虹の甘み

紀ノ國屋の黒ごま白ごま玄米、ベリナイスなお味。

たのしみにしていた会の連絡をすっぽかされ、準備や時間やきもちなどがおじゃんになる。すぐにかつての同様の思いでもよみがえってくる。負の二乗。時間が解決を促し、熟成を促進させる。

祖母の葬式。顔と名前が一致しないが、見慣れた顔の親戚たちがそれぞれ相応に齢をかさねたすがたで集まっている。わたしの変貌ぶりに異なるひととのあいだでなんどか花を咲かせつつ、かつて最年少だったわたしたちがいまだに最年少の位置を占めていたり、幼少期と比べて式典が縮小化されていたりすることに、疑いようのない「家」の没落(?)を感じる(わたしが生まれるよりもずっと前は、いわゆる「豪商」だった)。妹やいとこらと並んで受付に突っ立っていたが、自分のぼんくらさと女性陣のキビキビしたたたずまいの落差に身を恥じるばかりだった。火葬場では母が咽び泣いていた。わたしは泣くには距離が遠くなりすぎていた。



ロングライド。事前のルート検索によれば、総走行距離は120km強の見込み。100km超を走るのは人生初だ。前々から水没林を見てみたいと思っていたのだが、チャリを走らせれば行けない距離ではないぞということに気づき、シーズン終了間際にすべりこみをねらった、というわけである。これまで往路は登坂/復路は下坂のコース、あるいは行きと帰りが異なる道となるルートばかり走ってきており、はじめて帰りも同じ道かつ往路に複数ダウンヒルがある道のりを走ったのだが、坂の斜度や距離がさほどでなくとも、たのしさの裏側に「帰りにここ登るのかよ、、」という精神的恐怖が張りついており、坂をくだるたびに肝が冷えていくのが感じられた。そうしてアップダウンをくりかえしているうちに肉体よりも先に心が折れ、当初の目的地まであと峠がふたつのところで退却。水没林はまた来年、となった。じっさいの総走行距離は104-5kmぐらい。ふだん運動しないにんげんにとっての限界が見えた。それにしても、なぜひとは「もうむりしぬたすけて」となるのがわかっているのに峠を登るのか……。



圧倒的山、途中獣臭がすごい区間があったが、あれは熊の痕跡ですか?



これは途中で見かけた川、川で遊びたすぎる、沢登りしてみたすぎる、サイクルウェアを着るようになればそのままダイブしても問題なさそうに思える、トライアスロンみたいに


町田のタワレコが閉店するの報。大学時代によく通った店舗のひとつなのでかなしい。



すこし前に笛を買った。ティンホイッスル。ポイントが切れるというので使い切るために。同じく、印刷所のポイントも切れますよと言われていて、ステッカーでもつくろかなと思っていたが、パワーがでず、消滅してしまった。

笛、たまに取りだしてピロピロする。同封されたペライチの説明書に記載されていたメリーさんの羊が吹けるようになる。ある日、ベッドに寝転んでいると近所からも笛を練習する音がきこえてき、たのしい気分になる。近所にもハーメルンの笛吹き男/女になろうとしているにんげんがいる。

おまえの音もきこえているぞ、という威嚇として吹かれているのかも、と日をいくらか跨いで思った。二、三度吹いて、いまはもう箱にしまったままだ。



祖母の足の指と爪のあいだに詰まっていた黒い塊が、爪といっしょに剥がれているのを発見する。

中東情勢の影響(こんな田舎にもしっかりと戦争の影響はでる!)でカスがふたたび失職するという。単身赴任という選択肢が急浮上し、精神衛生の急激な回復が期待されたが、雲行きはあまり芳しくないようだ。とにかくすばやくつぎの職に就いてほしい。わたしの心身がずたぼろになる前に。

ポケモンチャンピオンズMA-2、最終4000位台を記録する。最終レートは2013ほど。SVでは万年5桁だったのでうれしい。つぎのルールであるMBではわたしの大好きなシビルドンやペンドラー、ズルズキンなどが解禁されるということでモチベーションがさらにすごいことになるが、目前のワークの〆切的に1シーズン目はあまりプレイできなさそう。



いそがしくなってくる。そのうち、なんのアイデアも浮かばないワークが、まいにちいちひらめきすることで着実に前進しており、そこまで導き、発見する手はすごいと思う(発見するのは目か?)。手のうごかしはじめにはなにもないのに、いつの間にかなにかをつかんでいて、なにかしらをちゃんとひらめくのだからすごい。もうなんども言っているが、わたしはほんとうに手で思考している。そのことに自分でびっくりする。

Kさんに誘われ、Tくん、Sさんも交え4人で飲み会。地方に住んでいると尖ったにんげんというのは次第に引力によってひきあい/ひかれあうもので、こうやって一堂に会することになるわけである。カルチャー(主に映画)の話ができる場があるうれしさ。Kさんは店をやっているので必然的に「街」を主軸にした話題がでるのだが、ひきこもりに取って街とは心的な距離が遠いもので、なかなか身に迫ったこととして考えることができなかった。いや、街がもっと「よい場所」(って具体的に何?)になってくれたらそりゃうれしいのだけれども。以前も書いた気がするが、わたしというソフトウェアを展開する場があればよいのだが、、実家では住みびらきのハードルが高すぎる

二軒目には以前Hから教えられ、ずっと行ってみたかった油そば(が名物の居酒)屋にも足をはこぶことができ、ハピハピ。カウンターにはグッピーの水槽が鎮座しており、ちょうどその真ん前に陣取ったわたしは、魚たちの泳ぐさまを見つめながら瓶ビールで油をまとった中太麺を胃を流しこんだ。麺の上に乗ったみじんぎりの長ねぎがやけに辛く、食後しばらく胃を痛めた。




夕飯の支度をしている際、イカの目玉を潰して体液をとびちらせてしまい、飛沫をまともに顔面に受けてさいあくの気分になる。イカ、もうさばきたくない。

ごはんと言えば、さいきんクッパにハマっている。前日のスープの残りにコチュジャン・豆板醤・ラー油といった何かしらの辛味を足しつつ、卵を加え、ごはんにあわせる。今日の昼は、豚の茹で汁に、コチュジャン+大葉、そせじと卵を加えたもの。うまい。

祖母の四十九日。未就学児か、一年生か、今回はわれわれが最年少ではなくて幼い少年のすがたもあり、ああ、これが親戚のおじさんのきもちかと目尻を細めた。墓石の下のスペース(いわゆるカロート)に向かって穴を掘ってある状態の墓をはじめて見、感銘を受ける。「墓掘り人夫」という存在もフィクション外において、はじめて接した気がする。人生まだまだはじめてのことが多いのだなと希望のようなものを幻視する。

さいきんよくあることなのだが、デザインワークにおわりが見え、あと数手で完成という段に至った際に「誰にも何にも伝わらない」という無力感が全身からしみだしてくる。いったん公開さえしてしまえばその負の感情も薄れていくのだが、この谷を越えるのが精神的に苦痛である。

カスの無職期間がはじまる。心身のストレスがマッハになるが、おわりがすでに見えている、かつ想定していたよりも短い期間でおわるようなのでそこだけが救い。〆切ラッシュと被っているのがつらい。ずっと外出していてほしい。

たんプリサントラ、「逃走と追跡のイリュージョン」のジャジィなピアノ、ホーンの裏手でくりひろげられる、リズム隊のかけあいがサイコー、テレビ放映だと低音がほとんど聴こえてこないので、こうやって曲単体で聴くことで魅力を再発見できる
youtu.be



今年はツール・ド・フランスを追うことに決める。と言っても、Jsportsの無料配信分と、ハイライトを見るくらいの熱量ではあるが(日本も地上波で流してくれたらいいのに!)。相変わらずポガチャルがつよすぎる。ヴィンゲゴーにがんばってほしい。

ギガファイル便のドメインが云々みたいな話をきっかけに、ついった上でframe.ioというサービスをしり、Adobeユーザーなら100gbまで自由にデータを共有できるというのでさっそくつかってみる。その名の通り映像プロジェクトをメインに据えたプラットフォームのようだが、編集・デザイン業でもぜんぜんつかえそう。ありがとう、ついーとしていたひと。

Aさんがやっているラジオ(?)にゲストとしてAさんの父親がでていて、それを聴く。いまの30代半ばぐらいの世代は、オーバーグラウンド/アンダーグラウンド、あるいはメジャー/マイナー、メインカルチャー/サブカルチャー的な世界観をもっていた最後の世代だ、という話、ひじょうにおもしろかった。サブスクリプションサービスの繁栄によってその垣根は崩壊し、現代の若者にとってはすべてがフラットになっている。その平坦な風景のなかに、二項対立的な勾配を見いだすこの視力は、老いているがゆえの老眼的産物であり、眼球の裏には時代錯誤の烙印をおされているのかもしれない。

激痛が免れている日跨ぎ、別の日の拾う

たんプリ主題歌がサブスク解禁していたので聴く。EDの「正しさって人によって変わるけど やさしさならひびくかな?」、泣く。あまりにもいいフレーズ。断言するのではなく、ひびくかな?と疑問系で投げかけていることの真摯さ。子供向けアニメのEDである、というバックグラウンドも効いている。つまりは主人公たちの姿勢がそこに示されているわけで、まだ10代の子供がこのように言っている、とわたしはこの曲を聴くわけだ(そして、きっと今後展開されるであろう、アルカナ・シャドウとの対立-融和にもかかっている)。その構造が泣かせる。心底クソみたいな時代でも、こうやって希望を謳わないでどうするんだ。作り手の倫理がほんとうにすばらしい。さいきん本編に乗り切れない、それこそもう何話も涙を流していない——涙が流れたからいいという単純図式で作品を観ているわけではないが——自分がいたのだが、プリキュアをより信じられる、と思った。青木久美子、ずっとプリキュアソングの詞を書いていてくれ!



