかぶりに直面することとなる。プリキュアマスターへの道は遠い。店をでたあとはゲーセンに立ち寄り、YくんがUFOキャッチャーをプレイするすがたをながめる。操作されたアームは毎回正確に標的をキャッチするのだが、アームが最頂部に到達すると、かならずミッフィーちゃんはもといた場所に落下するのだった。

わかれたあとはHさん、Qさん、A、Nさん、初対面のHさんと飲む。隣に居合わせたおっさんがうるさい。生牡蠣がうまい。東京の風はつめたい。

HさんもQさんも、わたしがめざめる頃にはいないはずだったが、ふたりともきちんとそこにいた。いっしょに帰ってきたはずのNさんのすがただけがなかった。Hさんを見送ったあと、わたしもでかけた。武蔵引田というしらぬ駅にゆくと、亜細亜大学があった。目的は期間限定でイオンに設置されたプリキュアプリティストアminiで、ラメールのビクトリーなキーホルダーを入手することだった。が、あいにく品切れていた。はるばるきたので同種のパパイアと、キメ技を放つマリンを買った。ブラインドタイプの缶バッチもあがめた。購買心を煽る「限定」の二文字。もと来た道をひきかえし、朝からお茶しか入れていない空腹を抱えて東京駅のプリティストアに向かった。店の場所だけ確認し、斑鳩でラーメンを食べた。九段下にあったときはおいしかった記憶があるが、あまり好みでない味になっていた。過剰な油っぽさ、しつこさにみたされていた。あと10歳若かったら好きだったかもしれない。

はじめての訪問となるプリティストアは想像以上にこぢんまりとしており、なおかつ品切れ商品も多かったがために何を買うか迷った。さんざ悩んだのち、トロプリのハロウィンブロマイドとハトキャのビッグタオルを買って店をでた。時間に余裕があったので八重洲ブックセンターもぷらぷらした。ほんとうは丸善に行くはずだったが、東京駅がひさびさすぎて方位をまちがえたのだった。時間がギリになり、ちょうどモニョチタさんの展示をしていたvinyltokyoは訪問に失敗。阿佐ヶ谷へ。劇場までの道のりにあるブックオフキラキラ☆プリキュアアラモードのオフィシャルコンプリートブックを発見したのですかさず購入する。800円。刊行されているものは本編を観ていない作品ばかりなのだが、手をだしてしまったからには全種コンプしたい。


f:id:seimeikatsudou:20220108161541p:plain
457


アートスペースプロットにて排気口/菊地穂波企画公演『金曜日から』。おもしろかった。ディティールの強度。語を引き受ける脚力のちからづよさ。ブリッジとしても、トランポリンとしても、跳ねた言葉を受け止めるうしろの言葉がこれまでになく冴えた切れ味をみせていた。パロネタを扱う手つきも洗練されていたように思う。しらなくてもなにひとつ問題がないスムーズさがあった(しっていたらなおおもしろい)。至るところに技術の積みかさねを感じた。

動作もおもしろかった。言葉をしぼりだしながらダブルパチンコをする波世側まる。ないものをあるものとして、あるいは途中でないと気づいているのにも関わらず、あると信じてしまう空気椅子のアクション。どん詰まりの無残さが香る「超能力」研究の寓意として、あるいは「演劇」という所作のメタファーとして、単なるギャグにしか見えない動作が、切実なものとして異彩を放っていた。圧倒的なくだらなさが悲哀を帯びて胸を打つものに変化していくのは、排気口の十八番であり、そのドラマの核心でもある。

この構図はラストにおいてもすばらしい結実を見せていた。暗転後に流れるラジオ音声によって、遠藤の友人であり、ププ美のラジオのヘビーリスナーである男がフィリピン武術・カリの師範代になることが告げられるが、それがまさしく「余暇」の可能性を示しており、わたしは衝撃を受けたのだった。「ないもの(-超能力)をあると証明する」仕事に人生のすべてを注いでいたかおりは、「あるもの(-子供と夫)をないもの」として扱ってきたがゆえに、作中では破滅的な状態で終演を迎える。所属していた共同体が解散し、気がついてみればさまざまなものを失っていた彼女が、夢うつつのなかでまだ見ぬ未来への希望にみちあふれていたかつての光景を幻視する場面(ないものがある!)は、ものがなしくも感動的だ。だが、そこで幕切れとしないのが排気口である。照明が落とされ、おふざけのように流れるププ美のラジオの最終回が伝えるのは、先に触れた「カリの師範代」のくだりである。タイトルの『金曜日から』に着目してみれば、その先には土曜日と日曜日という休日(-余暇)の存在が見いだすことができ、かおりの「明日-未来」もそこに重ねることができる(舞台の上はつねに「金曜日」である)。つまり、余暇を用いて「カリの師範代」となった男は、あり得たかもしれないかおりのすがたであり、あるいはこの先に待っている「余暇」の可能性をほのかにしらせる使者でもあるのだ。劇中、遠藤の何度も反復される「痛え」と、その身体に増え続ける包帯がばかばかしさを増幅させていた「カリ」は、こうしてかけがえのないかがやきを放つものに変貌する。これは「超能力」ではないが、「ないものをあるようにふるまう」演劇が為せる技であり、「想像力」が生みだすひとつの達成である。さまざまなものを「信じている」ひとたちがたくさん登場する本作だが、わたしもまた、そのちからを信じたいと思わせられる作品だった。

