ポーンのみちびき

ポリコレはろくでもない、との考えかたがつよまっている。「それはそうだが」の自覚のうえで、つまりは「あえて」の精神でものをつくり、ものを見る。アイロニーが通じない世のなかになっている、との声を耳にしたり、わたし自身もそう考えたりすることが多い。そもそもひとは皮肉がわからず、SNSがそれを可視化しただけだという見方もできる。そうした環境でポリコレがはびこるのは納得がいく。ひとつのフォーマットにすべてをつめこみ、その基準に沿わない異物は排除するのは楽であるから。この画一化の徹底された状況が、よい作品を生むための土壌になるとはわたしには思えない。わたしはフェミニストであり、アンチセクシストだが、そのことがポリコレに抵触するものすべてを断罪する審判者であることとイコールでむすはれるわけではない。批判の声の多様はあっていいが、それが表現の芽を潰すものになってしまってはならないのではないか。「ヒドいもの」を「ヒドいもの」とカッコでくくって見つめること。ここで欠缺がある話をしている自覚はあるが、とりあえず考えるための土台に鋤を入れておく。

Qさんとふたりで湯屋へ行き、汗を流す。水風呂が効く。その後は買い出しに行き、出張居酒屋ぢるちゃんが暖簾を掲げる。トマトとオクラの冷奴。アボカドとトマトの梅昆布醤油漬け。アジのなめろう。枝豆。そせじとポテトのチーズ焼き。Mさん、Tさん、Mさんもやってきて、差し入れの江ノ島ビールも飲みながらみなでわいわいする。愉快だ。またもわたしは早くにダウンする。

ダラダラする。ひき肉とチーズのおばけ改をつくって朝食にする。長ネギとオクラを具材に、スパイス類が増えていたのでクミンやナツメグを足す。ダラダラする。映画の予約やいまやっている展示の下調べなどをし、明日以降の予定を立てていく。太陽が傾いた頃に買いだしにゆく。おれたちの全肯定ストア。

夜、味噌マヨきゅうり、ちくわきゅうり紫蘇ごま油和え、キムチ、舞茸とベーコンのカルボナーラ。Sさん、Kさんらとともに。空が明るくなるまで、詩と映画と音楽の話をする。こんな経験、しばらくなかったので、すこぶるたのしくなる。三者三様の自作に対する考えかた。

シネクイントでエメラルド・フェンネル『プロミシング・ヤング・ウーマン』とエリザ・ヒットマン『17歳の瞳に映る世界』。客入れbgmがalvvaysでブチ上がる。感想はまたあらためて書きたい。どちらもパルコ配給のいい2本立てだった。濱口竜介寝ても覚めても』と三宅唱きみの鳥はうたえる』のとりあわせのような。


f:id:seimeikatsudou:20210810101140p:plain
413


濃厚接触者になる。PCR検査をする。結果は明日か明後日にでる。都の切迫具合が看護師との会話のなかで垣間見える。報道以上にげんじつはくるしい、と思う。いまのところ、わたしはまったくの無症状である。

夜、卵入り豚キムチ、朝、カレー風味舞茸入り焼きそば、夜、タコライス、朝、ひき肉ピーマン玉ねぎ小麦粉を青とんポン酢でどうこうしたものオンザライス。タコライスがQさんの絶賛を得る。ひき肉玉ねぎ青とんを塩胡椒・にんにく・ナツメグ・シナモン・ケチャップで炒めたもの、アボカドトマトを塩胡椒レモン汁で和えたもの、シュレッドチーズをパイルダーオン。よくできました。ごはんを食べ、よくねむり、すこやかになりたい、病院から電話がかかってくる、結果は陰性、おれは健康体、おれたちは健康体、東京滞在が倍以上にのびることになる、愛とウイルスただよう閉ざされた空間のなかで、おれは同居人たちを被写体に写真集をつくろうと決める、

固有性の剥奪。普遍性の獲得のために、そのもの独自の特質を省いてしまうことの功罪。今日マチ子cocoon』への批判的なついを目撃してそんなことを思った。わたしは漫画も、それをもとにしたマームとジプシーの演劇もすばらしい作品だと見なしているが、その沖縄の表象のしかたに疑義を突きつけるひとのきもちも慮ることができる。同時に、cocoonの眼目は戦後7X年を生きるわたしたちと、沖縄戦を生きた少女たちが何も変わらないことを描くことにあるわけで、その重きの置きどころを考えれば少なからず「そうなる」ことは避けられないのではとも考える。両立も可能だろうとの声に首を横に振るつもりもないが、とはいえその一点で作品がくつがえるほど本作はやわなものではないとも主張したい。これは本記事冒頭のポリコレへの疑義に通じる話かもしれない。

cocoonといえば、昨晩Qさんとインターネットを介して観た演劇のなかで、とても藤田演出的な芝居をするひとのすがたを見た。「泣き声」によるエモーションの炸裂。彼らの代名詞であるリフレインはべつの箇所でもちいられていて、それはとくにマーム的ではなかったが、この悲哀性を帯びた発語はマームのネームタグがつけられていたように思った。ほか、身体をうごかす演出がおおかったのだが、身ぶりに対してからだの軸がぶれない役者がひとりいて、ひじょうに魅力的だった。