ライド。桜を見に20kmほどチャリを走らせる。目的地まではゆるい登り基調で、ひさびさの登坂にからだがかんたんにくたばった。スクワットをやってる効果、でている気がしないが、やっていなかったらもっと悲惨なことになっていたのだろう。目途は城跡をもとにした公園で、起伏のある丘の至るところにさまざまな種類の桜が咲きみだれていた。頂から麓へとたどるルートで自転車を押しながら遊歩したのだが、途中、杉の枝が絨毯のように敷き詰められたアスレチックロード(?)があり、ここぞとばかりにMTB風のライドをし、身を危険に晒した。降りきった平地はだだっ広い芝生になっており、お揃いの白の衣装を着た若い女性たちが三脚をセットし、ティックトックか何かのための動画撮影をしていたのが印象的だった。小川を下っていくとビオトープのような池もあり、小学生男児たちが群れなしてしっかりと両脚を水に沈めていた。

帰路、走りだして道を確認しようと止まった途端、片方の太ももに肉離れの痛みが走り、苦痛の声をあげて自転車から降りようとすると、もう一方の太ももにも同様の激痛が起こり、おわる。しばらくフレームに跨ったまま静止し、「ロードバイク 出先 肉離れ どうする」などと検索フォームに打ちこんではひとしきりぜつぼうする。のち、痛みに顔をゆがめながらなんとか降車し、なめくじのような速度で自宅へ向かって歩きだす。数百メートルほど歩くと激痛が小康状態にまで退いていたので、ガードレールに車体を預け、ゆっくりとストレッチをおこなってから、ふたたびライドン。行きが登りということは帰りは下りなわけで、位置エネルギー(十数年ぶりにこの文字列を筆記した気がするが、つかいかた、あっているか?)に頼りきり、なるたけペダルを漕がずにぶじ帰宅する。疲労した肉体で食事の支度をし、グローブを洗い、シャワーを浴びて、寝る。総走行距離は43kmほど。



one boiling point「two」に「いつかliquid rainbowがやってきて 俺たちみんなを助けてくれるんだ」というフレーズがでてき、パーオーム99999もそうだが、ボアズの現行シーンへの影響のおおきさをひしひしと感じる。

Nさん宅にてデザイン打ち合わせ。古民家を改装した元シェアハウスで、家自体のもつオーラがひしひしと感じられる空間に感銘を受ける。二層ほどぶち抜いてつくられた高々とした天井と、部屋の角に鎮座する機関車のような黒々とした薪ストーブの見事なこと。ゲラと紙見本の束をテーブルの上に並べ、こんこんと話す。山に入って採取したいくらい、だしてもらったクロモジのお茶がひじょうに美味だった。打ち合わせをすすめるうちに次第にひとが集まってき、宴会に。都内の友人たちや高校時代の同窓生以外と大勢で卓を囲むのはかなりひさしぶりな気がする。NさんのパートナーであるYさんの手料理に舌鼓を打ちながら、ビールと日本酒をガブする。皆ほぼ同世代であり、会話の節々に同じ少年少女時代を過ごしてきたがゆえの共通項が見つかって花が咲いた。半数以上のひとがはじめて会うひとだったのに、かなり心をひらいて話をしていた気がする。なにか下手を打っていなければいいのだけれど。日付もかわってしばらく経った頃にNさん(先にでてきたNさんとはべつのNさんである)がだしてきた、香り高い中国産(?、ラベルに繁体字が印刷されていた)コニャックにガツンとパンチを喰らい、就寝。帰りは初対面のTさんに最寄り駅まで送ってもらう。ドライブ中の選曲はくるり。こんなところまで世代が!

Nさん宅へ向かう道中、カーステレオの液晶に侍めいた(?)曲名が表示されているのが目に入り、「レキシかだれかの曲ですか?」と問うと、AIでつくった曲だとの返答があり、じっさいに流してもらうひと幕があった。和のテイスト香る、J-POPの文脈上を踏まえたそのラップソングを聴きながら、sunoの性能はすごいなあなどと思ったりしていたわけだが、ふりかえると、生身の身体を介して生成AIの話をするのは危ないんじゃないか、と思った。ひととひとのあいだに、かんたんに亀裂が入る話題だ。SNS上でバチバチやってるのとは文字通り次元がちがう。デザインという、AI論争の主戦場のひとつでワークをしている身として、事後的に肝を冷やした。

宴の場ではスピリチュアルの話もあった。醒めたあたまで思いかえせば、危うい返答をした気がする。こちらも人間関係にヒビが入る話題だ。こうやって反省できているだけ、まだマシかもしれない。




祖母の通院介助の合間に、ダヴィッド・ラプジャード『ちいさな生存の美学』1章読む。スーリオ論。ラプジャードもスーリオもよくしらないが、題と本のたたずまいがよく、しばらく前に買って寝かせてあった。ペソアの挿話から書き出されるのもあって、その後に展開されるスーリオの考えかたからもペソアみを感じ(廣瀬純が『蜂起とともに愛がはじまる』で書いていた澄みきったやり方で存在する-咲く花の話)、狭間世界のくだりはユクスキュルの環世界みたいな話してるなと思った。ちょうど章を読みおえたあたりで診察がおわり、本をとじて、祖母を車椅子から車の座席へと移動させる。

目もとに黒々とかたまってこびりついているニャンの目脂を取るたのしさ。膝に乗っかってくるたびに顔を撫で、その流れで除去作業にも取りかかる。カチカチになったかさぶたをはがすのと似たよろこびがある。

祖母の足の爪のなかに黒い塊が詰まっており、内出血の跡か?と疑問符を浮かべていると、靴下の素材が絡まっているのではないかと母から言われたので、除去しようと試みる。嫌がる祖母の脚をにぎって、爪楊枝の先でつついてみると、カチカチに固形化しており、いや、これは外から付着した繊維ではなくて人体から生成されたかさぶた的なものだろうと合点し、そう言う。自然治癒を待つ。



いっしょに住んでいないほうの祖母が危篤状態にあるとのしらせを受ける。長期療養の施設に入ってしばらく経ち、それ以前の、一般病棟にいた頃からすでにまともな会話はできなくなっていて、わたしの顔も疾うのむかしに忘れてしまっている。何かをしゃべりかけると、真顔でじっと見つめかえしてくるすがたがさいごに見た祖母の記憶。まだ元気だった頃、かつて一緒に映画館に赴いたとき、祖母はひとりで『私の頭の中の消しゴム』という題の映画を観ていたことを思いだす(そのときわたしが何を観たのかは忘れてしまった)。

車で山道を抜け、妹とふたりで病院を訪ねると、受付の看護師が「ターミナルなので」とみじかい言葉で面会時間の制限がないことを教えてくれる。ベッドに横たわった祖母は、口を大きく開き、眉間にしわを寄せてヒューヒューとつらそうな呼吸音を発している。あとで調べてみると、死前喘鳴というらしい(なんてこわい字面なんだろう)。頬はこけ、唇は紫に変色し、歯の数もまばらになっていて、ふくよかで、闊達で、いつも笑顔を見せていたかつての面影はほとんどない。わたしたちが呼びかけても返事はないが、ときおり声に応じるように瞳がうごいたり、顔の筋肉が微動することがあって、妹もわたしもそれを応答として受けとる。右目はとじたまま、半開きの左目は瞬きもせずにずっとあいたまま、それでも聴覚はさいごまで残ると以前どこかで目にしたのを信じて、声をかけて、肩に触れる。想像していたよりも身体がちいさくなっていて、のばした指が肉体に突きあたるまで、衣服のなかに深く沈んでいった。妹が、ここにくるまでにしでかしたわたしたちの失敗話を祖母に向かって聞かせる。わたしはまたね、と言って別れる。血圧などを計測するモニターには、接続時間が50数時間と表示されていた。長くて広い廊下では、看護師たちがシーツやおむつの類を入れているであろうカートのまわりにあつまって談笑している。

