建造とまではいかない山の下を走る空

ずいぶん前にやめたブロスタをインストールしてしまい、時間がとける。クラロワ然り、スーパーセルのゲームには麻薬的な快楽がある。ポケモンユナイトがはじまったらおれの人生はおわる。21日からとの告知もでた。カメックスサーナイトも登場予定とある。フワライドやトリトドンペンドラーズルズキンなどの到来も待たれる。MKRのポケモン実況がおもしろい。ファイアレッドハートゴールドも四天王戦がアツすぎた。次回のエメラルドもたのしみ。彼もユナイトの配信をやる。

モチベーションが死んでしまった。手を離された風船のよう。あらゆるやる気がない。2億ぐらいふっと手のひらの上に湧いてこないだろうか。スマホにじっとむきあい、てきとーにスマホとベースをいじくっているうちにいちにちがおわる。食事の用意だけは欠かさずする。えらい。

献立、キクラゲ卵トマト炒め、いんげんのペペロン風。

献立、茄子の味噌汁、豚バラ玉ねぎいんげん胡麻梅炒め。

献立、鶏とブロッコリのガーリックオイスター炒め。

献立、茄子といんげんキーマカレー。赤缶、クミン、ターメリック、カルダモン、フェヌグリーク、コリアンダークローブナツメグ、カイエンペパー、ブラックペパー、タマリンド、にんにく、しょうが、トマト缶、赤ワイン、はちみつ、醤油。

どれもうまい。おれは料理の天才。

小泉義之ドゥルーズ霊性』の合評会をまとめた論文集を読む。参加者である廣瀬純、千葉雅也、市田良彦のテキストと、それを受けての小泉義之の応答。廣瀬純のアジはいつでもサイコーだ。それぞれの文体のちがいをおもしろく読んだ。やる気も多少湧く。


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オリンピックはプリキュアまでをもつぶす。放送もだし、動員もする。サイテーである。いまいちばん大事なことをやる!がモットーのキュアサマー/夏海まなつに、オリンピックのプロモーションキャラクターとしてふるまわせることの醜悪さ。おれはつらい。

血のつながりによって他者の罪を背負うことに対する反撥がわたしにはあるが、これを敷衍させると、民族のつながりによって他者の罪を背負うことに対しても疑念が浮かび上がることに気づく。

富野由悠季『劇場版 GのレコンギスタⅡ 「ベルリ 撃進」』。おもしろい。バックグラウンドが徐々に開示されてゆき、そのぶん物語世界のあつみが増していく感がある。テレビシリーズとはちがって話数をかさねることができないために、ひとの生き死にの薄さはあるが、それでもベルリとアイーダのクロスする状況がそこにひとつの反復効果を生み、濃度を深める作用を為す。息子大好きベルリママにはバロン・マクシミリアンの影があり、また月の民の存在にはターンエーのモチーフも見いだすことができ、このようにして系譜を感じること自体がたのしい。

一週間、ほとんどなにもやらずに怠惰に過ごし、こころがつぶれそうになる。夏。メランコリ。工事の音。扇風機。汗だくでベッドに横たわっている。

藤本タツキ「ルックバック」を読む。おれはインターネット≒SNSがこわい。即時に孤読が失われてしまう。見たり読んだり聞いたりするのは個人的なことだが、そこで生じた感覚が、すぐに多数的なものに成り代わってしまう。わたしだけの感受が、べつのだれかの感受によってもみほぐされ、ちりぢりになり、ほつれていく。真夜中に、真っ暗な部屋で読んだ百余頁の感慨が、みじかい無数の声によって明るくぬりつぶされていく。これはいったいだれの経験なのか? そもそも経験とは、ほんとうにわたしの名において統率できるものなのか?

でかい現象自体への恐れもあるのかもしれない。むろん、わたしの天邪鬼な性質もそこには関係している。束ねられた賛、あるいは否の声を、わたしは好ましく思わない。みなでひとつの方向を向くことの対する嫌悪。全体主義のキモさ。

武田百合子富士日記(上)』、ロザリンド・クラウスアヴァンギャルドのオリジナリティ』、岸田将幸『詩の地面 詩の空』、ジャック・ランシエール『平等の方法』あたりをパラパラするが集中できない。

夜に起き、カレーを食べ、水シャワーを浴びてPCの前に向かう。ブログを書き、やる気を少しずつとりもどしてゆく。文章を書くことは精神をととのわせる。

逆らいのたまり場

つくったペーパーに誤字を見つけ、落胆。ショックでピスタチオを半袋あける。はんぷくろ。かわいい語だね。反復路をおれたちは行ったり来たり、このくりかえしを死ぬまで続行する。

東京を去る前に買った服を売ってた店のアプリをその服を買った折に会員登録するとポイントつきますよとダウンロードさせられたのだが、そこからの通知が「売れ筋上位7アイテム」だの「1番人気商品」だので、いったいだれがわざわざ他人と装いを合わせにいくのだろうと疑問であたまがいっぱいになる。服が好きなにんげんは「他者と被ること」をいちばんに忌み嫌うはずだとわたしは思っているが、こうしたアプリに登録するような層であってもみんなそんなに服が好きなのではなく、単なるセックスアピールの道具としてしか衣類を見ていないのかもしれない。周りから浮かない程度に、そつなく「おしゃれ」を装う。そんなファッションのなにがたのしいのだろう。かなしいことだ。

