ジャネット・フレイム『潟湖』を読みおえる。言語芸術の自由さにまずたのしい思いがした。ラジオでも話したことであるが、たとえば、「煮たカブを食べるいとこたち」の以下のような場面。
ドットおばちゃんは大柄で、息がつまるほどたっぷりした茶色の目と髪をしていた。かごみたいな靴をはき、正面にさくらんぼのついた帽子をかぶっていた。おばちゃんが頭を動かすたび、さくらんぼはぴょこぴょこはねた。ねえドットおばちゃん、おばちゃんのさくらんぼ。ほこりをはらっておいたよ、取れそうだって言おうと思ったんだけど。ありがと、お利口さんね、落ちたのに気がつかなかったわ。
地の文のなかに会話文が混じり、なおかつそれが複数人ぶん入りこんでいる。たかだか4-5行の範疇で、このように自在にテキストの発される所在地をうごかすことができるのは、それがテキストであるがゆえである。あるいは「ドシー」の書き出し部分。
踏むのは影だけね、とドシーが大声で言いました。まっすぐな金髪の小さな女の子たちも、踏むのは影だけ、とおうむ返しに叫び、二人はうんと気をつけてぴょんぴょんはねたりスキップしたりして三ブロック進みました。
第1文で「ドシー」という女の子の存在が明かされ、第2文では彼女の大声を聴く「小さな女の子たち」のすがたもあらわれるのだが、その直後に「二人は」とでてくるので読者は混乱することになる。「おうむ返しに叫」んでいるのは「女の子たち」なのだから、ここには少なくとも3人のガールがいるはずなのだが、なぜ「二人は」なのか。「三ブロック進」んだのはドシーの声を聴いていた「女の子たち」2人だけなのかと次の行を読んでみると、「そこで疲れて、そして忘れてしまい、角の垣根のすきまからマリゴールドを摘もうと立ちどまりましたが、ドシーにしか届きませんでした」とあるので、その線はない。たった2行のうちに人間の数が1人から3人以上になったかと思えば2人になることができるこの自由さ。文章っておもしろいなあと、単純にたのしくなります。ラジオでは明かしてしまいましたが、ではいったいここには何人の女の子がいるのか、というのはぜひ本書を手にとって確かめてみてください。
ラジオで触れていないよかった箇所にも言及しておくと、先に挙げた「煮たカブを食べるいとこたち」のラスト付近、煮たカブがきらいな主人公が、これまで「どうしても理解できなかった」いとこたちと食卓を囲んで「煮たカブを食べた」晩の会話。
夕食のあと、私はメイヴィスに言った。あたし、新しい寝巻きを持ってきたの、ふかふかの裏地がついているのよ。寝るときにはひらひらのついたガーターをドアノブにかけるの。うちには牛がいるんだよ。うちの物干しはここのと違ってくるくる回らないの。この言葉の意味、知らないでしょ。そしてメイヴィスの耳にある言葉をささやくと、知ってる、と彼女は言った。あたし、言葉をたくさん知ってるんだから。
メイヴィスと私はすごく仲よしになった。
コードの共有化である。「とても身ぎれいでおとなしくて」「汚い言葉を使ったり駄洒落を言ったりもしな」い、「私」とはまったくちがう生活をしているいとことのあいだで、合言葉が交わされる。それが通じあったことを合図に、私はいとこと「すごく仲よしになった」。なんと感動的な光景だろうか。つまりは「『アメリカ映画は見たことがないの』とわたしは答えた。すると、アンナが軽蔑したようにわたしの顔を見たので、『タルコフスキーの映画が好き』と言うと、アンナの態度が急に変わって、熱い友情に満ちた表情をわたしに向け、最後にはアイスまでおごってくれた。(多和田葉子『旅をする裸の眼』」みたいなことである。リンギスのいう「共犯者」の発見。こういう出来事を、わたしは人生に追いもとめている。
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ラジオ。それなりに密度の高い放送ができた気がする。テーマを事前に割り当てることができたのがでかい。これは今後もつかっていきたい。はじめる前は90分におさめようと考えていたのだけれども、けっきょく120分くらい話していた。ひとが来なくてもちゃんとしゃべれるようになったのもでかいのでは。
ブログに「富野作品マラソン」のカテゴリを新たに設け、通覧しやすくする。こうやってふりかえってみると、この間にも「書く」意識がずいぶんと成長したのだなと思った。はじめに観たダンバインなんて何もいってないに等しい感想ばかり。観てきた5作品(ダンバイン、エルガイム、イデオン、ザンボット、ターンエー)のなかでは、いちばんよい出来だと思うのだけれども。強度としては、ザンボット。好きなのはターンエー? イデオンは劇場版を観たらまた評価が変わるかもしれない。エルガイムはロボデザNo.1。