夜になって、様態が急変したと連絡が来て、半刻も経たないうちに呼吸が止まったという報告を受ける。

リンギスがこう書いている。

死は一人ひとりの人間に一つひとつ別のかたちで訪れる、人は孤独のなかで死んでゆく、とハイデガーは言った。しかし、私は病院で、生きている人が死にゆく人の傍に付き添うことの必然性について、何時間も考えさせられた。この必然性は、医師や看護師、つまり、できることをすべて行なうためにそこに居る人びとだけのものではない。死にゆく人に最後まで付き添おうとする人、打つ手が何もなくなったのに居つづける人、自分がそこに居つづけないわけにはいかないと切実に感じている人にとっての必然性でもある。それは、この世で最も辛いことではあるが、人はそうすべきだとわかっている。死にゆく人が人生を一緒に生きてきた親や恋人だから、という理由だけではない。人は、隣のベッドで、あるいは隣の病室で、まったく知らない人が孤独に死につつあるときにも、そこに居つづけようとするのだ。(アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』)


わたしは死にゆくひとに対して無力だ。どうしたらいいのかもわからない。それでもそこにいること。荒れた呼吸に耳を傾け、視線の合わない瞳を見つめること。祖父が死ぬ2週間前、病室でミトン越しに手をにぎったこと。わたしの言葉に対して、声を発することのできなくなった彼が、ゆっくりとまばたきで返事をしたこと。祖父が亡くなったのはもう7年ほど前のことだが、わたしはこうやって思いだすことができる。祖母のことも思いだすことができる。死んだひとたちのことをおぼえていることができる。

死ね殺すうれしいの堆積

たんプリ6-14話。メモだけとって書かずにおり、いざ書く段に至って記憶が薄れているので箇条書き風になる。

6話。初の分割回・後編。すれちがいを遠近で示す画面設計(手前の小林、奥のあんな)。水たまりを踏みこむカットと川との並走。ティーカップの対比(飲み干す/余っている)。空座となった2匹のツバメの像の台座の前でのニジーとの対峙。ジェット先輩はふたりのキャラクター性(性格)が反転したみたいだと逆説的に絆を表現する。川の流れつく海が決戦の地であるという舞台設計。離れた地点でふたりが別々に海に到着する。荒れ狂う海に落下するプリキュアたち。心が合わないプリキュアとちがって、敵であるツバメハンニンダーは合体して戦う。ニジーの「この空はキミたちの心を映しているようだ」に対して、たがいに自分の真の思いを伝えるふたり。手を差し出すミスティック。倒れた際には離れていたふたりの距離が、立ち上がる際には縮まっている。空にかかる虹のカットでバトルに決着。あんなが小林に傘を渡し損ねてしまうという前編の道具立てからつづく、「水」を介した別離・融和の細やかな演出にしびれる。絵コンテ・演出は横内一樹、脚本・村山功。まちがいなく前半のピークとなる回だった。喧嘩回にハズレなし。

7話。あんな転入回。対立の渡り廊下のカットに創立時からある桜の木を配置する画づくり。ゴウエモンの来訪もそこに合わせ、マコトジュエルがどこに宿るかを事前に示すカットだが、初代の頃の演出法もこうした連接的な配置をしていたよなとなつかしく観ていた。アホ毛がピン!となるうごきで「?→!」のひらめきをあらわすアクションも◯。「もう懲り懲りだよ〜」+アイリスアウトでおわるレトロさ。手数の多さが目立つ絵コンテ・演出は篠原花奈。なんども書いているが、まちがいなく今後のシリーズを背負っていく若手のひとり。

8話。プリティホリック開店回。ジェット先輩のプリプリプリティスマイルにシフレ/コフレの「プリプリプリリーン」を思いだしてわらう。脚本は成田良美(前述のハトキャオマージュに関係あるのか?)! なおかつ絵コンテ・演出に小川孝治と盤石すぎる布陣だったのだが、その割には刺さってこなかった。9話。しるく回。TVクルーが学校に撮影にやってくる回で、ディレクターがハカマパンツを履いているのだが、その目立ちにしっかりと犯行のトリックがつながっているのがよかった。今話も成田良美×横内一樹のスーパータッグなのにパンチの弱さを感じてしまう。10話。絵画の謎回。「お店のものと比べて味や形がイマイチだったのかも」と、依頼者の母の手作りマカロンについて述べるあんなの正直さ=失礼さにわらう。劇中、それが咎められずにスルーされているのもふしぎな味になっていてよかった。

11話。キュアアルカナ初変身回。提供ナレーションまでもアルカナボイスの周到さ。警備員に変装したるるかがかわいい。今回の奪われるアイテムである首飾りは偽物であるが、偽物であってもつよい思い入れさえあればマコトジュエルが宿るという語りに、「嘘」に対する批評性を感じた。偽物を暴く、義賊としてのアルカナ。12話。アルカナの秘密調査回。鼻の穴を広げるあんな・小林に見る初代オマージュ感。窓の開閉のアクションをアバンとおしりに配し、アルカナとの心のうちとけとリンクするようにナラティブする技術に、こういうのが観たいんだよな、となる。エンドクレジットで「絵コンテ 志水淳児」を見て納得。13話。ファントム襲来回。ノストラダムスの大予言とミラージュの書の類似性、およびマコトジュエルのバックグラウンドも公開ということでめずらしい縦軸の話。「嘘」に負けない「私」の意志が主題化していく気配。14話。ポチタンおでかけ/生徒会長回。ヤギメールさん、とは? 生徒会長の絵本を読む技術の高さ。アイキャッチが新しく。アンサーはなまるソード!


双葉病院置き去り事件のルポルタージュを読む。ジャーナリズムってこういうことだ。3.11以後に原発推進を宣うひとらは、皆総じてクソだと思う。



『(not)daily graphics 2023-2025』と題し、2023年12月から2025年3月にかけて制作した〈daily graphics〉シリーズ全66+2点を、制作年月日順にまとめた冊子を作成しました、以下よりご覧いただけます
drive.google.com



ワークが落ち着いたタイミングなので4月本(仮)の編集の本格化に着手。原稿の分離・結合、および掲載順の選定をすすめる。ここから加筆・修正、注解の執筆があると考えると4月刊行はむりだという気がしてくる。

制作したグラフィックをgif動画にするのにハマっている。しばらくまえにグラフィックをうごかせるようになろうとアフターエフェクトに手をだしてみたときは、チュートリアルをひとつ仕上げるだけで飽き、身につく前に投げてしまったのだが、手作業でひとコマひとコマをつくっていくスタイルはやっていてたのしく、これならつかえるようになるかもしれないと思う。アニメのおもしろさがある。というか、これでアニメがつくれる。おれはアニメをつくる。AIが幅を利かせている時代に逆行しているが、よくよく考えるまでもなく、制作のプロセス自体に意味があるのだ(釣りのたのしさ、ロードバイクのたのしさ、キャンプのたのしさ、絵を描くたのしさ、粘土をこねるたのしさ、写真を撮るたのしさ……なんでもいいが、ひとは結果だけではなく、そこに至るまでの過程にもよろこびをおぼえる生きものである、それで言えば、AIのためのプロンプトを書くことにたのしさをおぼえるひとらもいるのだろう(ほんとうに?




アジカンの新譜を流し聴きしながら作業中、琉球メロディが奏でられはじめたので、スピッツにもこんな曲あったなあと思っていたら、まさにそのスピッツのナンプラー日和のカバーだった。事前に収録曲の報を見ていたはずなのに、なにもあたまにはのこっていなかった。

佐藤シンイチロウの訃報。堪える。何人かの友人がいんすたのすとーりーで言及しており、ハートマークをつけてきもちを慰撫する。

こういう弔意感情の決着のさせかた、どうなのか。



古いスマホをひさびさに充電・起動し、ブラウザのブックマークを渉猟していると、数年間更新のなかったブログが2年ほど前に更新されているのを発見してドキンとする(と書いてから、いや、この発見は前にもしたようなというデジャヴに襲われる、人生は似たようなことのくりかえし)。該当の記事を読む前にこのことを書いた。スマホを充電したのは、過放電が気になったから。愛用しているスイッチライトも平気で数ヶ月放置してしまうので(それって愛用してるってほんとうに言えるの?)、どうにかしたほうがいい。なんで過放電という単語に行き着いたのかは忘れた。

古いデバイスでブラウジングしているだけで、なにかノスタルジックなものをながめている気分になる。奇妙だ。この文章はわざわざいまメインでつかっているスマホに持ち替えて打ちこんでいる。変だ。