しごとの相談があるが、料金を提示すると、予算の都合で、となかったことになる。こうしたやりとりはもう慣れたものなので、連絡がきた時点でおじゃんになることはおおかたわかっており、さいしょの返信を打つまえから「いやだなあ」と思ってしまっていた(わざわざわたしに依頼してくれること自体はうれしいのだが、、)。デザインにかぎらないことだと思うが、周囲の友人たちの話を聞いていても、いわゆる「クリエイティブ」のワークというのはナメられがちだと思う。ネトフリ案件でも作画の単価が安いと告発するついーとがバズっていたのを目にし、その流れで低単価のしごとは受けるなとしごくまっとうな意見も読んだが、かといって「底辺クリエイター」はそんなカスみたいなしごとも受けなければ食っていくことができないげんじつがあり、地獄だなと思う。わたしも衣食住が足りていなければ、いまよりもカスみたいな額でこきつかわれていただろう。いま用いている料金表だって妥協の産物だというのに、これで引き下がられてしまっては精神がズタボロになる。

いちどはジップをとじたピスタチオ、のこりもすべて平らげてしまう。


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昼間、ひさびさにベースをとりだし、弾く。たかだか十数分弦に触れていただけで指先に水ぶくれができる。わたしの指の皮膚はひとよりも薄いのだと思う。腹にベースを載せ、指が痛いので手の内側全体をつかっててきとーにぼんびょん鳴らしながら本を読んだ。ページをめくるときだけ音が止む。

ぼやぼやと音楽を聴きながら『富野由悠季全仕事』を読む。そういえばGレコの劇場版が無料公開されるんじゃなかったっけとしらべると、ちょうど今夜が1の公開日だった。リマインダーをセットし、たのしみのひとつにする。

夕方、キッチンにくだり、ひき肉茄子ピーマン玉ねぎのチーズリゾットと豆腐とあぶらげの味噌汁をつくる。味見程度に食べ、ふたたび自室で読書。土日は読書のマインドでいるとよいのかもしれない。

富野由悠季『劇場版 GのレコンギスタⅠ 「行け!コア・ファイター」』。前のめりに先へ先へと直進するここちよいドライヴ感と、「これまでのあらすじ!」的な説明台詞のブレーキ感が、反復のブリッジを足場にしながら世界観を観客のあたまにトンカチを打ちこむようにしてインストールする。総集編映画の性として1本の映画として観たときは弱さを感じるが、5部作の導入としてはすんなりのめりこめ、つぎが観たい!となった。来週も観るし、3は劇場で観ようかな。難癖をつけるとすれば、後半への布石になっているのかもしれないが、主人公であるベルリがぼやぼやしすぎでなかろうか。べつの女に目移りしている彼に対してぷんすかしている幼なじみという、状況的に素直にのれるキャラクターであるノレドがそばにいるおかげで成立しているが、毎週プリキュアを観ている目には薄さばかりが目立っていた。

献立、豚ロースとピーマンの豆豉醬炒め、チーズオムレツ。食後は同人会議。天皇制から二次創作まで、多岐にわたる話をする。第2号に向けてもうごきはじめる。夜、ジャック・ランシエール『平等の方法』を60頁くらい。ランシエールの若き時代がふりかえられているが、はたして今後の人生でわたしは68年的なものに立ち会うことができるだろうか? この国にコロナがさいしょに蔓延しはじめた頃にあった「革命情勢」的なムードは、政局がさらに悪化しているように見えるのにもかかわらず、いまでは掻き消えてしまった感覚がある。どうしようもなさ。しばらく読みすすめたい。

作品集に注文がきていたので発送作業。ありがたいきもちになる。売り切れる前にべつの作品もラインナップに並べたい。ちいさなzineか、ステッカーとか?

献立、中元でもらった粕漬けの魚(鮭・鰆・鰈・鱈)を焼いたもの、玉ねぎとさやいんげんのソテー、キムチーズ和え、塩昆布きゅうり。多品目。

献立、卵サラダ、春菊のおひたし、オリーブのせ冷奴、そせじ。

人生はいろんなやりかたでまちがうことができる。おれはいままちがっている? あなたは?