役者にも触れておくと、かおりを演じていた井上文華が場全体の重しとして機能していて、作品の構造とも相まってひじょうに印象的だった。彼女の夫役である平岡唯君の声も、まるでディックのムードオルガンのような情感をつくりだしていてこころにのこった。ペペの妹役を務めていた刺腹由紀の登場シーンはグッと空間をねじ曲げるような圧があり、『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』のパラパラをしながらおどりでてくる小野カズマを思いだした。菅野姉妹のていねいな顔の芝居にも目を奪われたし、遠藤を演じる広野健至の隙のなさも全体を支える屋台骨としてほがらかにひかっていた。

観劇後、同じ回を観ていたTさんとRくんと劇場前で立ち話。ふたりとも年単位ぶりの再会なので話が弾む。打ち上げではいくどもフライヤーを褒められ、やる気がたくわえられた。二次会の途中で抜け、ぐっすりねむる。

めざめ、ちょうど寝床で起きあがったQさんにあいさつし、トイレで用を足していると三次会(?)に行っていたHさんが帰ってくる。こうして三者が同じタイミングで会することにシンクロニシティを感じる。超能力である。シャワーを浴び、ル・シネマへ向かう。

OとAさんと濱口竜介『偶然と想像』(2021)を観る。本編について触れるまえに上映前の出来事について書く。今回の客がそうであったわけではないが、これまでの来訪の経験からル・シネマの客層は金をもったジジババという印象がつよく、上映前のスクリーンにはそれを証明するような予告ばかりが流れていたのだが、趣味のいいブルジョワたちに向けられたの数々のそれらの末尾にラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000)4k版が置かれていることがめちゃくちゃおもしろかった。いや、ぜったいちがうやろとわらってしまった。が、そんなのんきな話ではなく、これは文化の収奪であるのかもしれない。ハイファッションの世界におけるそれと同様に、資本の暴力がそこには見いだせる。

映画はさほどだった。つまらないわけではない。『ドライブ・マイ・カー』(2021)を観ていない身で言うのもあれなのだが、『寝ても覚めても』(2018)以降、それ以前に撮られた作品の方が好みだなと思うことが続いている。と言っても、『PASSION』(2008)、『親密さ』(2012)、『ハッピーアワー』(2015)の3本しか観ていないのだが。

1話目「魔法(よりもっと不確か)」がいちばん好きだった。タクシー車内での会話をとらえた一連のシーンの怖さ。運転手のまなざしを序盤にちらとインサートすることによって、「画面の外」が画面に対して圧力をかける。シーンの長さとその内容も相まって、一体どこに連れて行かれるのかとドキドキした。その後に展開される元恋人同士のグサグサとした対話もきょうれつだった。テキストがめちゃくちゃつよいというのは3話すべてから感じたことで、がゆえに、あまりに長くそれが連続するのであたまから言葉が抜け落ちていく場面もあった。観ている最中はそうは思わなかったが、いまこれを書いていて、ベルイマンのダイアローグのありかたをちょっと思いだした。『秋のソナタ』(1978)における母娘の包丁を刺しあうような会話。観おわったときにはエリック・ロメールの名前が浮かんでいた。とにかく話しっぱなしの3話だった。もっといろいろ思ったはずだが、観てから時間が経ってしまったのと、観おわったあとに3人で話したのでもういいかという感じである。ズームアップ演出、ラブ!

夢のなかで叱りつける

グラスに注がれたビールを飲みくだすとおおよそ三ヶ月ぶりのアルコールにからだが拒絶反応を示し、尋常でないかゆみが上半身をうごめきまわった。この文を書いているだけで、あたまがかゆくなってくる気さえする。しかしビールはうまい。害があろうが、ビールは好きだ。ほろ酔い気分でQさんの制作途中のニューソングスを生で聴き、エモーショナルな気分を抱いたまま初日はねむりについた。

昨晩東京に着いて、真っ先に思ったのが「小諸そばに行きたい」ということだった。その欲望をみたすために、今朝は富士そばにてミニかき揚げ丼セットを食した。そばも丼も、小諸のほうが好きだと思った。揚げ物がつづいている。

志水淳児『映画 トロピカル~ジュ!プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪!』(2021)。映画館でプリキュアるのははじめてのこと。終映間際とはいえ土日だったので、まばらな家族連れとともに観る(大友もいた)。家をでるまえに「プリキュア観てきます!」といったら「テロリストとまちがわれるんじゃないの」とQさんにいわれたが、じっさい、肩身の狭さがある。家族で過ごす平穏な土曜の午後を脅かしていたらすみません!