ので、古いスマホのままひらきなおした。意外とサクサクうごくのがおもしろい。ブックマークに登録されているブログたちをしらみつぶしにアクセスしていくと、404だったり、更新が途絶えたりしているものにたくさん遭遇し、生の比重に意識が向く。どんな理由でそうなっているのかはしらないが、ウェブからげんじつへの重心の移動をわたしはそこに幻視する。SNSから消えた友人たちのことを思いだす。いまはもうSNSでしかつながっていない友達がたくさんおり、そしてそこから消えしまったというのなら、もはや絶縁状態である。さいきんついったで流れてきた文言に「近所」の重要性を説く(というよりも、国家や戦争といったでかい物語に対してのオルタナティブとして?)ものがあって、わかるなと思ったが、そもそも1年の大半を家にひきこもって生活しているわたしにとって近所とはいったいなんなのか。家とインターネットを反復横跳びしているうちに人生がおわる。

違国日記最終13話、これって「世界を革命する力を!」じゃん!と心打たれていた。ふとした描写でなみだがこぼれる、いいアニメだった。1話から時系列を錯綜させる構成が頻出するのだが、それが主人公・朝の「迷い」にリンクしており、すぐれた演出だと感銘を受けていた。朝と登場人物間をなめらかにスライドしていくフォーカスの当て方も巧み。キャラたちの仲のよさをあらわすための身体接触のありかたに実在性・肉体性を感じ、それもまたよかった。



meg bonusの新譜がめちゃくちゃいい。あまり熱心に追ってこなかった長谷川白紙/君島大空あたりのライン上、去年感銘を受けたmomなんかも隣接地に配することができると思うが、ストリングスのせつなさ、祝祭性のつよいストレンジポップネスがさくれつしている。海辺に光ったにんげんがいるジャケという点でむすべる、同月リリースの有田咲花の新譜もボサノバちっくかつフォーキーでぐっど。

youtu.be


ポケモンチャンピオンズ、おもしろすぎる。テラスタル(対戦途中でポケモンのタイプが変化)がない環境、ストレスフリーすぎる。伝説環境とちがっていろんなポケモンがいるのもたのしい。人生初のレート2000も達成し、いくらインフレしているとはいえ、単純にうれしい。



たくさんの的vol.17、発行期間中です、詳細は以下より、2026.6.2までプリントおよびダウンロードできます

https://www.tumblr.com/seimeikatsudou/815541552769302528/takumato17
seimeikatsudou.tumblr.com



春アニメはニーディーガール・オーバードーズ、ゴーストコンサート、魔法の姉妹ルルットリリィを3話まで観てそれぞれ切り、唯一、淡島百景を継続して観ることに決める。

祖父江慎、中村公彦の訃報。思いかえしてみると、祖父江慎はデザイナーという存在を意識するようになった最初の人物かもしれない。わたしが最も愛した漫画雑誌『IKKI』のアートディレクターであり、雑誌自体の命名者でもある。大学時代、まだわたしがデザインの領域に足を踏み入れる前から、かっけー装幀、かっけーデザインの話を当時の盟友A(いまもデザインで飯を食っている、数少ないデザイナー仲間である)なんかと話すときには必ずその名が挙がっていたことを思いだす。そして自分でも見様見真似でデザインをするようになり、わたしがその苗床として育っていった場が、中村公彦が実行委員会会長を務めるコミティアなのだった。それぞれ66歳、64歳。早すぎるだろう。

おお昔お目かしも歌詞(おためごかし、くりかえし

リンギスの文庫化を祝して(?)、書塊をブックタワーから抜きだし、パラパラ。キラーフレーズがたくさんあって脳を撃ち抜かれる。たとえば『汝の敵を愛せ』の以下のような記述。

贈り物は、いかに慎ましやかなものであっても、性急さや向こう見ずといった要素のある範囲でのみ真の贈り物となるのだ。与えるというのは情熱的な行為である。所有していた資源を捨てて与えるというのは、与える者を危険にさらす。与えるという行為はいつも、自分の人生を与えたいという情熱をすでに含んでいるのだ。

なんてすばらしいんだろうか。読んでいて、さいきんフライヤー/ポスターデザインを手がけた作品のことが思い浮かび、プロモーションの際に付言しようと思った。


▼2026年5月に東京/大阪で公開!
eiga.com


aiという文字列が、アイよりも先に、エーアイとして浮かび上がってくる時代。

もう十何年も前から右上顎のあたりに居座っており、ふだんは肉のなかに埋まっているが、ときたま食事の際に顔をだして口腔内にわずらわしさを振りまいていた魚の骨が、今朝、朝食を摂っているあいだにきれいさっぱり消失した。咀嚼と嚥下の反復のなかで、いつの間にか飲みこんでしまったようだ。すでに半生ものあいだ、粘膜を突きやぶって生えていたでっぱりがすがたを消している! これはものすごいことである。これから先もずっと、一生つきあう仲だとばかり思っていた。これまでなんどもしてきたように、舌の先をひねって骨のあった場所を確かめると、骨が抜けてできたであろう微細なくぼみがかすかに感じられた。

Sさんに誘われ、Gへ。往路のコンビニでRさん発行のファスビンダーにまつわるネットプリントを出力し、読みながら店へ向かう。ビールを3杯飲む。うれしいことに、さいしょの1杯は奢ってもらう。主に映画を中心としたカルチャーの話。まさかこっちでギヨーム・ブラックの話ができるなんて、と衝撃を受ける。さいごに飲んだクラフトロックの250ml缶、おしゃでかわいく、ちょうどいい。お値段もクラフトビールにしてはお手頃なのがうれしい。

テレビから流れるローカル番組で、牛たんが画面に映った途端、ターンエーガンダムのOPが流れてくだらなすぎるとわらってしまった。

高畑勲『かぐや姫の物語』と山下清悟『超かぐや姫!』を続けて観る。前者、マイベストジブリに食いこむほどよかった。後者、ネトフリオリジナルアニメとわたしは相性がわるいのかもしれない。くわしくはむかほーに書く。


▼書いた

無職/文化/週報 Season3 #05
seimeikatsudou.wordpress.com




マルリフーズの松川浦かけるあおさ、めちゃくちゃうまい。あおさ、フライドガーリック、唐辛子、胡麻の風味が渾然一体となって舌にしみわたる。白米のほか、ポテサラに合わせたのだがベリナイスだった。豆腐にものせたい。

かぐや姫熱がつづいており、アニメスタイルのインタビューと、プロデューサーの制作日誌を読んでいる。おそらく今敏のパーフェクトブルー戦記あたりが自分の原初的体験としてあるのだが、集団制作の現場語りってほんとうにおもしろい。とりわけ、それがヤバい現場であればあるほどに。自分の身に降りかかった際にはつらいのにね!

ファミマの激辛韓国キムチ、舐めてかかったらちゃんと辛く、鼻水となみだがじわとあふれる。発酵由来の酸味もつよめで、本場のパワーを感じる。メーカーはハンウル。豆乳をがぶ飲みして事なきを得る。自分の味覚においては、これくらいがおいしく食べられるギリのラインな気がする。ブルダックポックンミョンクラスの辛味になると、ただただつらいだけになる。

むかほーの記事を書いている。次号はおおきな原稿がふたつの構成で、長い──といってもたかがしれているが──原稿を書くためのいいリハビリテーションになっている。腰を据えて文章を書く機会がとんと減っている。そもそも、たいていのひとはそんなに長い文章を書かない。し、読まない。が、何かを見たり読んだり、あるいはひとと会ったり喋ったりしたことを書きのこしておくと、未来のわたしがよろこぶ。もうおぼえていなかったことが読むことでよみがえるのは愉快なことである。




大城美幸『違国日記』(2026)を観ていると、『放浪息子』(2011、監督:あおきえい)のことを思いだす。人物の奥行き。登場人物の配置の妙。作風がまったくちがうのに、サブタイトルの付けかたがゼッツと同じ(動詞・ワンワード式)なのにわらってしまう。回がすすむと西荻の見慣れた風景もあらわれ、オッとなった。

ニャンがわたしが抱いて運ばずとも勝手にわたしの部屋に行って眠るようになった。冬のおわり、春のはじまりである。今年は例年になく雪の少ない冬だった。雪かきダイエットの予定がおじゃんになった。体重は年始ごろに底をついたあと、微増して停滞している。

イランへの先制攻撃に対してたったのひとつも非難の言葉を挙げられない本国の国家体制、ほんとうにおわっていると思う。「一概に非難することはできないのではないか」、狂っているよ。

たんプリ4-5話。4話は探偵事務所への初依頼回。青山作画回でもあり、漫画家ワナビーがゲストキャラ。ハンニンダーも漫画モチーフで、「POW!」といった擬音がそのまま画面にあらわれる、バトルの際のオノマトペ演出が光っていた。プリキュアたちのキメ技も初披露。そして画面に登場するたびに異なるアイスを食べているるるかちゃん。ほぼ喋らないが、その食のアクションによってキャラクターが立ち上がってくる。