新しいふんぞり

黒沢清ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985)、藤井謙二郎『曖昧な未来、黒沢清』(2003)、黒沢清アカルイミライ』(2003)を立て続けに観る。涙。滂沱の涙。観おわってポタポタと涙が目から流れ落ちつづける。『アカルイミライ』はほんとのほんとに世紀の超超超超大大大傑作だ。2012年の秋、わたしに「映画」を電撃的にたたきこんだたましいの1本。当時、映画にはこんな芸当ができるのだとあざやかに告げてくれたラストシーンは、現在のわたしをもきょうれつに直撃した。あまりにもよすぎて、ほんとはぜんぶ観るつもりではなかったのだが、丸々観てしまった。オールタイムベストのうちの一本だと、いまになってようやく確信した。

ドレミファ、被写体の前を「フレーム」が横切っていくオープニングからして、「映画」に対する欲望があふれており、とても心を惹かれる。黒沢映画にはつきものである「風」はこの当時から吹いていたのだなと思ったし、廃墟的なデカイ空間へのまなざしもその後の作品の系譜につらなっていくものだと思った。テキトーなエロカットに比して、机の上を歩いていく女学生の「脚」や、主人公である洞口依子の機嫌のわるそうなたたずまい(瞠目すべき前髪のおもさ!)に目を奪われ、文学的長台詞をノイズの走ったビデオと風であしらうスタイルにも高揚した。劇中で彼女が言い放つ「くるって回る練習」が「狂って回る練習」としてもわたしには聞こえ、この回転こそが、「映画」という運動の核にあるのだという宣言としても耳にひびいた。

曖昧な未来、言語によって考えることのつよい輪郭性みたいなものを思いながら観ていた。まずさいしょに言葉によって支えをつくる。あるいは、言葉によって枠組みをととのえる。そういうひとのことを、わたしは信頼するのだし、好きなんだなとも思った。黒沢清の「大勢の人と一緒に観る場」こそが「映画」なのだという定義もよかった。編集の場では独裁者であるということも、「編集者」として自覚的でいいなと思った。編集者はそこにあるすべてを「素材」として扱う。畢竟、あらゆる編集者は帝国主義者である。

アカルイに関しては、「死者をその場に立たせることの可能」という映画メディアのおもしろさをせんじつ観たアリーチェ・ロルヴァケルも思いかえしながら考えていた。これは映画にかぎらず演劇や小説や詩でもできることだが、映画でそれをやるとき、わたしの心は射抜かれるのだと思った。

文芸誌を完成させ、テストプリントする。いい感じ。

献立、麻婆はんぺん、アスパラバター醤油。妹がピザを買ってき、それも食べる。うまし。

夜、完成を祝って同人メンバーで通話。自分の実感をもとに、己の言葉をひねりだして話すひとたちのことをわたしは信頼するし、尊敬する。3時ぐらいまで漫画や思想や創作の話をし、たのしい気分で寝る。奥野紗世子の「小説で恋活したい」は真理だという話をした。はやく単行本でないだろうか。


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夜、ひき肉キムチミルクスープ。塩を盛大にこぼし、しょっぱくなってしまった。昼間、西瓜を食べ、夏らしい気分になる。ネットプリントを試し刷りにコンビニまででかけ、汗をかく。もっとちかくにあれ。

べつの日の献立、カレー。玉ねぎ、ピーマン、ズッキーニ、豚ロース薄切り、トマト缶。ターメリック、クミン、コリアンダー、カルダモン、クローブ、フェヌグリーク、カイエンペパー。うまい。

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『ゴミ、都市そして死』、滝口悠生『死んでいない者』を読む。登場人物がいっぱいいる戯曲を、それ自体としてたのしむ技量がわたしにはないのではないか?と思いながらも、それぞれの台詞の切れ味などをたのしく読んだ。どうしても誰が何を言っているのかの整理がつかないままにテキストを読んでしまうのだった。後者もたくさんの登場人物があらわれ、とくにこのひとが主人公というわけでもなしにあるひとりの死者を空虚な中心としてそれぞれ好き勝手に意識をのばしてしゃべりちらす作品だが、「誰が」が明示されている前者のほうが脳がこんがらがるのはなぜなのか。全体と個の関係性を考えたとき、戯曲においては話者の名前が記されることによって、それぞれの個に重きが傾くのではないか。小説では個が全体にもっと溶けこんでいる印象がある。以下は『ゴミ、都市そして死』における好きな場面。

フランツ・B お前が痩せぎすだから男に馬鹿にされるんだ。もっと食うんだよ。目方でお前らの値段も変わるんだ。何年も前からそう言ってるじゃねえか。だが俺の言うことを聞いてたのか。
ローマ・B 聞いてるわ。貴方が話すことは何だって聞いてるわ。夜中だって貴方の寝息の意味を探ろうとしてるのよ。
フランツ・B なのにこれっぽっちも俺のことを分ってねえな。

ミュラー 正しい度合いで誇張すれば必要な表現にもっとも近づくんだ。
ミュラー夫人 出まかせだわ。

ローマ・B 真実は言わないで、それでいいのよ。真実は痛いもの、嘘だけが生き延びる力を貸してくれる。

ローマ・B 軽蔑のあるところに愛なんてないわ。
V・ヴァンデンシュタイン嬢 それが間違いだっていうのよ。軽蔑のあるところにだけ愛が存在する権利がある。

こう並べてみると、極端な断言がわたしは好きなのかもしれない。断言肯定命題(谷川雁)だ。ほか、第5景の、娼婦である妻が太客のユダヤ人とおこなったセックスをめぐって交わされる夫フランツと当の妻ローマのやりとりもよかった。

