ペロポネソス、ペロポネソス、

吹雪! パジャマの上に防寒着を羽織り、雪をかく。顔面に粉雪が襲いくるなか、数キロあるいは数十キロの固形化した雨をシャベルで方方へと片づけてゆく。しばらく作業したのち、家に入り、昨日ののこりで朝食とする。

昨夜は『ソフィー・マルソーの愛人日記』、今日の昼は『シルバー・グローブ』を観る。ズラウスキー強化週間もこれでおわり。まずつい。

ソフィー・マルソーの愛人日記、ジョルジュ・サンド家に集ったドラクロワ、小デュマらブルジョワジーと、異形の精霊たちの馬鹿騒ぎのさなかで、病に蝕まれながらも作曲をつづけるショパンと、彼をめぐる母娘の対立が描かれる。監督の愛憎入り交じった波蘭史も投入され、すべては人形劇となって終幕する

シルバー・グローブ、おぞましき「現実」から逃亡し、惑星〈銀球〉へと漂着した人々が、産めよ増えよで地をみたし、神としてすべてを映像に記録しながら、あそこ/ここの往還のなかで破滅に至るまでを描くズラウスキー版創世記。観念の充溢する怒涛の絶叫に反した、失われたフィルムを補う「現実」が◎

前者については、わたしにクラシックに対する素養も敬愛もないために、十全に作品を受容できたかと問われれば自信がないのだが、こうしたノリの作品を撮るのであればベルイマンに軍配が上がるのでは、と『ファニーとアレクサンデル』や『夏の夜は三たび微笑む』などを想起しながら思った。母娘のバトルものという点でも、『秋のソナタ』を観てしまったあとでは、どんな作品も劣って観えてしまうなと素朴に感じた。食事のシーンなどは『COSMOS』に受け継がれている感じもあり、通し観のたのしさを味わった。「汗」というプロレタリアの証や、「各人はその能力に応じて〜」(作中ではルイ・ブランの言葉としてあらわれる)などマルクス主義的な思想性も投入されていたり、何の説明もなしに「背後」に異形の者たちがうごめいていたりするさまも心惹かれた。このbackgroundは、劇中ほぼ鳴らされている「音楽」の暗喩としてもとらえられるのでは?などとも思った。ショパンの故郷であり、ズラウスキーの故郷でもあるポーランドへの愛憎もつよく投影されていて、ポーランド史への興味が湧いた。以前ポーランド映画祭に行ったときのパンフが段ボールのどこかにしまってあるはずだが、いったいどの箱に収まっているだろうか。

一方後者は、165分にもわたるハイカロリー創世記的SFになっており、どちらかといえばひきこまれて観た。にんげんに絶望した人々が、ユートピア(あそこ)を求めて異星(ここ)に逃亡し、そこで文明(ここ)をつくり、原住民(あそこ)と闘争するというのがおおまかなストーリーラインとしてあるのだが、その過程で「現実との闘い」というのがテーマとして浮き上がってきて、これはこれまで観てきたズラウスキーの作品に対してもいえることなのだった。ろくでもない現実に対して、どのように対峙し、いかにして対処するのか。『悪魔』では目のまえのそれに対して容赦なく剃刀をふるい、本作では「なぜ私はお前を理解できぬ?」と禅問答をくりかえす。『ポゼッション』ではそもそも監督の離婚体験が色濃く作品に反映されていた。ズラウスキーの映画は、この「現実」──つまりはわれわれが息づくこの世界であり、作中で監督のナレーションとともに画面にあらわれる「現代」──のクソさを告発し、すさまじい混沌のなかで破壊させるものとして撮られているのである。

ナマハゲのような銀球人の風態や、白塗りに黒いマントを羽織った大野一雄を彷彿とさせる舞踏的人物など、日本文化の影響も感じるキャラクターデザインや、青緑を基調としたカラーグレーディング、タルコフスキー的世界をも想起させる巨大なセットと見どころは数多くあるが、やはり画をみたすきょうれつなイマジネーションの連続が本作の強度の根幹にはある。奇怪な鳥人たちとトライバルな衣装に身をつつんだ銀球人たちの「非アクション的」な戦争、砂浜に立ち並ぶ裸の人間たちが串刺しになった巨大な杭の林、見渡すかぎりの草原のなかに突如あらわれた改造アメ車が世界観にそぐわぬハードロックを鳴らしながら爆走していく……。観念的な台詞の波に脳がついていくことができなくとも、ただ画面に展開するそのヴィジュアルを観ていればいいのだと、それらのシーンたちは口々に呟いているようだ。

また、ズラウスキーには「出産」と「螺旋階段」に対するオブセッションがあって、本作でも両方の要素が扱われていたことも書きのこしておく。どの映画においても、前者を描く際には明確に「ホラー」的に描いていて、つまりそれは「誕生」という行為のおそろしさを視覚化しているのではないかと思った。死だけではなく、生もじゅうぶんにおそるべきものなのだと、現実/世界の「醜く歪んだ」さまを認識しているズラウスキーは執拗に宣言をくりかえしているのだ。鏡に投影された「わたし」が、わたしがこの「世界」のdirectorであると告げるラストシーンの切れ味は、むろん、「悪魔の剃刀」と同等である。


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アート屈指の名盤『LOVE/HATE』をかけながら、ロベール・ブレッソン『彼自身によるロベール・ブレッソン』をひらく。「もしできることなら、お金と利益、戦争と恐怖のうえに成り立つ破廉恥な社会を拒み、無為のうちに一種の救済を探し求める少年や少女たちの自己犠牲を描いてみたかった。しょっちゅう、そうした若者たちのことを考えています」。めっちゃええやん、と思う。もうずいぶん前から「モザイク」の終盤にくりかえされるフレーズ「君を失くしたんだ」が、「陰毛next standard」に聴こえるし、「イノセント」の「I'll fall down with you」は「アンポンタンのよう」に聴こえる。

夜、ブリと玉ねぎのガーリックトマト煮。これまでぶりは照り焼きかぶり大根かみたいなところがあったので、ちがうやりかたを試した。うまい。玉ねぎをでかく切り、その歯応えをたのしむ。

29地図の『シルバー・グローブ』回を聴きつつ、ブログを書く。ポーランド演劇の話に興味が湧く。東欧、旧共産圏、ひじょうに興味がある。それに加えて南米、北欧、中東は生きているうちにその地を踏みしめたい。