5話は初の喧嘩回。アバンからコンテにちからが入っているのがわかる。傘を届けにやってきたのに、学校の友人と仲良くふるまっている小林を見て、立ちすくみ、その場を去ってしまうあんな。ふたりを隔てる柵と距離の断絶。そういったシリアスさとともに、プリキットを用いて高校生に変装するあんなのかわいさだったり、キャラ自体ではなくあんなと小林のアホ毛が言い争うコミカルな演出だったりが愉快。バトルの相手も2羽の燕というデュオであり、それを前にして仲違いをしてしまうという、雪空の友だちを思いだすようなシナリオの妙がある。バトルに敗北し、曇ったままENDの珍しい回でもあった。脚本は村山功。絵コンテ・演出は矢野岳。はじめて見る名前である。

浅香守生『淡島百景』1話先行配信。作業をしながら観ていたため、集中して画面に向きあっていたわけではなかったのだが、それでも絵コンテや演出のリキの入りようが伝わってきて、かなりよかった。交わされている台詞にあわせるかたちで、人物の背後の空間を強調したり、顔の半分を切断したりする、フレーミングの妙。とりわけ、淡く繊細な撮影処理の秀麗さが頭抜けていたのではないか。撮影監督は酒井淳子。本放送で追っていくと決める。

わたしを除いた家族での食事中、カスがテレビで日本すごい/中国ヘイト系ショート動画を流しているさまを見、「そんなことある?」とラインを送ってくる妹にわらう。「隣の母の目が死んでたよ」とも追記があり、「おわりよおわり」と返信する。



確定申告の下準備をしつつ、4月以降に発行する小冊子のための原稿整理。10年分のテキストがあり、手を加える前の仮原稿を流し入れただけで250pほどになる。もはや小冊子ではなく、本である。そもそも、3月の冊子も70p超なので、〈小冊子〉という冠は適切でないかもしれない。

年を経るごとにスピードアップしていた確定申告が竜巻のように片付き、胸のつかえがひとつとれる。晴れた心のままに、ひさびさにポケモンを育て、パーティを組み上げる。3年以上にわたって続いてきたSVのランクマも今シーズンでおわりなので、さいごくらいは、とやる気が湧いたのだった。Tさんととごくたまにバトルしていたのをのぞいては8ヶ月ぶりの対戦。いい感じに構築が組めていたのか、それとも単にビギナー級からのスタートだったからか、9割以上の勝率をたたきだし、幸先がいい。ポケモンマスターにおれはなる。

ゼッツ24話の急展開、おもろすぎる。これまで伏されていた登場人物の関係性が明らかになったと思えば、その人らはすぐさま死んだり捕まったりの急転直下。物語のギアが二段くらい一気に上がった感じで、主人公死すというさいごの段に至って、さらにまたアクセルが踏みこまれる。このまま悪評を吹き飛ばしてほしい。

アニメ版幻想水滸伝の第1弾PV、画面に映るすべてのカットが平板的で、何ひとつ画的なおもしろさがなく、まったく期待ができない。気合が入るであろう、さいしょに世にでるものでこれなのだから、本編は推して知るべしだ。わたしの心に刻まれている数少ないゲームタイトルのひとつだが、放映時には惑星のさみだれアニメ化のときのようなショックがわたしを襲うだろう。

連勝に心がおどっていたポケモン、すぐに負けが続くようなり、おわる。ぽこポケがやりたいが、スイッチ2がない。

ニャンといっしょにベッドに横たわり、ゴロゴロして誕生日を過ごす。GTSで見つけたユクシー含め、色違いのポケモンと5匹も遭遇する(キラーメ、キラフロル、トロピウス、アサナン)。これがバースデイパワーか(そんなシステムはない)。ついでにケッサクヤバソチャと引き換えに、ザシアンまで手に入る。すごすぎる。

ずぶぬれカヌレ

ペットボトルのふたをいきおいよく(そう、そんなにはずみをつけて急いでまわす必要などたったのひとつもないのに)閉めると、親指と人差し指のあいだのやらかい薄い皮膚を巻きこんでしまい、静かに、しっかりと流血する。

部屋の扉を開けて昼寝を決めているとき、ニャンが音もなくやってきて、布団のなかに潜りこんでくる幸せ。体温のある重み、これが疲弊したひとの生に必要なものです。わたしはニャンによってこのことを学びました。体温だけでも、重みだけでもだめで、そのふたつが揃ってはじめて救いが生まれます。

インターネットを漂流しているさなか、AI slopという語を見かける。生成AIによって出力された粗悪なデジタルコンテンツを指す語で、slopはもともと残飯や泥水、糞尿の意。ネット空間だけでなく、げんじつ世界にもAI画像/動画がはびこる現代にそぐう、いい言葉だと思った。

スーパー戦隊50年の歴史の終着地を観おさめ、投票へ。さいきんは期日前に行ってばかりいたので、投票日当日に投票するのはひさしぶりな気がする(前回はまだ祖母が歩行でき、ふたりで歩いて投票所へ向かった)。心の中指を立てながらこれまたひさびさに鉛筆をにぎり、つぎつぎに投票箱のなかに用紙をすべりこませる。それをパイプ椅子にすわって見守っていたおじさん三人衆にかるく一礼して出口へ向かうと、眼鏡をかけた小柄な女性がドアを開けてくれ、そんなことまで!とおどろいていると同時に声をかけられ、タブレット端末が目の前に差しだされる。出口調査である。むろんその存在はしっていたが、投票権を得て十数年、生まれてはじめて遭遇したので、ほんとうにいた/あるんだ!というよろこびが生起した。てか、こんな雪の日に、二重ドアのあいだのちいさなスペースでずっとひとが来るのを待っていて寒かろう!と思いながら、高市政権を支持しますか?の問いに指の先で答えた。



入れたての豆乳がなみなみ入ったコップを祖母が床に落とし、中身をぶちまける。わたしは車椅子の入り組んだ部品にかかった細かい飛沫までていねいに拭いとり、夕飯の準備をして祖母に配膳する。自分のぶんを用意をしようとしている矢先、口にものが入った状態でくしゃみをした祖母はそのすべてを顔の真ん中にあいた3つの穴から噴きだし、その後処理がおわったタイミングでニャンが猫砂の上にポジションをとってうんちをしだす。

2月にパブリッシュする小冊子のために段ボールの山のなかから稲垣足穂の本を探索。文庫・単行本、しめて8冊が発掘される(たぶんもうすこしあるはずだが、山をきりくずすのがめんどうなので打ち切る)。ワークの合間に頁をめくりちらしていくと、「朔太郎オナニスト」と題された文章の以下の箇所に、前の持ち主が線を引いていた。

朔太郎はギターがうまい。その他、昔のウイスキ壜には月世界旅行のラベルが貼ってあっただの、スープア氏の日露戦争のフィルムがどうなの、「イナガキタルホはクリスマスの銀の星だ」だの、又、サポーターでキンタマを緊め上げて自転車を走らすのは良い気持ちだとか、なかなかハイカラーなことを云っていたが、彼の機械学は、軽気球とパノラマ館とを出るものでなかった。

彼が、あるいは彼女がこの記述の何に感激して鉛筆を手に取ったのかはしれないが、何十年後かに同じ頁を見つめたわたしも、サポーターでキンタマを緊め上げて自転車を走らせている——広瀬川のほとりを、枝垂れ柳の青々とした葉の下をくぐり抜けながらペダルを回転させる——朔太郎のことを想像すると、大層ほがらかなきもちになるのだった。

川崎弘二『名探偵プリキュア!』1-2話。前シーズンの反省を活かしてちゃんと感想を書き残そうと思った。まず、何にも増して触れたいのはEDのプリキュアたち。あまりにも、あまりにもかわいすぎないか? 


ほんとうに信じがたいかわいさ、心臓を直でつかみどってくるようなプリティさがさくれつしている
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『フレッシュプリキュア!』(2009)のEDダンスから現在に至るまで、長い年月をかけて磨かれてきたプリキュアのCG技術。そのテクニックがふんだんに投入された『ガールズバンドクライ』(2024)。そしてその制作過程でさらに鍛え上げられたイラストルックの描画力が、あたまのてっぺんから指の先まで、惜しみなく発揮されている。音楽/リリックにあわせてコロコロと変わる表情・しぐさのなんと愛おしいことか! なんど観ても新鮮に衝撃を受ける。

本編の話もしよう。第1話のファーストカット、未来の日付とともに画面中央に大きく表示される「MAKOTOMIRAI」の文字を見、かなり直接的に横浜/みなとみらいが参照されている!と思った(続くカットではそれらの文字列の支持体であるコスモクロック21の全景が映され、さらには青色に染められた赤レンガ倉庫さえも登場する)。主人公のかたわれである明智あんなの母が、もうひとりの主人公である小林みくるとそっくりであるということを明確に見せる画面構成にも目を惹かれた。OPでは、この二組の母娘がすれちがうカットが意味深に配されており、タイムスリップをここにも絡ませるのか!というインパクトがあった。今話のゲストキャラである花嫁が遺失するティアラが、かつて彼女の母親が結婚式で使ったものであるという点も、みごとに「継承」による線がむすばれている。これは、2話で明かされるキュアット探偵事務所の先人ともつながっていくテーマなのではないか?