『死んでいない者』も多数付箋を貼ったが、ここでは2箇所だけ引いておく。

 たいした音もせずにあっさり栓は開いた。昔おじさんに教えてもらったんだよ、とダニエルに瓶を渡しながら紗重は言った。そのおじさんが今日来ているたくさんのおじさんのうちどのおじさんなのだかダニエルにはわからなかったが、たしかにビール瓶を窓枠にあてがっていた時の紗重は、所作や姿勢がなんかおっさんくさかった。あるいは故人も、あんな動きで私たち夫婦の出会う前や、生まれる前から、この世を歩き回っていたのだろうか。それを見ることはもう絶対にないのだ、とダニエルは日本語で思った。

「日本語で思った」という結語。すごい!と驚嘆した。英語を母語とするひとが、というか、複数の言語を習得しているひとは、思考も複数の言語においておこないうるのだから、書かれてみればそうかと納得できるのだが、なかなかこうは書けないと思った。本作は、こうした思いがけない言葉=世界の見方のビビッドさに、ところどころで目を奪われる作品だ。その前の、動作と場から時空を遡及していく意識ののびかたもたのしい。紗重・ダニエル夫妻はいま、故人をめぐる多くの親戚や友人たちとともに、通夜の会場である地区の集会所に身を置いている。この環境によって自然と思考は過去へと送られ、夫は妻の後景へと目が向くようになるだろう。「なんかおっさんくさかった」のくだけかたにも思わず笑顔になる。

 そのさらに向こうにはゴルフの練習場があった。こちらはネットで囲まれた高い空間全体が闇のなかに浮かび上がるみたいにぼんやりと光っている。打たれて飛んでいるゴルフボールは見えないが、照明がついているのだからきっと誰かが球を打っているだろうと思える。しかし実際には誰もいなくて、明かりがついているだけの練習場に球が飛び、誰にも気づかれず人工芝の上を転がっていた。誰もいないことを誰も見ていなかったし、誰もいないのに飛んでいる球も、川のこちら側からは見えず、誰も見た者はいなかった。よく見たらもっとずっと手前を飛んでいるだけの夜の虫か、それとも夜の鳥だったかもしれないが、飛び去ったその球か虫か鳥かを、いつどうやってよく見ればいいのだろうか。

ここに書かれている言葉は、いったいだれのものなのか? そんなふうに思う文章が本作には多く挟まれる。上記もその一例だ。このくだりがある「4(章)」の前の「3(章)」では、主に知花と言う高校生の少女の視点が文の中心に位置しており、章末が「ホールを出ていった」とおわるので、その流れで集会所周辺の地勢を俯瞰するような描写のつづく本章を、読者は彼女の視点を引き継ぎながらここまで読みすすめていくが、特定の固有名があらわれるのは抜きだした箇所のさらに先、故人の友人「はっちゃん」がゴルフに対する抵抗感を吐露する場面まで待たれる。だが、先に引用した文章は知花の言葉でも、はっちゃんの言葉でもなさそうである。まさに浮遊するように物を語る「眼」が、夜の川辺をただよい、ゴルフの練習場を遠目に確認したのちに、場内に急激にズームアップして、そこに誰もいないにもかかわらず球が自ら飛んだり転がったりする非現実的な光景が幻視される。さらには、その「誰もいない」状態を誰も見ていないことが直後に明かされ、「川のこちら側」とあるように物語る「眼」はそれをじっさいには見ておらず、空想していることも示されることになる(「しかし実際には」と書かれていることがさらに理路にひねりを加える)。この入り組んだ構造を、さらに複雑化させるのは、その後につづく虫や鳥に好き勝手に飛びまわる球をかさねた上で、それらのすがたを「いつどうやってよく見ればいいのだろうか」と問いに付す点にある。こうした起伏をしちめんどうだと思わずにたのしいと踏みしめることができるひとは、きっと本書のよい読者になれることだろう。ふわふわと漂流する眼は、もちろん死んで(しまってもう)いない者=幽霊のメタファーとしてもある。

エーゲ海エーゲ海エーゲ海エーゲ海

テレビで流れていたので細田守おおかみこどもの雨と雪』をひさしぶりに観る。冒頭、終始鳴っているかのように思える音楽に、高木正勝さいきょうか?(当時サントラを買った)のきもちにまずなり、引き画主体の抜け感のあるレイアウトに感銘を受ける。徹底した左:にんげん/右:おおかみの配置もおもしろく、そしてわたしの興味関心が雨ではなく雪にあることもおもしろかった。鑑賞当時大学の授業で本作についてレポートを描いた記憶がよみがえり、それをひっぱりだしてみる。親と子で逆転する関係性など構造的な話が多く、いまとはちがう映画の見方をしていると思い、それがおもしろかった。ほか、ポスターやフライヤーなどに使用されていた花が雨と雪を抱えて仁王立つキーヴィジュアルをどうこういっているところ以外はさほど大した言及はなかった。

そしてここで触れたいのがはじめに述べた仁王立ちする花の姿である。真っ直ぐと前を見つめる花に迷いはない。彼女は雨と雪をしっかり育てようと決意している。
しかし、そのしっかり育てるというのも花自身の利己的な考えがまとわりついており(ゆえに私はゆらぎを含めた「母」を描いたと評価している)、その抱きかかえ方にも無意識が現れる(雨を左手で抱え込むのに対して、雪はお尻に手が添えられているだけである)。また、ひしと花にしがみつく雪の姿には人間への執着が見て取れるし、片手だけで花を掴む雨にはおおかみへの予感を感じさせられる。さらにその二人は花の方ではなく、それぞれ少しずれた方向を向いている。ここからは二人のそれぞれ別の道を行くという母との別離を暗示を見いだすこともできるだろう。


こういう妄想力で文章をドライヴさせていく気力、さいきんは失っているかもしれない。上記のテキストは9年も前のもの。この期間、何を失い、何を得た?