何より衝撃を受けたのは、変身シーンで涙をながしているのである。おれがである。二次元の少女たちがプリキュアに変身していくさまをながめているおれのまなこから、しらずしらずのうちにあついものがこぼれているのである。劇場の音響と大画面という環境、映画用にアレンジされた長大で壮大な変身BGM、メインであるトロプリメンバーにかぎらずゲスト参加のハトキャメンバーまでもが全員ソロかつほぼフルで流れる(すべてあわせてなんと10分ちかくもある! 映画全体の7分の1が変身シーン! 狂っている!)という構成。それらが渾然一体となって全身に投射された結果、気がつけば泣いていたのである。ずいぶん遠いところまできたなと思った。30年ちかい年月を生きてきて、わたしは映画館でプリキュアの変身シーンを観てボロ泣きするヤバ・オタクになっていたのである。どう考えてもまっとうなにんげんではない。なにかを踏みはずしたにんげんである。わるいとはつゆにも思っていないが。

オープニングの流れがすさまじくよかった。雪の王国シャンティアに向かうまでにおこなわれるじゃんけんや席替えといった場面での細やかな芝居と所作が、それぞれのキャラクターをしっかりと立ち上げていた。このていねいさには雪空のともだちにおけるほのかの通話中の芝居を想起した。また、本編ではなかなか見ることのできない、あすか先輩の愛らしさがそこかしこにちりばめられていたのもよかった。これはテレビでの放送をながらく観てきているからこそ味わえる感慨かもしれない。演出という点でいえば、ローラが怒って部屋をでていくシーンもよかった。足を強く鳴らして去っていくすがたを、鳥瞰視点である程度のながさをもってとらえている。そのささやかなまなざしの持続が、彼女のいらだちを画面に充満させる役割を果たしていた。

ラスト、「歌」が映画の重大なピースとなって流れるが、その抑制された演出がひじょうに印象的だった。歌のまえによくうごく戦闘シーンがあることもあって、「棒立ち」や「口パク」と揶揄する言説を観賞後にいくつも目にしたが、では、この場面をアグレッシブなカメラワークや、情感たっぷりに歌いきる超作画で魅せることがほんとうに最適な手法なのだろうか? わたしにはそう思えなかった。ここで観客に伝えられんとしているメッセージは、曲でも、歌でも、ましてやうごきでもなく、「詞」であり、「言葉の意味」である。そこに観客の意識を集中させるための演出として、この作法は唯一の正解ではないにしても、相応しいもののひとつだろう。言葉をまっすぐに伝える際には、余計な装飾は不要である。

上映後、同じ列に座っていた母親が自らの娘に対して「ママ感動してすこし泣いちゃった」と語りかけていてとてもよかった。むろん、わたしも泣いていた。変身シーンの比ではない涙液でマスクをぐっしょり濡らしていた。コロナの影響もあってプリキュア映画恒例の応援シーンはカットされているのだが、上映中に喋る幼い子供たちの存在はかけがえのない「鑑賞体験」を形づくるものとしてそこにあった。ともに観ることの感動。黒沢清「大勢の人と一緒に観る場」こそが「映画」なのだといっていた。映画館補正もあるだろうが、これまで観てきたなかでのマイベストプリキュア映画となった。


f:id:seimeikatsudou:20211224231807p:plain
456


上映後はパンフを買いもとめようとスタッフに声をかけるがざんねんながら完売とのこと。グッズもすこししかなかったので足早に劇場をあとにし、恵比寿へ。ルース・ファン・ビーク展をPOSTで観る。ファウンドフォトを用いて作品をつくっている、好きな作家の日本初の個展。もっていない本が売っているといいなと思っていたが、予約販売の過去作が1種あるのみだったので何も買わずにでる。販売されていたポスターにはあまり心を惹かれなかった。来年(記事が公開されているころには今年)はわたしもこういうアプローチで作品をつくってみっかな、と思った。グラフィックではなくアートピースという意識。フライヤーをつくる際のメインヴィジュアルを単独で作品化するようなイメージ。

