切りだされた余命

あなたはあと1ヶ月で死にますとなったら、しごとなんてすぐに辞めて自らの作品を残すことに全力を注ぐだろうと思う。何に自分の人生を懸けたいかといわれたら、やっぱり作品なんだな。いまのしごとは自分にとっての作品になり得ないんだよな。それが問題なんだ。具体的には、1冊目すら刊行できていない詩集をもう1冊編んで、書きかけの小説にケリをつける。あとに残されたひとに2冊まとめて出版してもらう。でも、いま書いている小説が最後の作品かと思うとぜんぶ丸めてゴミ箱に投げいれたくなる。どうしたってちんたらしてしまう小説じゃなくて、垂直に切り立った詩を書きたいんだなあ。こうやって書いていくことで自分の考えていることがわかるようになる。1ヶ月はあまりにも短すぎる。

いわゆるひきこもり状態にあるわけだけれども、自家中毒に陥りそうである。ものをつくるのも考えることも孤独な作業であるが、そこからは先人の足跡や格闘の跡を眺めることができ、その基層があってはじめてわたしたちは手をうごかすことができる。いや、そんなことがいいたいのではなく、わたしの一時的にたたきだす結論に対しての他者からの棹が必要だと思っているのだ。ひとりでいる時間が長ければ長いほど、考えは凝り固まる。そこにあぐらをかくようになってしまってはおわりである。まちがいをおそれるきもちを押し殺して、思考はつねに脱皮させてゆかねばならない。なんどだって切り崩してゆくのだ。


f:id:seimeikatsudou:20200330130324j:plain
ハントケを読んでむしょうに食べたくなったフリカデレ、でかくちぎった食パンとクミンが効いていてちょううまい、これをつまみに今日は朝から酒です


自己同一性なんてものは信じるに値しないものかもしれないとさいきんの読書を通して思う。論理的一貫性を保持しようとする姿勢は重要だが、その実現の至る先は倫理同様死でしかないだろう。そんなものを前提にしようとするからわたしたちはすれちがうのだ。多面体、否、ぐにゃぐにゃの無形物としてのわれわれ。

1冊の本に集中しないで読む。今日はマウリツィオ・ラッツァラート『記号と機械』と廣瀬純の『蜂起とともに愛が始まる』『暴力階級とは何か』をパラパラ読みかえしたのち、酒井隆史『暴力の哲学』、小山田浩子『穴』、小田久郎『戦後詩壇私史』あたりに手をつける。さいごの本には木村毅というひと(文学をちゃんとやってるひとはしっているのでしょうが、ぼくはこのときはじめてしった)がでてきて、なんと読みがキムラキなのである。感動した。キ。一字の名前、かっちょいい。こういうことを書いて残しておくといいんだなあといま思った。

コロナ禍において息抜きのスナック菓子のように消費される「俺はコロナだ」「コロナビーム」といったおじさんたち、大いに結構ではないか。これは闘争である。国家による統治に対する、抗いの叫びである。