侘しい指の貫きたる

3月上旬、ひさびさにスマホゲーをインストールしてしまって3週間ぐらいまいにち遊んでしまう。もう離れてずいぶん経つけれども、わたしはminionsというブラウザゲーが大好きで、システムがそれに似ている。いわゆるMOBA、Multiplayer Online Battle Arenaというジャンルである。AppleMusicでアルバムをダウンロードしまくっていたらデバイスの容量が尽きそうになったのでアンインストールする。切羽つまらないとやめられないのである(大してつまってるわけでもあるまいに)。けっきょくは何にもならないことをしっているのになぜやってしまうのか、、昼夜指をぽちぽちしていたずらに時間を失っていくばかり、、その場の快楽に身を委ねるな!


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自分の身にふりかかるものごとだけが思考の端緒となる。逆にいえば、自分から遠いものごとに対する想像力はきわめて貧弱だ。その距離を埋めるために、わたしたちは言葉や映像、写真や絵、あるいはひとそのものといった、記録物に目を向ける。時空を超えて伝達できる、メディアのちからをそこに見る。その際生じる定形化へと向かう運動と、その外へと向かう推進/抵抗力を同時に飼いならすこと。つまりは、あいだにとどまりつづけること。「あいだ」が重要なのと同時に、この「つづける」が問題なのだ。すべてにおいて、永続は不可能なのである。できうるかぎりそれを持続させるために、自らの土俵でたたかえるように手はずを整える。そうした小手先だと唾棄したくなることらをいちどは抱きしめてやる余裕がまだあるか、まだあるのかい?ときくひとの額には脂汗がにじんでいる。

暴力革命しかないという事実が、ここさいきんの情勢下において表面化している。疫病は革命のための素地のひとつである。ネチャーエフの『革命家のカテキズム』が端的かつ優れた革命主体の輪郭を描いているが、その描線はあまりにもラディカルだ。しかし、そのはげしさをもってしなければげんじつは破られない。この醜悪な事態に際して「今度はちゃんと投票に」だの「意見を官邸へ」だの学級委員的態度を表明しているだけでは何も始まらない。すでに敷かれてある現行の制度におさまっているかぎりは何も変わらないのだ。厚労省の看板に墨汁をぶちまけた老夫の報道があったが、こうした暴動こそが数少ない希望であり、「ふざけるな」「お前もこの事態がふざけてると思わないのか」の叫び/呼び声ではないか(とはいえ、その担い手が若者ではなく70半ばの老体であるということが、この国の如何ともしがたい暗さである)。

我々の目的は、大衆、すなわち、肉体労働者の完全なる解放と幸福にほかならない。 この達成は一切を破壊する人民革命の結果としてのみ可能であると確信している。ゆえに、我々は最後の忍耐が尽きて総蜂起に追い込まれるまで、人民の悪意と苦難を増大および激化させるためのあらゆる資源と力を行使する(ネチャーエフ『革命家のカテキズム』)

夜の2時3時になってくるとようやく本を読まなくちゃというきもちになってきて、廣瀬純『シネマの大義』をパラパラめくる。図書新聞無料化でバックナンバーも漁っているのだが、廣瀬純はほんとうにおもしろい。跳躍する脚力も、接続し、切断する腕力も、それを司る知力も、抜群すぎる。先に述べた暴動の話にもつながるが、このインターネットの辺境に書きつけられた雑文を読んでいるあなたもこの廣瀬純と小泉義之の対談をまずは読んでほしい。松本俊夫と並んでわたしに影響を与えつづけてくれる大きな存在である。

今月は投稿を済ませるまで酒を断つ、少なくとも平日は断つ、なぜならば飲むと寝てしまうから、、そう決心して四日目、めちゃくちゃ酒瓶に手がのびそうになるまだ耐えている。スーパーでは買占めがはじまっているという。ここは世田谷区、いまだにトイレットペーパーが買えない、つまりは暇を持て余したボケ老人たちの住まうところ。見に行くまでもなく食料品が品薄になっていることがわかる。あほらしいな。それはさておき、おからパウダーはマジで人類の発明じゃないか? 常備しようと心に決める。