のち、東京都美術館で日本の新進作家vol.18「記憶は地に沁み、風を越え」展とプリピクテ「FIRE/火」展。どちらもあまりおもしろくなかった。前者の山元彩香の「作為の写真」にはこころうごく瞬間があったが、掲示してあったステートメントにそこからの乖離を感じて興醒めしてしまった。後者はアワードのノミネート作品が展示される形式で、コンセプトではなくテーマ形式の展示はわるい意味で散開してしまうなと思った。

有隣堂をふらついたあとはOGRE YOU ASSHOLE恵比寿リキッドルーム。ソーシャルディスタンス仕様になってからははじめてのライヴハウス、だいぶ見やすさがある、が、見やすさ優先で立ち位置を決めたところ、ずっとしゃべりつづける中年女ふたりのうしろに位置づけてしまう。その当てつけのように、アラフォーになって独身で、夫もいなくて、と未来もライヴホリックのままの自身(?)を語る20代なかばのおんな、サイコーだった。ひきこもっていては出会えない、生々しいコミュニケーションの苛烈さがあった。当てこすられているほうからの「わたしたちがその年代であるぞ」という暗なる返答もあってよかった。こうしたやりとりは、生で接しなければなかなか出会えない。

なくした→フェンスのある家、とホラー感のある幕開けに、オウガはホラーコンセプトのアルバムをつくったらいいのではないかと思った。内臓と鼓膜で感覚する恐怖のライヴ・パフォーマンス。寝つけないを挟んで、今回のライヴの山場であろう、ムダがないって素晴らしいから素敵な予感への移行にはオーガズムを得た。イチローの「ほぼイキかけました」とか、ドライオーガズムってこれだよねというきもちになる。兎にも角にも「パーフェクト・ラバーズ・イン・ザ・パーフェクト・シティ」という英題のすばらしさ。ところどころで叫びちらしている観客がいたが、歓声を上げてしまうきもち、ひじょうにわかる。朝も相変わらずすごかった。「もどってくる」感動。これは初日にQさんと話していたことでもある。同じものが、まったく別様のものとしてたちあらわれること。クイーンズ・ギャンビットを観たときに思った「再登場」のドラマにも通ずる。今回のアレンジは歌にはもどらず、曲で完結していた。それはそれでむずむずと内腑がいななくような快感があった。思わず拳が挙がった。肉体がうごいた。オウガを観るのは2019年末のリキッド以来で、新曲も期待していたのだが、それは叶わなかった。

ゆゆしいloveyou

ベル・フックスの訃報を目にし、声がでた。2020年にエトセトラブックスから復刊された『フェミニズムはみんなのもの』はフェミニズム入門にぴったりなので題にある通りみんなに読んでほしい、とまで書いて、たとえば書店や雑誌の「追悼特集」って資本主義がひとの死をがっつりと取りこんでいる例でもあるのだよなといまさらながら思う。坊さんはともかく、おれは葬儀屋がむかつくよ。「互助会」とかいう詐欺まがいの収奪システム……。

明日やろう明日やろうで先のばししてきた荷造りにようやくとりかかる。冬場は服がかさばるのでつらい。候補をだすだけだし、当日朝のええいままよ!にあとは任せる。

ニコラス・ウィンディング・レフン『プッシャー3』(2005)。「父」の話をしている! しかもすでに衰えた「老父」の話を! 「そして父になる」2のあとに本作をもってくるぜつぼう感。レフンへの信頼がいやます。ユーネクストにあるだけ観ようと思う。若きギャング「キング・(コング・)オブ・コペンハーゲン」に代表される新たな世代の波に相対する、老化のために、上着を自分だけで羽織ることもままならない身体をもった、デンマークドラッグ界のゴッドファーザー・ミロ。誕生日を迎える娘への愛に生きようとしながら、自身の立つ場所と、これまでそこに築いてきた自らのおもさが、その血の通った生のありかたをゆるさない。この世界においては、1と2に影をのばしていた「ママ」はもはや不在である。祭のおわりをつたえる何も載っていないテーブルと、空のプールという空虚さをもって幕切れるラストシーンを埋め得るものは、まさにこの「母」ではないか? 観た折にはここをむすびつけることはしなかったが、このくだりを書いていて、そんなことを思った。本シリーズは、21世紀の「男」を考える上で、ひじょうに重要なトリロジーである。