献立、鶏とアスパラと玉ねぎのバターポン酢炒め。昨夜妹がおおかみこどもにでてくる焼き鳥をつくったあまりの鶏肉。美味なり。


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祖父の三回忌。葬儀の際、まったく縁もゆかりもない生臭坊主がやってきて不愉快な思いをした記憶があるが、いまやりとりのある住職はずいぶんとくだけた感じの人当たりがよさそうなひとだった。お経を上げてもらい、焼香を済ませて寺を後にしようとすると、位牌と遺影を忘れていないかと声をかけられ、案の定すっかり忘れていたので家族でひとわらいする。帰宅して爆睡。

めざめ、朝食を妹と自分と祖母に用意したのち、ひさびさに祖母と映画を観る。アリーチェ・ロルヴァケル夏をゆく人々』(2014)。あらためて、いい映画を撮る監督だと思った。同監督では『幸福なラザロ』を観ているが、本作でもここぞというときに映画的ワンダーが炸裂するショットを用いていて、劇場ではなく家庭内鑑賞とはいえビリビリとふるえるものがあった。ひとつのショットのなかで、複数の時空間を存在させること。それが二連撃されるラストのすごみ。遠景に灯る蛍火のような車のヘッドライトをとらえたファーストカットもよい。終盤ちかくになっての鏡面をもちいたカットのつなぎもひじょうに冴えわたっていた。祖母は退屈したのか途中で居眠りし、やがて寝室に去っていった。なにごとも、観る眼を鍛えなくては何も見ることができない。すこしでも見ることができるように、さまざまなものに手をのばしてゆく。

ところで、祖母はほんとうにどうしようもなくあたまがわるく、かつて何社もサラ金に手をだして借金だるまになった過去があるのにもかかわらず、何の反省せずに80余年の人生を生き、いまだに信じられない数の無尽に入り、まいつき自身の収入よりも多い支出をつづけている。そういう事実をいまはじめて目の当たりにしていて、わたしは胸を食い破られるようなかなしいきもちになる。わたしはばあちゃん子で育ってきたが、こうもわたしの忌み嫌う「くそばか」の面を見せられるとつらいこころもちになる。「負荷」とか「微動だにしない」とか、とにかく言葉をしらないのもなみだがでてくる。よくもまあこんな体たらくでいままで生きてこれたなと思う。これは断じて希望などではない。搾取されつづけて生きながらえることの悲哀である。

しかしこんなことを書いているわたしだっていまは親の脛をかじって生きているに過ぎず、ひとのことをどうこういえる立場にないのだ。ありがたいことにしごとは途切れずにぽつぽつともらえているが、ぽつぽつレベルじゃ生きてゆけないのよな。人生を立てなおすってむつかしい。

献立、きゅうりの白和え、ズッキーニと玉ねぎとそせじのパプリカコンソメ炒め、春菊と豚肉のトマトスープ。あごだしと白だしと白ごまで味つけした白和えがベリナイスなお味。食後しばらくして妹の持ってきたチーズケーキも食べる。塩気のある生地がうまみちゃん。

プールサイド・ダークドラゴン

イメージヴィジュアルの完成。寝ているあいだに公開され、深夜に起床してついったで反応を見る。それなりに好評のようでうれしくなる。集客に役立てればよい。寝る前につくった豚肉と玉ねぎのガーリックトマトマスタード炒めを食べながら、制作物の公開に伴うたんぶら用のテキストを書きはじめる。行き詰まったら除草剤を片手に外に飛びだし、家の周囲にちょろちょろと撒く。農薬用のマスクをしろと注意書きに書いてあったが、そんなものが一般家庭にあるのだろうか。献立、豆腐と卵の坦々スープ、鶏と椎茸炒め。鶏油と醤油を吸った椎茸のうまさ……。妹と教育テレビをながめながらならんで食す。それなりに歳が離れているので、画面に映るキャラクターの認知にも差がある。テキストは書きおわらず、翌日にもちこし。まいかい邦ロックの話をしているのがウケるが、それがわたしたちの共通言語のひとつであり、さらにいえば今回は制作のテーマにもおおきくかかわっているのでそうなる。

朝、昨日の炒めもののあまりでチャーハンをつくり朝食。麻雀を一局打ち、テキストを書きおえる。のち、同人誌の微調整と作品集の製本。作業途中にインクが飛び散った紙がいくつか発見され、プリンタにたいして「おまえ……」という気分になる。値の張る(ななまんえん弱)割にはけっこう高い頻度でエラー吐いてないか??? 1冊あたりホチキスで8箇所留めるつくりなのだが、それがひじょうに苦労する。

