切除的判断

3月末なのに積雪する東京、15時頃でっかいホットケーキを焼いて紅茶をたしなみながら夜になるまでだらだらティータイムをする。ペーター・ハントケを読みながら、朝からずっとシャッフル再生、時折ベースを爪弾いて、布団の上でおどったりもする。以前フライパンを削っていた際にできた指先の水疱がいちどは消えたはずなのにまた復活していて、ゾンビのようだと思う。ひとがゾンビから人間に戻ったあとの話『CURED』を観に行かねばとも。通信制限になってしまって調べるのが面倒なのだが、今後映画館は開館するんだろうか。海外の状況を見ているとこんな甘ったるい考えなんて早々に唾棄せねばならないと思うのだけれど、根がのんきなおれはそんなことを考えてしまう、臨時休館のまま会期の過ぎた展示は延長するんでしょうか、行きたいライヴもこんな状態ではチケットを買う気になれない、オウガ、バックホーン、サンディアレックスジー、エイミングフォーエンリケなどなど、いよいよプロモーターや箱が本格的にヤバいのではと思う。アラバキもむりだろうなあ……

シャッフル再生しているとたいして聴いてなかった良曲が発見され、ライブラリに追加したばかりの名前と曲が一致しないバンドに対しても認識や愛情が深まる。基本的に起きてから寝るまでずっと流しっぱなしなので、いちにちの大半を読むと聴くで占めている。書くもがんばろう。投稿はおえたので酒を解禁している、そもそも土日だし、ウォッカが尽きたので買い出しに行かねば、近隣スーパーはたしかに人手が多くて品薄になってはいたが、食べ物に困ることはなさそうである。これも甘い見通しでしょうか。甘々人生エブリデイ。

漫画の編集作業というかつてひじょうに憧れていた業務にたずさわっているのだが、そこまできもちが高揚しないのは題材的問題だろうか。好きな作家あるいは自分が見いだした作家といっしょに作品を手掛けることができたらどんなにたのしいだろう。むろん、いまやっているものも、関わるからには優れた作品を送りだせるよう努めたいものであるが。黒田硫黄『茄子』や横山光輝三国志』、庄司創勇者ヴォグ・ランバ』などを読み返す。おもちれー。


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わたしが何かしら考えていたことが、わたしのうちに保存されているだけでは、その考えがあることの証明にはならない。それを認める他者の存在があってはじめて、そこに有の字を付すことができる。認めるためには何らかの媒体に転写あるいは記録しなければならない。その際に起こる書き損じや写し漏れをいかに少なくできるか。ここが第一の難所である。また、わたしの書いたものは「わたしのいちどは考えたこと」ではあるが、そのすべてが「わたしの考え」と一致するわけではない。そうでなければすべてのフィクションは作家の告白に過ぎなくなる。おお、愛すべき私小説! さらにその記録を見る/読むひとに対して、いかに伝わるよう回路をこしらえることができるか。ここが第二の難所である。この難所をめぐる、伝えるための意識とはべつに、すでにそこにあるものごとに対して、受容者は発信者の意図など一切無視してよいのだという態度がわたしのなかに両立している。自分のなかでさえこうなのだから、唯一絶対の正解的コミュニケーションなど成立するはずがない。これは結論でなくて前提である。なんども確かめなおす地平である。そして、第零の難所は考えることそのものである。ここでいう「考える」はその先に端緒としてある「感じる」もひっくるめての考えるである。鈍麻しきった感性と、周回遅れの知性が腕を組んでひねりだした「考え」など、けわしい山道をきりひらいてまでだれかにとどける必要があろうか。必要性などくそくらえ!もひじょうによくわかる。おれだけがおれだけがおれだけがおれだけがシドバレットの隠れ家をしっているのだ。わたしはあなたのためのわかり手でありたい。

カルディに売ってるヤマキのももプリン、めちゃうまい。