冒頭、薬物依存症者の集会において参加者がタバコをスパスパ吸っているのがよかった。Aの依存を考える際には、Bは考えなくともいいのだ! むろん、そんなわけはない。こういうふざけたユーモアは、ミロの料理を食べた部下たちが腹を壊し、クソを漏らす場面にもあらわれていて、暗く血濡れたシーンの合間にあたたかみを感じることができる。そしてその暴力側のピークである後半に配された人体解体ショー! 屠殺スタイルでふたつの身体を捌いていくさまがそれなりの照明下で記録されており、これまでの2作に見られなかった直接性があった。なかでも、グルグルと回転しながら排水口に吸いこまれていく人間の臓物がえげつないヴィジュアルとして刻印されていた。いっしょに祖母も観ていた(!)のだが、くだりのシーンの最中は目を背けており、観おえたあとに「きもちわるい映画だったね」といっていた。それにしてもミロ(ズラッコ・ブリッチ)の声がマジでいい。声だけで信用に足る役者なのがわかる。イライラシーンで流れる炸裂ノイズギターは、これまでのシリーズでの「ダサロック」演出とは一線を画していた。


f:id:seimeikatsudou:20211224231652p:plain
455


夜、ヨーグルト漬けポークのスパイス炒め。ハリッサ、にんにく、パプリカパウダー、ナツメグ。玉ねぎ、レッドキドニー入り。うまい。

明日ここを発つので食後にチキンカレーもつくっておく。赤缶をベースに、にんにく、しょうが、フェヌグリーク、フェンネルシード、ローレルと、クミン・コリアンダー・カルダモン・クローブナツメグ・カイエンペパーをパウダーで。具は鶏、玉ねぎ、にんじんのみ。ほか、トマト缶、ヨーグルト、バター、塩胡椒醤油コンソメ。玉ねぎは刃を入れる回数が少ないほうがうまみがでる、との記述を読み、それなりのおおきさのまま炒める。味は明日の朝確認する。

ここまで、旅立つまえに書いた(プッシャー3の感想以外)。ここからしばらくは思いだしながら東京での日々が書かれる。カレーは家をでるまえに食べた。おいしかった。荷造りはいそいでやった所為でタオルを入れそびれたが、それ以外はなんとかなった。バスは空いていた。ひきこもりの生活を送っているので、バスターミナルでひさしぶりにまったくの「他者」たちと同じ空間に居合わせ、おうおうというきもちになった。とつぜんひとりで語りだし、傘の先でベンチを執拗にたたくにんげんの存在感。逆説的に、東京で生活をしていると不感症になる、と思った。これはビフォのいっていた話に通ずる。いくつものアナウンスと効果音と会話が折りかさなり、それを(自らには関係の)ないものとしてふるまうひとびと。キャリーをエスカレータでたおしてしまうという出来事が滞在中あったが、思いかえせばその応対にもまちがいなく「東京」という環境が作用していた。ふたたびこの地で棲まう際の身体性に考えがおよぶ。

今回もお出迎えはなかった。キャリーをガラガラ引いてあと数日で閉店するてんやで冬野菜の天丼を食べ、ブックファーストで本を物色したあと、だれもいない宿泊地に向かった。荷ほどきし、携えてきた酒と銘菓をひっぱりだしたところで、家主のかたわれであるQさんが玄関の扉をひらいた。居候者が家主を迎えるへんてこな構図がおもしろかった。その手には酒の入ったビニール袋がぶら下がっており、さっそくわたしたちは杯を交わした。

ガンマの死相

映画美学校 フィクション・コース第23期高等科『うそつきジャンヌ・ダルク』第1部(2021)観る。投影された映像が背景あるいは登場人物となり、撮影者およびスタッフは劇中に映りこんで介入する。さいしょの木の背景にストローブ=ユイレを想起し、スクリーンをもちいたメタ要素に七里圭を思いだした。まじめさのなかになんのエクスキューズもなしにふざけが入ってくるのがたのしい。唐突さがあっても凸凹して見えないのは、「実地」ではなく「見立て」によって環境が設計されているからだ。それはつまり「演劇」の構造でもある。3部まであるのでつづきはまたこんど観る。

ダサセーターがほしい。30代はダサセーター&ダサスウェットのにんげんになろう。

物語への興味が増している。20代は反物語反物語とバカのひとつおぼえのように口ずさんできたので、その反動があらわれているのかもしれない。反物語への関心が薄れたわけではない。

買いだし。野菜と調味料の類を買う。行きに降っていた雨は帰りに止んでいた。

ニコラス・ウィンディング・レフン『プッシャー2』(2004)。1にひきつづいてオープニングがマジでサイコーだ。前作の主人公フランクの相棒トニー(マッツ・ミケルセン!)を主人公に据えた本作は、男の不能性を主題としており、「母」を喪失し、「父」を殺害する彼の希望になるのが「子供」であるというところに深く感銘を抱いた。『アカルイミライ』じゃんってことだ(ほんとに? おれはこういうエンディングにすぐ『アカルイミライ』をむすびつける)。本作が描く内容は同人会議で話しているようなことがらにだいぶ肉薄していたので、同人のふたりにもすすめたいと思った。