ホッチくるでパチパチやっていると、祖母が体調がすぐれない、と細い声でわたしを呼ぶ。体温を測ると、熱がある。わたしがコロナになるぶんなら何も構わないが、祖母が罹患するのはとてもまずい。パンを与え、濃縮ダカラを希釈して飲ませ、寝かせる。大事に至らないとよい。たまに様子を見に行きながら、製本作業をつづける。


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イメージヴィジュアル、これです、よろしくお願いします、先に書いたテキストやら公演の詳細やらもろもろはこちらからどうぞ


献立、玉ねぎピーマンキドニービーンズ入りポークチャップ。つくったところで体力がおわり、ベッドに横たわる。翌朝食べる。豆ラブ。

30分ほど遅刻して同人誌のミーティング。仮眠オーバーラン。だいたい完成の状態になる。ネット漫画やインターネットマガジンやワクチンの話をする。リリースされたらポケモンユナイトやりましょうや!という話をして解散。そのまま本眠する。

めざめ、昨日の通話で話にでた漫画や記事などを読みあさり、朝食。シャワー。洗濯。発熱していた祖母の体温が下がっていてひと安心する。触れたひとに「おれもものをつくりてえ〜」というきもちにさせる表現はよいなと思う。製本作業のつづきをすすめ、予定していたすべての冊数を完成させる。やりきった感があり、その気分のままにこちらに来てからひさびさの酒を解禁する。ほんとうはビールが飲みたいが、ないのでチューハイ。……うまぐねえ! フォーナイン、こんな味だったっけ? 酒を飲まないあいだにわたしの味覚が変わったのか、リニューアルされたのか、はたして。味噌マヨきゅうりと、芋とそせじとチーズをつまみにひと缶だけあけ、それぞれの告知用のテキストや画像の作成にとりかかる。ポヤポヤしたあたまでソファに横たわり、いつの間にか目を閉じている。

わたしの横でねむるあなたの歌が、隣のキッチンから聴こえはじめる(下)

(前)

 旅に読書はつきものだ、と書き出しておきながらかばんのなかに文庫本をしのばせるのを忘れ、後悔しながら地下鉄にゆられている。いつもは清澄白河駅から歩いて向かうところを、木場駅から初夏の陽射し降り注ぐ木場公園のなかを通り過ぎつつ、都現美へと赴いた。途中、沿道に設置されたベンチでコンビニで買ったサンドイッチを齧り、すこし離れたところに咲く紅色の花と、さらに遠方で光を反射するビルのガラスを日陰のなかでながめた。ビル街にぽっかり空いたグリーンオアシス・日比谷公園の光景をあたまに思い浮かべつつ、いい感じだ、と思ってスマホを横にかまえた。展示の写真をのぞいては、これが東京滞在中に撮った唯一の写真だ。データ化されない思い出がこのようにして言葉にされ、あるいは言葉にされずに心中の奥深くへと染みこんでいく。


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 観にきたのはオランダ出身の彫刻家マーク・マンダースの展示。金沢でやっていたボレマンスとの二人展にこそ行きたかったのだが、計画をふくらませるにしたがってぶくぶく泡立ちはじめたコロナにまつわるもろもろがめんどうくさくなって、けっきょく行きそびれてしまったのだった。いつだかのコレクション展で作品は目にしているし、小柳なんかでも小品を観ているが、やっぱりマンダースの彫刻はしびれる、と《マインド・スタディ》を見つめながら身震いしていた。このようにしてオーガズムを感じることのできる美術作品に対峙できると、とてもうれしいきもちになるし、審美の審級は性/生につよくむすびついているんだということがよくわかる。DIC川村記念美術館マーク・ロスコの部屋なんかはそのことをつよくしらしめてくれる。ほか、わたしがつよく関心をもったのは細長い廊下の壁に何十枚も配されたドローイングの展示方法だった。木製のおおきな洗濯バサミによって挟まれた薄紙が、壁に張られた紐からずらずらとぶら下がっている。この「張っている」という状態。彼の彫刻作品に見られる「緊張」の質感を、そのまま展示方法に転化したすぐれたしごとだと思った。ドローイング自体もイメージをこうした場所でふくらませているのだという作品の背面をみるおもむきがあり、とてもたのしみがいのある一角だった。背面といえば、床に敷かれたキャンバスに隠れて見えないオブジェクトを踏む作品があり、それも印象的な鑑賞体験だった。キャプションを見るまえに踏み、その文を読んでさいど踏みにもどった。つぎに予定がつかえていたので、風間サチコと下道基行のふたり展とコレクション展はピャッと流し見し、ショップを冷やかしたあとは都美へと足をのばす。ステートメントなどのテキスト編集の手伝いをおこなった展示がやっているのだ。