推理を披露し、犯人が判明するシーンの「見事な推理だ、探偵さん」的な拍手、というベタベタな演出もたのしい。推理の道筋を立てることができずに悩むみくるに対して、はげましとともにあんなが差し出す手が、怪物・ハンニンダーと対峙した際には勇気の共鳴として、みくるからあんなへと逆方向に反復されるうつくしい流れも見逃せない(劇中においては、最初、相手を呼び止める際にみくるはあんなの手をつかむのではなく、肩をつかむアクションをする、ふたりで協力して推理をしていく過程で、その距離は次第にちぢまり、手から手へと変遷する……)。そしてふたりは変身に至るわけである。

2話はジェット先輩登場回。探偵ものということで毎話謎を解決していくフォーマットであるわけだが、1話に比べて一気に難易度が下がった気がする(というか、1話の謎、むつかしくなかったか?!と思ったが、感想を書くために観かえしてみると、すでに答えをしっているのもあるだろうが、ていねいに画面で演出しているのだった)。決め技前にインサートされるふんばりカットには初代のオマージュを感じ、グッときた。また今回は土田豊演出回であったが、まだすべりだしということもあり、おもしろ成分がいつもよりひかえめだった気がする(ムキムキ妖精や爆走おばあちゃんなどはありつつ……)。




堀辰雄本が完成する。storesで無料頒布しようと思っていたのだが、ダウンロードの際に名前や電話番号の入力をもとめられるのがいちユーザーとしてダルすぎだと思ったのでGoogleドライブにあっぷ。

drive.google.com

益体もなくなった商品説明をせっかく書いたので以下に転記する。

青空文庫のテキストを縦書きに組みなおし、小冊子にするYC Aozora Novelsシリーズの1冊目です。収録作は、堀辰雄「燃ゆる頬」。巻末には「少年愛のセンチメント」と題し、足穂を引きながら書いた読書ノートを付しています。表紙込み20頁。

毎号このように公開していくのはまだ決めていないが、何かしらをつくってはいくのでご期待ください。

公開といえば的の最新号もでています、今号から発行期間が1週間から1ヶ月にのびたので入手しやすくなりました

https://www.tumblr.com/seimeikatsudou/808518400732217344/takumato16
seimeikatsudou.tumblr.com



ブログあり、むかほーあり、毎月の小冊子あり、と今年は「書く」1年になるのかもしれない。原稿を書くために足穂を早足で駆け抜けているとき、いい「読む時間」がとれている、とも思ったので、こうやって外にだすことが内に招き入れることの牽引力になるのだと噛みしめることにもなった。いや、そういう意図でむかほーだって再開しているのでそりゃそうだという話なのだが、付箋をたくさん貼りたくなるような文章を読むことはひじょうにたのしく、賦活される。

たんプリ3話。探偵事務所へ引越し&敵幹部s顔見せ回。ひとが大切にしていたものにマコトジュエルが宿る、という付喪神的設定が明示される。プリキュアグミ≒プリキットグミが便利アイテム(ほんやくコンニャク)として用いられる販促演出がいい。これまで犯人のアクションとして使用されていた拍手演出を、異なる場面で発生させることで犯人をミスリードさせるテクも光っていた(要所要所で違和感をしっかりと強調してくれるので犯人が誰かはわかるのだが、謎である「亀が花びらに見える」までたどりつけないわたしのボンクラあたま)。ネット人気No.1のキュアアルカナ・シャドウこと、森亜るるかが初登場するのも見どころ。ギャル怪盗・アゲセーヌに聖あげはのすがたを幻視するのはひろプリ履修組の総意だろう。画づくりの方針として、鏡面がたくさんでてくるのも印象にのこった。「調査時の確証バイアスの除去の重要性」という、とうてい子供向けアニメにでてこなさそうな台詞がインサートされるのも、初期作に見られた意図的な語彙のふくらみが感じられ、よかった。

『超宇宙刑事ギャバンインフィニティ』1話、異星人の存在があたりまえになった世界において、「悪意ある異星人」を共生社会における犯罪者として名指すナレーションが冒頭で流れ、おい大丈夫かとなる。めちゃくちゃ排外主義的な骨組みである。今話の敵として設定されるのが異なる時空の地球における、反体制的カルト宗教の指導者なのだが、その描写も唐突かつ表層的すぎて主人公の説教も空回り、気づいたら本編がおわっていた。これらの違和に納得のいく決着をつけてくれる気がまったくしないので、2話切りの予感。

一方、ゼッツはそれなりにおもしろく観ているのだが、ついったを見るとあまり評判が芳しくないようで、22話終了時点までそのことをしらなかったので、そうなんだ、と思った。約言すれば、こちらに明かされない謎が多すぎる!というのが否定派の意見のようで、たしかにそれはそうなのだが、その点はわたしはあまり気になっていなかった。キャラの行動原理がどうのこうのも言われていたが、そこにもひっかかりをおぼえたことはなかった。で、これはわたしのタイムラインに偏りがあるのかもしれないが、ゼッツ否定派にかぎってギャバンの排外主義的傾向を否定する様子が見られ、その目に見える断絶にそれなりにぜつぼうするのだった。

oboe ooboe

新年会2。いとこふたりと妹と。とんかつを食らう。カキフライも食べる。うまい、うますぎる。牡蠣は好きな食べ物ベスト10に入るなと確信した。生でも焼いても蒸しても揚げてもうまい。最強か。いちど際限なく食べてみたい。さいきんは飲酒がつづいていたので、酒のない会合のヘルシーさに清々しい気分になる。退店時、「集団ストーカー犯罪」と書かれたポスターが店に貼ってあるのを発見し、年始から愉快なきもちになる。いや、当人たちは本気でやっていることなので、それを見て愉快になるのは礼を失するのかもしれないが、、

ガルクラのぬい、さまざまな販売サイトを比較して安いところで注文したつもりが、送料が高い点をスルーしてしまい、けっきょく損(?)する。定価にだまされてはいけない。

フランセのレモンケーキ、うまい! しばらく前に食べたが、シーラカンスモナカも美味だった。viva 手土産。

ハトキャをちょくちょく寝る前に観ている。今夜はラーメン回。泣く。デザトリアンが自身の思いを吐露するあたりから涙が止まらなくなる。成田良美の脚本と、それにそれに呼応するすぐれたコンテ・演出(畑野森生)。お父さんとの確執を問われ、丘の上で三浦くんとつぼみ・えりかが鉄柵に隔てられて対峙するカットと、父子間のきもちが融解し、川辺で三浦くんとお父さんがキャッチボールをするカットの対比(三浦くんを追って丘の上で為される前者の対話と、土手を下っての川べりで為される後者の対話という高低差もまさしく「映画」を感じてしびれる)、うつくしすぎる。前半の三浦くんが野球部であることを示すシーンのコンテも、画面手前から奥へところがって捕球するという、気の利いたアクションを入れ込み、バトルシーンでも平坦でない画面のつくりかたをしていて、並々ならぬワザを感じた。SDを務めてほしい。



パプリカ20thのドミューンを流しながらむかほーの原稿書き。長州力の入場曲が平沢進作曲としらず、かかっておどろいた。atmosとのコラボT(敦子の顔がデカデカとプリントされているやつ)を買うか迷って見送ったのだが、こうした番組を視聴すると買っておけばよかったなと悔いが生まれる。だが、おれにはパーフェクトブルーのロンTがある(これを書いている現在、まだとどいていないが)!

愛用していた名刺入れ兼カードケースが半壊状態なので、ネットで見つけて安くてかわよ!と思ってポチったhightideのpavot、とどいてみたら色味も素材感もサイズ感も想像していたものとちがっており、テンションが駄々下がる(いや、ちゃんと見極めないわたしの落ち度であるが)。ときめかないものを持ち歩きたくないのでこれは自宅用にするとし、これまでつかっていたものの色違いを注文しなおす。

漫画をもりもり買う。そして、今年は漫画を読む年にしようと思い立つ。買ったのは永野護『FOOL for THE CITY』、高木りゅうぞう『ツイステッド』、温泉中也『現象X』1-2巻、志波由紀『人魚のムニエル』『悪魔二世』1-2巻、砂糖野しおん『うちがキングダム』1巻、よしもとよしとも『完本 青い車』、灰田高鴻『灰かぶりの天使』、ほそやゆきの『シルク・フロス・ボート』1-2巻、ふじちか『スケバンと転校生』3巻。いましらべたら、このブログをはじめた2016年の時点で「漫画買わなくなってしまったな」と書いてあったので、10年以上ぶりの漫画回帰である。漫画雑誌を4-5誌購読していた頃のような熱意がふっかつすることはないだろうが、少なくとも年末にベスト10を編めるくらいは読みあさりたい。

その流れで無料公開されていた雁須磨子『ややこしい蜜柑たち』を最新話まで読む。かなりちがう、しかしそうであるともつよく言いたいのだが、ズラウスキーの『ポゼッション』的な、破滅的な女に人生をめちゃくちゃに破壊されるよろこびみたいなものが流れている。その切先が、屈折および倒錯しているわたしのこころにざっくりと突き刺さってくる。つまり、いいということである。最新話まで追いついたあと、単行本をポチる。ああ、破滅させられたい(そうさせられるまでもなく、すでにもう人生がおわっているのはさておいて)!