トニーに語りかける男の画から映画が幕開けるが、いつその聞き手を画面に登場させるのか、というのが気になるカットのつかいかた(ながさ)だった。彼は「早く男になれ」とトニーに訴えるわけだが、つぎのシーンでトニーはあえなくタコ殴りになることからもわかるように、劇中、徹底してその男根は屹立することなく折られつづける。売春婦の前では陰茎は立たず馬鹿にされ、自信満々で差しだした父へのプレゼントは拒絶され、用心棒として協力したヤクの取引は失敗する。前作にもあった「ママ」への拘泥/反発は本作のなかにもあって、はたして『ドライヴ』(2011)や『オンリー・ゴッド』(2013)ではどうだったかと思いだそうとしたが思いだせない。トニーがAVを見ながらヌンチャクをふりまわすシーンがあって、それを隣に座る友人に嗜められているのがウケた。こういうさりげないユーモアを暴力の合間に合間に入れこむつくりにとても好感をもつ。ハッパをキメながら乳児にミルクを与える母や、結婚式の夜にウェディングドレスを着てコカインを吸引する女、赤ちゃんのおむつを取り替える強面アウトローの男ふたりなど、まず画面内のにんげんのありかたがおもしろい。トニーと、トニーの子の母であるシャーロットの「記憶力に問題があると言われたことがある」「誰に?」「覚えていない」というやりとりも単純だがわらえた。

「母」を殺すことはできなかったが、「父」は殺すことができた。自身は「男」にはなれなかったが、「親」にはなることができる(かもしれない)。この主体のありかたがおもしろいと思った。すでに「父」すらも殺せない2020年代のわたしたちは、はたして「親」になることができるだろうか? あるいはその志向をもつだろうか? 少なくともわたしは子がほしいきもちがある。わたしの肉体が元気なうちに、男性身体が妊娠できる世界がやってこないだろうかと妄想することすらある。これは白痴エロゲーの欲望と同一か? 自分よりも弱い存在に触れることで、自己を肯定するちからを獲得する搾取的な関係性をもとめているのか? いや、そもそも子供をこの世に出生させること自体が、否が応でもその関係性に身を投入することである。反出生主義の議論を追っていないのでこれ以上このルートで思考はのばさないが、行き場を失った男がすがるものが、自分の幼い息子であるというのはとてもわかる気がした。自身の服役中に恋人でも妻でもない相手から生まれた子供、ほんとうに自分の子供かも診断していない子供、目の前にたたずむまだ言葉も話すことのできないか弱き子供……。


f:id:seimeikatsudou:20211215184108j:plain
たまには料理の写真ものっける


夜、ニラとレンコン入り肉団子。うまい。きざんだ具材と肉をオイスターソース、鶏ガラ顆粒、塩胡椒酒醤油で練りにねり、片栗粉をまぶして焼く。大葉を入れてもよいだろうし、もちろんにんにくや生姜を入れてもよい。餃子のタネにもなる。ドロヘドロのまかないギョーザバーグ丼を思いだす。

会社員時代、社内外で髭を生やしていることをさんざんネタ(主に「否」の言及の対象)にされたが、そのときに社交辞令としてわたしが発する「お見苦しくてすみません」という言葉、いま思いかえすとイカれている。自身の容姿に関して、なぜ他人に謝らなくてはいけないのか。教育機関における頭髪検査とかぜんぶやめたほうがいい。髭について、出入りしていた「おもてなしの最高峰」みたいな企業のスタッフに陰でボロクソに言われたことがあるが、そんな精神性で為される「おもてなし」、さいあくだと思った(これってあやうい精神論?)。髭が生えていることに対して「お見苦しいですが」と断わりを入れているついーとを見かけ、このような記憶が突如忘却の彼方からよみがえってきたのだった。そんなことをひとにいわせる社会、はやくおわれ。おわらせよ。

いいよ、ってきみはいう(晴れ時々曇り)

東京行きの日程を決定する。こうやってスケジュールを自ら立てるのが苦手である。先の予定を決めるのが嫌いなのだ。なにごとも、できるだけ時間の余裕がある状態で、その場その場で決めていきたい。だから「予約」が必然的に絡んでくる「旅行」に対して、抵抗感がある(旅自体は好きである、無計画で旅立つたのしみ、目的なく街を歩くことのよろこび)。

夜、タコの唐揚げ。市販の焼肉のたれ、にんにく、マヨネーズに漬けこみ、揚げる。片栗粉がなかったので小麦粉で。べちゃついてしまったが、味は○。昨日の味噌炒めとともに食す。

