富野由悠季『∀ガンダム』47-最終50話。ソシエ、、とにかくソシエ・ハイムに思いを馳せる。おれはソシエ・ハイムのためにものをつくろうと決めた。この世に生きる、あらゆるソシエ・ハイムのために……これまでずっと諌められる側だったソシエが、ジョゼフを諫めるすがた、これまでずっと想いつづけていたロランを、最終決戦のあとにたったひとり迎えにいくソシエのすがた、姉のキエルとディアナが仲良さげに会話する横で、座席を運転席側に移動して用もなくロラン、と声をかけるソシエのすがた、とめどなく涙をこぼしながらロランとキスをするソシエのすがた、自転車で山を駆け下り、ロランの思い出の品である金魚のおもちゃを川に投げ捨てて叫ぶひとりぼっちになったソシエのすがた。50話という「歴史」とともに生きたことの厚みが、そのそれぞれに深いかげをつくり、それがそのまま、わたしに刺さるするどさになる。劇場版はソシエのことを考えながら観ようと思った。
再登場の魅力について『クイーンズ・ギャンビット』を語る際に触れたことがあったが、本作においてもそれはよく機能していて、ディアナのもとに帰順する地球組のディアナ・カウンターの面々や、改造機で特攻をしかけるコレン・ナンダーの「勇者」ぶりは、観ていてきもちが高まるものがあった。また、最終決戦のハリーやギンガナムらの活躍ぶりをながめ、「わけのわからない台詞をいいあってたたかっているさま」がわたしは大好きなんだなあと思った。これはわたしが富野作品を好きな最大の理由かもしれない。既成の枠組みを逸脱した、独自のコミュニケーションがここにはある。それは、詩的言語の交通と言い換えてもいい。つまり「愛の可能性を最も短距離に結ぶ滴り」(岸田将幸)である。
49話「月光蝶」において、これまで礼儀正しい人物として描かれてきたロランが、自らの子を身篭ったフランを残してヒロイズムに生かん(死なん)と単騎出撃するジョゼフに対して「馬鹿野郎が」と汚い言葉を吐くすがたも印象的だ。戦争がそんな「お遊び」でないことを、宇宙での戦闘を経験し、自らの手で人命を奪ったロランはしっている。一方のジョゼフが地球残存組であったことも効いているすぐれた場面だ。
エピローグのキスシーンについて、何よりも刮目すべきなのはディアナをその後景に置いていることの凄みだろう。目を背けさせているのも泣かせるというか、そこで起きていることの複雑さを増幅させていて、ひじょうに印象的だ。画で物語るとはこういうことだと唸らせられる。姉キエルとしてずっとソシエのそばにいたディアナは彼女のロランに対する思いをもちろんしっているだろうし、そんなふたりのあいだを裂くような自らの行いの残酷さもじゅうぶんに理解しているだろう。別れのあいさつの場面で、自らは表にでずに車のなかで待ち、わずかながらもふたりの時間を設けてやる「やさしさ」のしぐさのひとつとしての「顔を背ける」。ここに走り去っていく車に「背を向けている」ソシエのカットがつながれるのもキレている。おれはつらい。頰を涙がこぼれる。シーンを見返してみると、ロランからソシエに顔を近づけている。そうだよな、ソシエから近づけることなんてできないよな。きっと、ちゃんとした告白もしなかった、できなかったのだろう。おれはつらい。胸が痛い。ここに台詞はない。芝居が、画が、すべてを語る。エピローグ全体を通して台詞がほとんどないことが、シーンにより強度を生んでいる。「ディアナさま。また、明日」。余韻の深さはこれまで観てきた富野作品で随一かもしれない。「月の繭」!
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リドリー・スコット『レイズド・バイ・ウルブス』1-2話。「エイリアン:アイソレーション」の実況プレイ動画を見てふくらんだエイリアン観たい欲を契約している配信サービスでは解消することができず、それが作家に転化して観ることとなった。あんまりおもしろくない感じ。imdbで7.6ってマジ?みたいな。そもそもの視聴者層とのズレを感じる。妊娠のアウトソーシングという想像力、まぶたをブチるアクションなんかはいいなと思ったが、大味の画づくりの連続で観ていてちょっと倦むものがある。テラフォーミング×創世記の世界観は『シルバー・グローブ』のことを思いだしたが、あちらのほうがずいぶんと好みのつくりだった。これからおもしろくなっていくのだろうか?