Pickle Darling、めちゃくちゃいい。今年初の新たなミュージックとのよい出会い。

イントロのフレーズがラジャ・マハラジャー(ニャホニャホタマクロー)みがある
www.youtube.com

フールナイトが制作会社シャフトでアニメ化決定!と海外のついが流れてきたが、ソースがない。ほんとうだったらうれしい。




Power-Take-Off、ノースカロライナのノイズバンド、かなりいい(と思ったが、バンド単位というよりも曲単位のよさだったかもしれない)。鈍重。検索すると同名の芋っぽい田舎のアメリカンおじバンドがでてきてわらう。


いいと思った曲はこれである、モタモタという擬音が合いそうなドラミングがいい
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堀辰雄が気になり、文庫を買おうと書名で調べると青空文庫に作品が数多く収録されていることが判明し、それならばと短編をひとつ選んで組版を設計をし、試し刷りする。今年はこのようにしてひと月に一冊、本をつくる。年始に編んだ詩書を一冊目として、そうしようと決めたのだ。これは来月分のための試作で、小説を読んだ上で、自分のテキストも併記したものを制作する。と思ったが、判型的に併記はむつかしそうなので、巻末に付すことにする(ジャン・ジュネの『判決』みたくしたかったのだが、、それはまたべつの機会に取っておくことにする)。

sam wilkesがいい。ここ数日はずっと彼のアルバムを再生し、そこからの自動再生を聴きながらワークしているが、心地のいい音楽しか流れなくていい(ナラ・シネフロとか)。

明朝、カスが10分以上にもわたってドア2枚を貫通するほどの大音量アラームを消さずに眠りこけているのにめちゃくちゃイライラする。

長谷川あかりのぶり大根のために、ぼんやりしながら大根をおろしていると右手中指の腹をすっぱりと裂き、左に持ち替えてすりなおしていると今度は左手中指第一関節を豪快に抉ってしまう。気の抜けた状態で刃物を扱ってはいけない。左右ともよく血がで、ひりつく。皮膚から肉片がしっかりと削がれた、のこるタイプの傷だから、今後の人生においてぶり大根をつくるたびに今日のことが思いだされる。すりおえたあとはニャンを膝の上に乗せ、その体温になぐさめてもらう。トラックパッドを操作する指先に意識が傾く。

ぶり大根はまあまあ。春巻きに比べると感動が薄かった。

煮干しの細い骨が前歯の裏手の歯茎に刺さって出血し、舌の先から指の爪、ピンセットや歯ブラシや水流やらを駆使してもまったく抜けてくれる気配がなく、朝からテンションだだ下がりだったのだが、刺さったあたりの歯間にデンタルフロスをなんどかくぐらせると、繊維に絡んだ小骨がするりと取れ、よろこびのファンファーレが鳴る。そういえば、さいきん起床時にFAXの受信音のような耳鳴りがする。

むかし住んでいた家のおおきな窓いちめんに、大小さまざまのかたつむりが張り付いている夢を見た。



文章を読み、どうやら相性がわるそうだ、と思ったひととは、会話においてもディスコミュニケーションが起こるんだ、という気づき。いや、たったひとつの例で何を判断できるんだという話ではあるのだが。そうしたひととやりとりをする際には、同じ場に第三者を入れておくことで摩擦を低減し、よりよいコミュニケーションに補正することができるかもしれない。

裂傷はすぐ治癒したが、抉り傷はなかなか治らず、日常のふとしたときに傷口を見つめてしまう。いくらながめても、早く治るわけでもないのに。


今千秋『キミとアイドルプリキュア♪』(2025)、完走する。キャラはよかったが、ストーリーにあまり興味をもてなかった。これはアイドルモチーフに関心をもてないわたし自身の性向にも依ることだと思う。敵サイドの掘り下げに顕著だが、縦軸のドラマの薄さは近年の作のなかでも随一だったのではないか?(継続して流れていたカイトとの色恋模様も、わんプリにおける悟くんや、デパプリの品田のようなキャラクターとのかけあいに比べて(その距離の遠さもあって)味を感じなかった。1話ごとの感想をブログにまとめなくなったのも体験としてそれに関与しているかもしれない(手書きのメモは取りつづけてはいる、ずば抜けた回があれば再開するのかもしれないが、、)。ただ、映画に関しては単独映画最高傑作だった。ブルーレイもとどいた。いつ再見するのかはしれないが、直近3作の主人公たちが描かれた特典のファインアートキャンバスが思ったよりも存在感があり、キラッキランランになる。

mom『AIと刹那のポリティクス』、びっくりするほどいい。

Hさんと長電話。湯船に浸かりながら、次回公演、ガンダム、音楽などについて1時間半ほど話す。

the cheseraseraの光の街のサビ、めちゃくちゃlost in timeの30でわらう。海北、もうもどってこないのか。ランクヘッドの小高がそのことにいらだっているついを思いだす。

ひき肉、豚バラ、ほうれん草、エリンギ、大根の皮+葉、赤缶、クローブ、クミン、コリアンダーターメリックローリエ、砂糖、塩、だし醤油、酒、みりん、ぽん酢、味覇、小麦粉、レモンヨーグルト、豆乳。つくったカレーがおいしかったのでメモ。玉ねぎもにんにくもしょうがも入ってない、あまり肉とあまり野菜でつくったのに! 日頃つかわない小麦粉のパワーか。

母校のいじめ動画がSNS上で炎上していて、かなしみをおぼえる。テレビでも報道されているのを見る。卒業後にいちどだって彼の地を訪れたことなどないのに、共苦的な感覚が起こる。これがナショナリズムの芽生えかと思う。世のなかには、「富士山と僕は全然関係ない」と言い切るリテラシーがもっと必要だ。

〆切直前の案件が複数走っており、日々疲労する。そんなさなか、ニャンのひりだしたもりもりうんちをビニール袋ごしにむんずとつかむと、自らの生すらもが己の手のうちに取り戻される感覚になる。いったい何を言っているんだと謗る声もあるかもしれないが、しらない街に住む、まだ会ったことのないきみが、きっとわかってくれるはずだという確信がある。そういう思いで詩も書いている。

わたしもやさしくたどられて

ニャンをだっこして自室に運びおえようとしたとき、ぐんとのびた前足の爪がカリにひっかかり、流血。ヴッ、と濁点のついた声がとびで、きもちが急速に冷える。途切れ途切れの裂傷が、しっかりと陰茎上部に形成される。感染症にかかりませんように、とトイレットペーパーで止血したあと就寝。

都へ。godspeed you! black emperorの来日ライヴを観るためである。近美で「アンチ・アクション」展、ホワイトシネクイントでチョ・ヒョンチョル『君と私』なども観たが、そうした文化芸術の類についてはむかほーに書くとして、ここではその他の細々としたことを書く。

バスで向かった。車窓からは雪景色が見えていた。昨夜は今シーズンさいしょの大雪だったのだ。木々が真っ白くなっていた。都内に入る頃、すこし離れた席の若い女のヘッドフォンから、ずっとゆーちゅーぶの音が音漏れしていた。ヘッドフォンを付けているだけまだマシで、さいきんはスマホ本体から垂れ流しで動画を見ているにんげんに遭遇することがけっこうある。コロナ以後、ひとびとから身体性が明確に失われている。

池袋で降りた。ゲームセンターでクレーンゲームを冷やかしつつ、エーラージへ。ノンベジミールス、¥1,500。うまい。なかでもごぼうのカレーが美味だった。デザートとして付いてくるグラブジャムンの、噛みしめたときのシロップのジュワっとした感触、牧場感のある風味(山羊の乳でもつかっているのだろうか?)がたまらなかった。

