われわれの非対称を見つめることのできるひとびと

「本当にコロナが憎いですね。。」。故志村けんの誕生日にかこつけてそうつぶやく、まあまあおおきなインターネット映画メディアのすがたを見ました。こうした言説は、わたしのまわりの生身のにんげんの口からもききましたし、ついったなどのSNS上でもたびたび見かけてきました。コロナを対象とした怨嗟、というよりもコロナに対して憎悪をぶつけてしまう思考のフレームをどうにかしないかぎり、「革命」は起きえないよなとあらためて思いました。自分の思考を整理する意味でも、ここではちょっと自分の発言をふりかえってみましょう。かつてわたしはこんなことをついーとしていました。

街頭ビジョンに映る小池百合子ビッグブラザーに重ねてわらっているひとびとが、同じ口で海外渡航者や出歩く者らを「非国民」に仕立て、嬉々として吊し上げる。無自覚な国家の尖兵たちは、そうとは知らぬまま自らの手で自分の首を締め上げている。監視の目と憎悪は互いにではなく討つべき体制へ向けよ

戦うべき敵はコロナでもない。それが炙りだす資本制国家とネオリベ的価値観である。「死を恐れよ。この命令を発し続けることによってこそ、現代社会はおのれの秩序を維持しようとする」「もしわたしが自分の命を守るなら、それはまさに都市の利益となる」(ともに廣瀬純、ラッツァラート経由のフーコー

端的に「アンダーコントロール」でいいのかということだ


本国さいしょの緊急事態宣言がでるまえ、2020年3月30日の連ついです。なんでひとはすぐに「コロナに負けるな」とかそういう方向にものごとを考えてしまうのでしょう。コロナウィルスなんかよりもすみずみまで世界を覆っている「敵」がいて、その存在をウィルスが可視化させている(新自由主義的行政による医療体制弱体化の露呈、猛威をふるう「経済を止めるな」マインド、低賃金・重労働におかれたエッセンシャルワーカーの現状ら、くわしくは酒井隆史によるこの記事を読みましょう後編)のだから、せめてそっちに目を向けるべきだろうとわたしなぞは思ってしまいます。では、感情の矛先をそっちへ向かせるようなアジテーション/動員をしかければいいのかというと、そんなことをしたって根本は何も変わらなくて(変わらなくたって「出来事」自体が起こればいいだろうという立場もありますね、「出来事」さえ起こってしまえばそれにつられて主体も変貌していくのかもしれません)、主観性を、主体をどうにかしなくちゃならない、というのがわたしのいま立っている位置です。


ここでのわたしの憤りは「観客/読者のリテラシー」という語に還元できます。この自覚が生まれたのは友人たちとの対話を通してでした。主体をどうにかするというのは、上記のリテラシーまわりの話も含め、エリーティズムの問題に帰結します。このことを2017年10月の衆院選挙に際して問題にしているついもあったので引用してみます。

民主主義を標榜するひとたちが「支持政党なし」に投票した人々を明確な意志をもたない無知蒙昧な大衆として踏まえたうえでその得票率の高さを嘆くグロテスクさは、自覚をもったふるまいに転化することで民主主義イデオロギー≒無自覚的なブルジョワイデオロギー内破の可能性として見いだしうるだろうか

自覚をもったふるまい=エリーティズム的な民主主義(ファシズム/寡頭制)の立場からの非難です。まあ無理だと思いますけどね(笑) 政策を読み込んだうえで、自らの意志をもって投票したひとのことを排除する欺瞞だらけの民主主義なんて棄てちまえといいたかったのです

あるていどのポピュリズムはぼくも必要だと思います(恐怖よりも人気で統治)。そこでいま、ファシズム再考のときがきたと考えています。自由主義者と自由をもとめない民主主義者たちの共生は可能なのではないかと。まだまだ勉強が足りないので確としたことはいえませんが


後半ふたつは友人に対するりぷらいのかたちを取っていますが、ひとつめのついの補足として機能しているのでいっしょにひっぱってきました。「民主主義を標榜するひとたち」が、自らの狭量な「民主主義」の枠内からはじき飛ばした対象を「明確な意志をもたない無知蒙昧な大衆」とする構図は、「俺はコロナだ」と叫ぶおじさんたちに対しても見ることができました。関連して、わたしは以下のようなついを2020年の4月5日にしていました。

「俺はコロナだ」「コロナビーム」と叫ぶおじさんたちのささやかなテロリズムに淡い希望を抱いていましたが、嶋田えりのようなひとがでてくると愈高揚します。こうした抵抗は「なんであれかまわない単独者」(アガンベン)による「共犯者の間で使われるパスワード」(リンギス)として読まれるべきです

「読まれるべきです」とあるように、ここでもリテラシーの話をしています。1_WALLで展示をおこなった際(2018年2月)のキャプションおよび作品応募の際に提出した制作意図の末尾の一文はこう締めくくられていました。

〈見る-グラフィック〉と〈読む-詩〉の境界で、身体を通過する「意味」と「経験」の呼びかけに応えるちからをわたしたちの手のなかに取りもどすこと。

もっとくだいた言葉で同じことをいっているついもありました。

「感情で記号だけ攻撃しろ」(庄司創勇者ヴォグ・ランバ』)の実践的言説空間としてSNSという戦場は有効かもしれませんが、けっきょくのところ「読むこと」というエリーティズムに帰結せざるを得ないのが現在のわたしの思考の限界です。つまるところ、本を読め、思考せよ、左翼になれということです


同じことをちがう言葉で延々いいつづけていることがわかりましたね。この反復運動の底にある「個への信頼」を踏み破ったときにこそ、わたしは「前進」するのかもしれません。それを「あきらめ」の名で呼んでいるうちは、わたしは今後もまた同じ道すじをうろうろとしつづけるのだと思います。