まあるいひかりを浴びている

在宅勤務が命じられた。己の欲望のままに翻訳すれば本を読めということだ。本棚を埋め尽くす積み本をくずしてゆけということだ。ということでしばらく読書ブログとして魂を入れ替え、読むことに本腰を入れてゆくことにする。いや、中腰くらいかも。ていうか、こういうこといいだすから何も書けなくなるんだよ。自分の言葉で自分を規定しちまうんだ(しるか! くそくらえ!


f:id:seimeikatsudou:20200330135354j:plain


1冊目はアメリカの作家ジョン・バースの『旅路の果て』。白水社、原著は1958年刊、改訂版が1967年にでており、本書は原著を踏まえたうえで改訂版をもとに訳出されている。訳者は志村正雄。3作目以後はポストモダン全開になるそうだが、長編第2作となる本作は、リアリズムに基づいた思弁的対話劇で、主人公である躁鬱病の英文法教師が、独自の哲学をもった聡明でマッチョな同僚と、その愚鈍で従順な妻とのやりとりのなかで生じるいくつかの出来事を、持ち前ののらりくらりとした態度で受け止めていきながら自らの位置を確かめてゆく物語だ。今年読んだなかでも一二を争う名書き出し「ある意味で、ぼく、ジェイコブ・ホーナーだ。」から幕開けて、上述の主要3人のほか、マッドな主治医やプライド高きヒステリックシングルウーマンも交え、とにかくしゃべくりまくる男と女たちが、観念的なインテリジェンスをもって活写される。そんななか、徹底して受動を貫くジェイコブが自らの意志を行使する場面は、その切迫性もあって、そして結末の不吉さをはらんでいる所為もあって、ひとつの山を成している。主人公ジェイコブが軽薄そうでいて、語られることは理知的なので、ふしぎな読み心地だった。途中にでてくる英文法の話なぞは読み飛ばしてしまっているのだが、わかればもっとたのしいのだろうな。またタイトルからはロードムービー的な印象をもっていたのだが、内容はとくにそういうわけでもなく、ウィコミコ(かわいい地名!)の学芸大学に赴任してから去るまでの短い季節が描かれている。

いったんやってしまったことは、やってしまったことでしかたないが、過去というものは結局のところ、現在それについて考えている人々の心のなかにのみ存在する、ということは、これを考えている人々の解釈に依存しているということだ。その意味において、過去を何とかする(﹅﹅)のにおそすぎるということはけっしてない。(ジョン・バース『旅路の果て』)

いいこというね。

言語表現! これだ、ジョーよ、もしぼくにも絶対がありうるとすれば、これこそぼくの(﹅﹅﹅)絶対だ。少なくともぼくに考えられるかぎり、何らかの頻度をもって、ひとが通例自分の絶対価値に対してもつような感情を、ぼくがもっていた唯一のものだ。経験を言語に変える──すなわち、経験を分類し、範疇化し、概念化し、文法化し、構文化する──これは常に経験を裏切ること、偽ることだ。だが、こうやって裏切ることによってのみ、経験というものは処理でき、こうやって処理することによってのみ、ぼくは生きて活動する人間を感じたのだ。(ジョン・バース『旅路の果て』)

上記は「換言すれば、もちろん、ぼくは、こんなことまるっきり信じていない。」と数行おいて否定されるが、こうしたニヒリズムが本作には通底している。本作にはふたつの極のなかで引き裂かれる自己が刻印されている。


次いで読んだのはオーストリアよりペーター・ハントケ『不安〈ペナルティキックを受けるゴールキーパーの……〉』。三修社。原著は1970年刊。訳者は羽白幸雄。2019年のノーベル賞作家で、これも不確からしさの話だった。目についた何ごとも確認しなければ気がすまない、一種の強迫性に取り憑かれた主人公ヨーゼフ・ブロッホが、こともなげに殺人を犯し、とくに逃亡や隠滅も試みぬままに酒を飲み、新聞を読み、フリカデレとソーセージを食い、国境沿いの街をやたらめたらに歩きまわる徘徊小説。手当たり次第に女に声をかけ、会話にならない会話をしていると、それがとくに何かに発展するわけでもなく、もろもろのディテールに着目せざるを得ないブロッホの異常さがあらわになっていくさまがたのしい。副題にある「ペナルティキックを受けるゴールキーパーの……」にも象徴されているが、たいそう隠喩的な記述にみちており、いちいちを読み解いてゆく愉しみもあるだろうが、そうした探偵的読解はほかの誰かに任せたい。そんな読み方でいいんだろうかとぼやくわたしもいるが、いいのであるといいきりたいわたしもいる。読むことの恣意性をもっと信じたい。とにもかくにも「不安」の2字がでかでかと印字された表紙がサイコーである。

税関所の窓はあいていたが、部屋のなかをのぞき込むわけにはゆかず、外からでは室内は暗すぎた。しかし内からはブロッホの姿が見えたにちがいない。通りすぎる際に、彼自身が息をのんだことでそれが分る。窓が大きく開いているにもかかわらず、室内に誰もいなかったなんてことがあり得るか? なぜ〈にもかかわらず〉なのか? 窓が大きく開いているから、部屋には誰もいなかった、なんてことがあり得るか?(ペーター・ハントケ『不安』)

あめんぼう(﹅﹅﹅﹅﹅)があちこち走りまわり、その上に、頭をあげるまでもない高さに蚊の群れが見えた。ひとところ、水がほんの少し渦巻いている。魚が水中から跳ねあがり、またも水音。水ぎわでひきがえる(﹅﹅﹅﹅﹅)が重なり合っている。一塊の粘土が岸から離れる。するとふたたび水中いたる所でぶくぶく泡立ちが起る。水面のこれらのささやかな現象がとても重大なものに思われて、それが繰り返されるたびに、それをまのあたりに見ていながら、しかも同時にすでにそれを思い出しているほどである。(ペーター・ハントケ『不安』)

正常(とされる)な認識は、作中つねに崩壊の状態にある。しかし、そもそも線的-因果的な論理は正しいものなのか? そんな風にわたしたちはものを見、選択し、思考しているのか? ひとはふりかえってはじめて自らの行いを論理づけることができるのではないか?

彼の話し相手になった人々の唇の動きは、彼がその人たちから聞いた事と一致した。(ペーター・ハントケ『不安』)

逆説的に導かれる、唇のうごきと聞いたことが「一致しないこと」!

次回はもうちょっと自分にひきつけて書くべきではないか、とどこか他人事な上記のテキストを読み返していて思う。読むことはどこまでいってもひじょうに個人的な体験なのだから。