 縁とはふしぎなもので、わたしが東京を去る前にさいごに観た展示もこの都美セレクション展だった。さらにこの線をたどってゆけば、藝大はGAのしごとにもつなげることができるのだが、それはここでは措いておこう。ABCとあるギャラリをそれぞれまわり、比較的年のちかいひとらの作品をたっぷりと観、そのうちひとつに出品されていた、かつてどうぶつえんで共演した硬軟さん(本展では千葉大二郎名義)の《Mirror Banner》の狂ったユーモアに胸を射止められた。両面から見ることのできるスクリーンに、5年の歳月をかけて街で撮影・収集した「風でめくれて文字が反対になった幟」の写真を、いちまいいちまいフォトショップで反転させて投影するスライドショーの作品。展示コンセプトにつながる正逆反転のルックもさることながら、撮影された写真は総計2000枚ちかくあるらしく、その物量と熱量にわらってしまう。ちょうど受付に在籍しており、軽くあいさつもできたのもうれしいできごとだった。

 そのあいさつの現場にいたのがEさんで、彼女はわたしと今回の展示を引き合わせた人物でもある。会場ではZOOM上で顔を合わせていた作家陣の何人かとも直接対面することができ、ぶじに開催できてほんとうによかったですねと言葉を交わした。いっときは国/都からの自粛要請によって、美術館の開館自体が危ぶまれていたのだった。そうした時勢を背景にした展示空間からは、「触れたい」というつよい願望が発光しているように感じられ、映写機から放たれる光が網膜にまでとどく距離と、そこに含まれてある感情のことを思わずにはいられなかった。何周か展示を観てまわったのち、台湾料理屋で近況を尋ねあい、新宿駅で別れた。わたしにはごはんを待っている友たちがいるのだ! 西へ! 西へ! 中央線に乗ってわたしは西方を目指し、とうとう西の友の名をもつ西友にたどりつく。挽肉や長ネギ、舞茸などを買い物カゴにほおりこみ、セルフレジにとまどいながら会計を済ませて家路を急いでいると道端で「SAY! YOU!」と声をかけられ、「何を」と答えると「声! 優!」と応じるので「****(あなたの好きな任意の声優の名前を入れる)」と返事をして玄関のドアをひらいた。Qさんが炊飯のじゅんびをしてくれていたので、焼きうどんにしようと思っていた計画はうっちゃって、ねぎねぎ挽肉のカレー粉炒めをつくる。Hさんの帰りを待ちながら、人生の話をする。

 Hさんも帰ってきて、食事を済ませたあとは、Qさんがレコーディングしたヴォイス・アクティング(声優!)を真っ暗闇のなかで聴く。それから、これは音楽だね、なんてみんなで感想をしゃべりあって、さっきQさんとふたりで話していた話が、Hさんの身体を通して再演されるのを目の当たりにする。わたしはいまここで起きていることが奇跡だと思ったし、必然であるとも思った。ひとつのたしかな歴史がここには流れている。わたしたちは紛れもなくわたしたちであるとつよく確信して、わたしはしずかに眠りについた。布団の上ににぶったおれているわたしの隣では、Qさんがまぶたを閉じて横になっていて、Hさんはべつの部屋でひとり、台本執筆の作業をしている。しばらくするとキーボードのタイプ音とともにギターを爪弾く音がちいさく聴こえだし、やがて聴きなじんだ歌声もひびいてくる。隣室に灯った橙の光が、ドアにかけられた暖簾の隙間を縫って寝室にこぼれ落ち、わたしの横でねむるあなたの歌が、隣のキッチンから聴こえはじめる。

     *

 今日も今日とてフライパンを3人で囲み、ひき肉とチーズのおばけ(命名:Qさん)をそれぞれの胃のなかへとかっこんでいちにちをはじめていく。おおきな予定は何ひとつ入れていないオフの日で、親から買ってきてほしいと言われていたソフビを探しに渋谷に行くついでに、青山ブックセンターやらタワーレコードやらを冷やかしに行く。雨が降りそうで降らない、あるいは降る、フルスイングで降るような陰気のなか、ゴミゴミした街をフラフラし、ABCのBGMはいつもセンスがいいなと感動したり、こどもの城の前に新しいオブジェができてるな、タピオカ屋が豆腐屋になっているなとおどろいたりする。ABCの入っている建物はわたしが表参道・渋谷近辺をうろうろする際によく利用するトイレスポットのひとつで、全人生におけるトイレ利用ランキングをつけるとなれば上位入選はまちがいなしの場所なのだが、そんな番付をつくって何になるのか、そんな思考をして何になるのか、無意味を有意味に、有意味を無意味にする営みを延々とつづけてやってきたのがおれ、このおれであるなどとぶつくさいいながら井の頭線にゆられHQハウスへの道のりを新たに開拓する。今日はQさんが腕を振るったQさんめしが食べれるということで、帰路を歩きながらすでに胃がピョンピョコとはずみまわっている。口の端から胃やら腸やらをこぼれさせながら帰宅し、コックの格好をしたQさんが台所で大活躍するさまをながめる。そうこうしているとHさんもしごとをおえて帰ってきて、朝と同じく3人で食卓を囲む。卵入り具沢山味噌汁と、からしの効いた餃子釜飯。うまい、うますぎる!とバクバク食べているとYもやってきて、大食漢が4人になる。鍋も釜も空っぽになる頃、今日の個人的な目玉イベントであるラジオの放映時間になって、わたしは三本脚の義足を借りてインスタグラムを起動する。すでにわたしはこの回でしばらく放送を休止することを決めていて、さいご(ではないが)ににぎやかにパーティをやっておわり(ではないが)たいと思っていたのだった。ホームビデオに映るかつての自分をぶんなぐりたいと「おばあちゃんのおもいで」(てんとう虫コミックスドラえもん』4巻収録)を地でゆく体験を語りつつ、好き勝手にサブカルとバブカルの話をして、エンド(ではないが)マークを打った。ジャンプがサブカルでたまるか!