SNS上で「怨嗟」の声を見るたびに、ついったやいんすたなんて辞めてブログをやられい!というきもちになる。自身の感情をぶつ切れの言葉に託して「流通」させることよりも、ある程度のながさをもって言語化、つまりは「記録」したほうがずっと快癒や発展につながるのでは、と思うが、当事者からしてみればこんな考えは余計なお世話に過ぎない。ただ、「いいね」を丸薬にしてしまうのはつらい道だと思う。

ベース視点からマニヘブをふりかえる岡峰の動画のアーカイブを観(聴き)ながらテキストを書いたり読んだり漫画を読んだりしていたのだが、おわりぎわに飼い猫であるマタの死を語るくだりになって意識が映像に急激にひっぱられ、そのひきこまれ自体にこころをうごかされた。なにか切実な問題がひとのくちから語られるとき、そこには明確に他者を惹きつけるちからが宿るのだと思った。かつて役者自身の抱える問題を「告白の形式」をつかって舞台に載せた作品を観たことがあって、そのときはまったくこころがうごかされなかったのだが、このちがいはなぜなのかということは考える余地があると思った。岡峰の動画のふとこぼれるような感じ、ベンヤミンならアウラとでもいいあらわすだろうその不用意な口ぶりが、身ぶりが、わたしの関心をきょうれつにアトラクトした。

無料公開されていたので、橋本悠『2.5次元の誘惑』を1話から最新話まで読む。おもしろい。最序盤はお色気全開のエロコメディであまり惹かれなかったのだが、ついったのタイムラインで見かけた紹介文に「キャラが増えてきてから尻上がりにおもしろい」とあったのでつづけて読んでいくと、なるほどたしかにおもしろく、一気に最新話まで読んでしまった。これはジャンプ系エロコメの皮を被った『同人女の感情』(『私のジャンルに「神」がいます』)だと思った。わたし自身は二次創作にあまり関心がなく、ゆえにコミケにも行ったことがないのだが、こと創作に関してはコミティア育ちの出自をもっているので、フィクションのなかで描かれる同人文化への熱意はわたしをひどく魅了するのだった。そしてこの作品に流れるオタク感はファミレスラブコメの傑作・桂明日香ハニカム』に通じているのだと文化祭回のおわりあたりで思い至った。キャラ立ちのテイストもどことなく似ている。「好き好き」を前面にだしつつ、それを受けとってもらえないみかりんがラブい。これが負けヒロインの魅力か。『ハニカム』では鐘成推しであり、『∀ガンダム』ではソシエ推しであることが思いだされる。あらためて気づかされる自身の嗜好。

天原masha『異種族レビュアーズ』も無料公開されている3巻あたりまで読む。アニメ放映時に炎上(?)していたおぼえがあるが、この感じでも槍玉に挙げられるのはキツイなと思った。題材がエルフ、天使、スライム、サキュバスといったさまざまな種族の風俗店レビューをするホモソーシャルな男たちなので、構造的にはポリコレに引っかかるものではあるのだが、じゃあこれがミソジニーでありセクシズムなのかと問われるとちがうんじゃないかと思った(もしかしてそんなことはだれも言っていない?)。性的な表象のテレビ放映の倫理ということになれば、まあわからなくもない、のか……? 炎上を追っていなかったし、読みおえてもあらためてしらべるような情熱も生まれてこなかったので思考はここらでストップする。


f:id:seimeikatsudou:20211215224522p:plain
454


ウィリアム・ユーバンク『シグナル』(2014)。つまんない話なのにおもしろい映画になっているのがふしぎだった。いや、他人にすすめるほどおもしろくはない。けれども、ヘンテコ映画が好きなひとには一見の価値はあるのではないか、と思わせられる野心を映画のなかに感じた。青春ロードムービー→POV風スリラー→無機質系感染SF→脱出劇→感動バトルアクション……とジャンルを次々に横断していくさまは、真相をひっぱるだけひっぱるスタイルと相性がよく、その変転ぶりによってドラマがつくりだされていた。展開で作品をつくっていくスタイルはリンチの気配も見いだせるが、テイストがちがう。いなたさというか、土っけがあるリンチに比べて、本作には都会志向・無菌感がある。なお、アメリカの大衆紙『USA TODAY』でユーバンクを紹介する記事ではキューブリックとリンチが引き合いにだされていたそう。

主人公がUFOキャッチャーのやりかたを少年に指南するシーンがファーストカットに採択されていることにもあらわれているが、「象徴性」がひじょうに素直に作品のなかにきざまれており、作中ではトラウマとしての「渡れない河」が幾度も反復されたり、にどともどることのできない遊園地での「回転運動」が複数回フラッシュバックする。ゆえに、ラストの「直線的な疾走/突破」がひかるのだが、じゃあ上記の演出が効果的だったのかのと問われるとどうか。気概ほどは成功していなかったように思った。