食後はポケセンへ。肩のせネイティはまだおらず。代わりにトリトドン(にしのうみ)を迎える。ひがしのうみはもっているので、これでつがいができる。前回同様、バンナムクロスストアに置いてあるクレゲでプリキュアのぬい(キュアミラクル、プライズのシリーズはちがえども、これでまほプリの3人が揃った)を確保し、ガシャポンで花海佑芽のめじるしアクセをゲット。無印で化粧水も買う。のち、アニメガソフマップでガルクラ×くまみねのグッズ見本をながめ、ジュンク堂月曜社フェアの棚をながめる。買えたらいいなと思っていたアガンベン『思考の潜勢力』もブランショ『書物の不在』もすでに買われてしまったあとだったので、キミプリ特集のアニメージュだけ買って近美へ。閉館まで居座り、コインロッカーと書店を経由して神田スクエアホール。はじめて来る箱である。ちょうどわたしの整理番号が呼ばれるタイミングで列に接続できたのでよかった。ライヴ後は笠岡ラーメン 一元堂、笠岡ラーメン醤油・細麺、¥890。岡山に本店があるらしいが、そんなご当地ラーメンがあるのか、と思った。サーブ後、「お箸は抽斗にあります」と言われたが、見当たらず、椅子の上でうろたえていると、隣の席の抽斗が自動ですべり落ちてき、そんなことがあるのかよ!と感動した。鶏出汁の効いた一杯で腹を満たし、Nくんの家へ。部屋が片付いていないからと、まずは風呂に促され(わざわざ湯船まで貯めてくれた!)、あん肝を茹でてくれたので焼酎の水割りで乾杯し、寝る。


▼むかほー最新号

無職/文化/週報 Season3 #04
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2日目もクレーンゲームからはじめる。何も取れやしないが(ユキメノコを捕獲したかった……)。渋谷に移動し、ポークビンダルー食べる副大統領でポークビンダルー、¥1,000。テーブルに置いてある茹で卵が無料で1個トッピング可能とのことだったので、割ろうとすると茹で加減が半熟で手のうちで身がくずれ、指先が黄身で染まる。ホワイトシネクイントに移動し、『君と私』を観る。ポスターヴィジュアルがなんど見ても傑作だ。HMV五十嵐大介、冬野梅子の漫画も買う。購入時、レジの荷物置きに放置されていたCHANELのショッパーを店員さんに預けた。また徳を積んでしまった。それにしても、来るたびに本の売り場面積が縮小していて、今回はいよいよ消滅の危機にあるのでは?と思ってしまった。アート・デザイン系のスペース、圧縮されすぎ!

夜はHさんらと忘年会。Qさん、Tさん、Nちゃん、Tさん、Sさん、Mちゃん、Kさん、Oくんと、総勢10名。みじかいあいだだったが、スキンケアの話ができてうれしかった。そういう話ができる友人がいない(いや、そもそも友人とそういう話をしないと言うべきか)。3軒ほどめぐって解散。宿泊はSさんのお家。Qさん、Oくんもいっしょにおじゃまし、Sさんの新作であるGを観る。おもしろい! 怖い! 鑑賞後は、男子中学生みたいな話をしているうちに入眠。

3日目。Qさんとラーメン、¥790。うまい! ちゃん系ラーメン最強! のち、ドトールでお茶。家父長制はクソだぜと頷きあう。同じフロアに一定の間隔で床を踏み鳴らすキチガイがおり、デンジャラスなティータイムだった。店をでたあとは、前橋ウィッチーズのくじを引きに家電量販店などをめぐり、3枚引く。E賞2枚、D賞1枚。バスターミナルまで送ってもらい、家路へつく。




出発前に歳暮でとどいていた三陸産の生牡蠣、消費期限がわたしの帰還日と同日だったのでなくなっているかなと思っていたのだが、封も開かずのまま丸々のこっていたので(手のこんだ料理をするためにキッチンに立つにんげんがわたし以外にいないのでそれはそうなのだが、、)期日を1日過ぎての自己責任牡蠣献立に。半生状態に湯がいた牡蠣にレモン汁、オリーブ油、塩、ポン酢、出汁醤油をかけたもの、その茹で汁で炊いたごはんの炊きあがりに出汁醤油とみりんで煮詰めた牡蠣をトッピング(オイスターソースでやるつもりだったが切らしていた)、小麦粉をまぶして塩バター焼き。どれもうますぎる。腹いっぱいの牡蠣フライを食したい……。

篠澤広生誕ライヴを観ている最中、それを撮影している(という見立ての)カメラレンズの汚れまでも描きこんでいることに気づき、たしかな手わざを感じた。非実在キャラクターに、どのようにして実在性をもたせるのか。

他者につっこみを入れるついった番長みたいなにんげんの、開高健はケンではなくタケシです、というついを見かけ、わたしが吉本隆明をヨシモトリュウメイと読んだ際にタカアキでは?と訂正を入れてきたかつての上司のことを思いだした。ジャーゴンと言われればそれまでだが、文学に少しでも立ち入ったことのある人間ならばタケシだのタカアキだのそんな呼び方しないだろうが!とここまで書いて、めんどうくさいのはいったいどっちなのかと自嘲する羽目になった。



自分を信じるちからのみでこれまで生きのびてきたが、その信がゆらぎはじめている気がする。日々の節々で徒労を感じる。

ギャラの入金がかさなり、ふだん節制して生活を送っている反動か爆買いのモードに突入している。帽子、帽子のクリーニングキット(jason markkのやつ、さっそくつかったがいい使用感、ニャンが豚毛ブラシに興味津々だった)、手袋、本、前橋ウィッチーズ(くじの類を引くのはもうやめようと思った、こころにも財布にもよくない)やガルクラ、学マスのキャラクターグッズ……。かつてよく行っていたブランドの、セールで大幅に値引かれた商品ページを見ていると、べつにそこまでほしくないものにもこれだけ安くなっているのなら、と物欲が湧きだしてしまって困る。すぐ先にはモリサワの更新だってあるのだから、理性を保ち、歯止めをかけなくてはならない。

瀬梨亜、めちゃくちゃいい。今年さいごの新しい出会い。

個人出版のデカ本、梱包が甘く、角折れした状態でとどく。それなりに値が張る本だったのでショックだが、それもまた本の経験する思いでとして受け入れる。わたしもデカい本がつくりたい。いや、デカくなくてもいい。企画しっぱなしの、原稿が書き上がっていたり、デザインさえしあがっていたりする、本たちをかたちにしたい。

ついったで検索した際にひっかかってくる、アフィリエイト収入のためのメルカリbot、ぜんめつしてほしい。



年末恒例(?)、Gにて飲み納め。店に向かう道中、そこかしこに酔っぱらいたちがいて、ほほえましいきもちになる。小雨をものともしない、大小無数のわらい声。店では22時頃から朝の6時前までのんびりとビールを飲む。到着時はぎゅうぎゅうだった店内も、明け方には店主のKさん含め3人に。その減少の過程で、みしったひとにもみしらぬひとらにもよいお年を、といって送りだすうれしさ。わたしとともにさいごにのこっていたのはSさんという、かつて映像ディレクターをやっていた、カルチャーに造詣の深そうなひとで、今年さいごの新しい出会いを得た。

よくねむり、餅用のつゆをつくり、むかほー最新号の推敲。完成後は、年始に会う年長の詩友のために、ここ数年で発表した詩をまとめた小冊子を制作する。途中でワインを開け、チーズやら生ハムやらをつまみながら、掲載順を思案する。そのうちに年が明け、冊子を試し刷りする。年を詩から出発できて、縁起がいい。HDDがぶっこわれたあたりから精神が暗さにつつまれていた気がするが、ようやく前向きなきもちが湧きはじめてきた気がする。

セールになるのを待っていた帽子、深夜に値引きされているのを確認し、翌夕に商品ページにアクセスすると完売している。人気のなさそうなアイテムだったのに(後日、在庫がふっかつしていたので買った、これがユーザーの購買意欲を促すしたたかな戦略か?!)!

新年会。寿司屋にて。今年は参加者が縮小ぎみで7名。わたし以外はみな遠方からの来訪である。途中、手土産に、といわき信用組合のカレンダーを鞄から取りだしたKさんのギャグセンの高さに脱帽。縁起がわるそうでいちどは断ってしまったが、気づいたら持って帰ることに。2次会は恒例のカラオケスナック。ママさんは今年で店を閉めてしまうそうだ。会の主催であるKさんもそんな時期が来るのだろうかとさびしくなる。場をあたためる生前生みだされた曲たちにまじって、わたしも何曲か歌う。さわって・変わって、ボーイズ&ガールズ、メリッサ、宇宙刑事ギャバン。年長者と行くカラオケの選曲のむずさよ、、(かろうじてOさんにメリッサが伝わった、ギャバンでどうにかなれと思ったがもっと古い曲でないと通用しないのであった。

ホテル前でみなと別れ、さいごMさんとふたりきりになった際に観光客の話になり、会の始まる前にも聞いたなと思いながら酔った耳を傾けていると、「台湾のひとは中国や韓国のひとたちとちがってあまりうるさくなくて〜」みたいなソフトレイシズムを浴び、苦笑い。「ふつう」に生きているとうっすら差別主義的になってしまうのだろうかとかなしいきもちになりながら帰宅する。

ニャンを背と腹に一匹ずつくっつけて横になっていると、わたしはサンドイッチの具になった気分になって「ニャンドイッチだ〜」と心中で思いを募らせ、そのまま夢に入る。