 夜が深まったころ、Mさんがやってきて、またひと盛りあがりする。疲れたのか、わたしは早くに寝ついてしまった。

    *

 めざめ、みなで寿司でも食べに行こうという話になるが、家に帰ったあとの〆切を心配するわたしはひとり断って家の前で手を振りあって別れ、にぎやかな旅程は幕を閉じる。キャリーをひきひき、ひとり新宿へ向かって、伊勢丹で土産を買い、その裏手あたりのラーメン屋でラーメンを啜る(ハズレ)。初日に再訪を誓った紀伊国屋にも寄るが、わずかな時間しかのこっておらず、冷やかし程度にちら見するだけで何も買わずに駅にひきかえすことになる。つぎに来るときは池袋のジュンク堂もあわせて、心ゆくまで本の山のはざまに滞在したい。行きはバスだったが、帰りは新幹線。スカスカの車内に腰を落ち着け、岸田将幸『風の領分』を読む。行を読みすすめるごとに、群から孤に、こころがもどっていく。詩を読むと同時に、この滞在をもとにした1篇の詩を書きはじめる。自宅の最寄駅に到着し、数人の乗客とともにホームを歩いていくと、駅舎の前に立つ警官に取調べを受ける。「男性の方にお聞きしています。昨日、駅のトイレをつかいませんでしたか」「つかっていません」マスク越しにみじかい言葉を交わし、わたしは日暮れの家路につく。

(完)

信頼によりかかるのよしなよ

真夜中、ベッドの置かれた壁に穿たれているあけっぱなしの窓のあたりでなにかがキイキイと鳴いていて、ブラインドをめくりあげ、スマホのライトを点灯させると、桟になんらかのフンが落ちている。はてさて、なんのフンだろうと見つめていると、突如上からバタバタと飛び去る音がして、どうやら声の正体はコウモリらしきことがわかる。小学生のころ、団地の壁に張りついていたコウモリを友だちとさわってあそんでいた感染症予防の観点から考えるとちょっとおそろしい記憶があるが、それ以来の接近。またくるだろうか。

日記はその名の通り日付が重要な要素として打刻されているが、「そのへん」くらいのアバウトさでこれからは書いていこうかなと思った。べつに連続更新時代も更新される日とその内容にむすびつきはなかったので、方針が変わるわけではないのだが、よりあいまいな感じでええかなみたいな、そんな気分がある。いつか読みかえしたときに、わたしは「この日」という認識のしかたではなく、「この頃」という風に読むのであろうから。

さいきんタイムラインでよく目にする『奈良へ』という漫画をトーチで公開されているぶんだけ読み、おもしろい、となって作者の日記を読むとこれまたおもしろく、そこで紹介されていた保坂和志山下澄人の対談の模様をゆーちゅーぶで見る/聞く。

https://youtu.be/siZJQfjfgqo

保坂和志道元松井秀喜をひきあいにだしながら「悟り」についてしゃべっている横で、山下澄人がマイクの先を顎に当ててあそんでいるのがめちゃくちゃよかった。こういう話の「内容」外のところにおもしろさを見いだすことは、彼らがここで話していることにも通じるし、この動画を紹介していた大山海が日記で述べている話にまで延長線をむすぶことができる。単行本がほしい。重版が決まったという版元の投稿を目にしたが、こっちの書店にも売っているだろうか。


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明るくなって、コウモリのフンを掃除しようとトイレットペーパー片手に窓辺に寄ると、そこには干からびた蛙までもがくたばっており、よくもここ(2階)までと感動する。青蛙負けるな一茶ここにあり、と言葉が浮かんだが、ほんとうは「やせ蛙負けるな一茶これにあり」だし、正確な表記を調べるためにググると、とにかくサイトごとに表記がバラバラしていてイライラした。詩歌の詩句を勝手に変換するな、ぼけが!!! 「痩蛙まけるな一茶是ニ有」と金子兜太が引いていたので、たぶんこれが正しい。

演劇のイメージヴィジュアルの制作をおこなうとともに、同人誌のゲラをメンバーに送る。明日にはたぶんじぶんの作品集の製本ができる。オンラインストアのクレカの審査も通り、ハッピー。

献立、鶏皮、舞茸、大根の端切れ、豚バラブロック、豆腐を醤油酒みりんで煮込んだもの。つくるだけつくって、食べずに寝た。