細部に目をやると、主人公が寝ているあいだに義足に人体改造されているシーンがあるのだが、そこですぐさま陰部はどうなっているのか?と確認する動作があるのがよかった。あまりユーモアのない映画なのだが、そこには茶目っ気があった。プロップや照明における赤と黄色とカラーリングも目を惹き、無数の場面でそのカラーが採用されているので、画面にあつみがでていた。視覚的な連関をむすべる色を配することで、観るひとが勝手にそこに意味性・記号性を見いだすというわけである。マトリックスのモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)の存在感も見どころ。

夜、ワラサ(ブリ)フライ、わさび菜タルタル添え。豚ねぎスープ、煮干し&あごだし。うまい。衣は卵・小麦粉・酒・塩のバッター液+パン粉。低温でじっくり揚げる。タルタルは茹で卵・わさび菜・塩・マヨネーズ・蜂蜜。魚によく合う味。

天ちゃんの着脹れ

 ちいさな頃からそうされていたのだろうと思わせる身の熟しで跳ねて、指の先を枝垂れのふくらみに引っ掛ける。童話の挿絵めいた所作だと、画面から目を離してから考えた。だから、そう書いた。吾妻はこれを読んでどう思うか。そこまで考えた。だからといって、彼がこの文を読んで思い巡らす事柄に影響を与えることはできないし、彼の感想を事前に想像することで、書かれたものが変形するほどのつよい念もなかった。ペン先から漏れでるインクの滲みが句点の輪の内側をつぶした。交代まではまだ時間の余裕があったので、ペンを置いてノートを閉じ、ちいさなフレームのなかで跳びまわる彼にふたたび目を遣った。運動靴が地面を蹴るたびに黒のジャンパーの裾がふわりとめくれあがり、裏地の芥子色が「子供のはつらつさ」を演出しているように見えた。そのことは思うだけで済ませ、文字としては書きのこさなかった。
 扉を叩く音がして、反射的に声で返事をした。同時に椅子から立ち上がって、ドアの把手をつかめる距離まで身をうごかした。この向こうに吾妻の顔がある。鍵を開け、扉を開くと、その想像の位置に吾妻の顔があらわれる。
「髪を切ったのか」
「邪魔でね」
 部屋に立ち入り、薄手のネイビーのブルゾンを脱ぎながら、短髪になった彼は言った。吾妻の後につづいてもといた場所とは反対側の椅子を目指すわたしの瞳には、さっぱりと刈り上げられたうなじが映った。そこに彼自身の左手がのびてきて、毛流れに逆らうようにして四つぞろえの指が頭頂部へと運ばれていくさまも見た。サパパパパと、毛髪の立てる音がここまできこえてきそうだった。机をはさんで椅子に座り、たがいに向きあう。
「様子は」
「変わりないさ」
「うん」
 吾妻はうなずいて、机上のモニタを見た。画面のなかの彼は、いまだに木のそばでぴょんぴょこと身を浮かせ、枝先にふくらんだつぼみと戯れている。
「太ったか?」
 眉を寄せた吾妻の表情はけわしさをたたえていたが、それに比して語調はひどく軽かった。そこに容姿を貶す悪意は感じられなかったが、その感じられなかったという実感が、語のきりひらいた傷口をさらにおおきくもするのだとも思った。
「着膨れだろう」
「そうか」
 関心はそこで切れて、吾妻は椅子の背もたれに身をぐったりとだらけさせた。彼の沈んだ上半身を一瞥して、向田が長官の声音を真似して「姿勢を正しなさい」といっていたのを思いだした。だから同じ言葉を話した。吾妻はわらった。向田に対して見せるのと同様の笑顔で、鼻から短い息を噴きだした。
「今日長官は?」
「見ていない。式典の準備にかかりきりなんだろう」
「そうか」
 壁にかけられた時計を見ると、終業の時間だった。これから8時間は吾妻が観察官の役目を果たし、記録をノートにとる。そのつぎは向田がやってきて、同じことをする。自身の書いた箇所から数頁ぶん書き加えられたノートをながめ、ふたたび行を書き連ねてゆく。そのくりかえし。まるでロボットだが、その呼称は跳ねるのに飽きていまは幹を背にしてしゃがんでいる彼にこそふさわしい。しかし、これは書かなかった。書けなかった。
「じゃ」
「おつかれ」
 扉が閉まると、内側から鍵が閉められ、誰も入ることができなくなる。観察室に足を踏み入れることができるのは、長官を含めて四人しかいなかった。週にいちど、ノートだけが保護者に手渡され、その時点から四十八時間が休息時間になる。以前、その間の記録は誰がつけるのかと長官に聞いたことがある。すぐさま、そんな心配は不要であると雉のような高い声で撥ねつけられた。その会話をしたのが、この通路である。これは記録されない。