不釣り合いな形容詞を並べ立てた部屋

ずいぶんと前に先月入る、と聞かされていた入金が今月もおわろうとしているのに未だなく、大丈夫か?(おれの人生が)となっている。来月の引き落としまで入金がなかったら死である。クレカがなかったらすでに死んでいた。来ない入金を当てに買い物をしている。人生綱渡。

ワークワーク。いまうごいているもの次第で東京滞在の日程のはじまりが決まり、そろそろうごきだすであろうもの次第で東京滞在の日程のおわりが決まる。こういうバカみたいなスケジューリングはやめよう。未来のわたしへの忠告。

夜、豆腐の味噌汁、菊芋と新たまと豚炒め。うまい。

小泉義之が言及しているのを見て聴いたリルアッシュ懺悔、いい。モーメントジュンの「ラッパーって奴らは今日も言うことないから歌詞に入れたbitch」があたまによぎりはするが、確かな「リアル」があるように感じる。

ワークワーク。抱えていたもろもろがぶじフィニッシュ。ぱちぱち。これで事前に想定していたスケジュールで東京滞在ができそう。はやめに寝室に退散する。

圧倒的寝坊。はやめに寝室に退散しようが、ついついゆーちゅーぶを観る日頃の習性と、アラームをひとつだけにした慢心がこういう事態を引き起こすのである。めちゃくちゃ急いで準備すれば予定の電車に間に合う時間ではあったが、そういう生き方はやめようということでのんびりリスケを開始する。「のんびり行こうよ、人生は。」とのび太も言っていた。にどねさんどねも済ませ、ダッシュで駅まで向かっていると、親から「なんで鍵を持っていくんだ」との連絡があり(家に通ってくれているヘルパーさんの都合上、鍵が必要なのである)、さいあくだ……と思いながら道の途中で引き返す。帰ってみると、妹の鍵があるのでべつに戻る必要がなかったことが判明し、ひと悶着。つぎの電車までの2時間が吹き飛び、リスケした予定は壊滅する。さいあくの幕開けだ。

昼、れんこんとしいたけと豚肉のすっぱ炒め。うまい。飯を食う時間ができたと思えばまあ、、



ということで遅い電車に乗って東京へ。紀伊國屋を冷やかしつつ、HQハウスヘ。ぐうたら通話をしたのちに映画を完成させたばかりのSさんも駆けつけてくれ、Qさん、Sさんと3人でひと缶のチューハイをわかちあったのち(びんぼったれでいいなあ……とQさんがわらいながら独りごちていた、まったくその通りだ!)、駅まで向かう道中にあるずっと気になっていた焼き鳥屋へ。お店に着くとすぐにOくんもやってきて、ガチャンと乾杯する。いい店である。お手洗いに至るまでの謎スペースにはイースタンユースブルーハーツの8inchが飾ってあった。いい店である。ドデカ唐揚げと鶏のなめろうなどに舌鼓を打ち、ビールをガブする。次回は鳥刺を食うぞ!の念を胸に抱え、コンビニで酒を買いこみ、家へ戻る。夜中までアジカンの話をし、就寝する。

早起きして町田版画美術館に行く予定は二度寝によってついえつつ、粟津潔邸へ。ジョナス・メカス「われわれは理想主義者でなければならない」展。屋上から家に入るつくりのおもしろ建築にまず衝撃を受ける。家の前でどこから入るんだ?と迷っていたわたしに「あそこから入るんですよ」と教えてくれた親切なお客さんのあとをついて受付を済ませたのち、1階までぶち抜きの階段を降りながら左・右・後に設けられた各部屋(=展示室)を迷路のようにめぐっていく。床が改装中であったり、まだ寝室に布団が敷いてあったりと、無菌室的なホワイトキューブとは異なる場の雑然たるムードがおもしろく、メカスのフローズンフィルムフレームスや詩篇とともに、床近くに設置された窓から見える中庭などをたのしんだ。タイトルにつけられている「われわれ」。この意識をそれぞれがもつことに希望や可能性を見いだす、いやマジでそうなんだよなと自分がワンウォールにでたときのステートメントのことを思いだした。


▼これです

https://www.tumblr.com/seimeikatsudou/180052331213/1wall18
seimeikatsudou.tumblr.com


会場には次回展示の下見に作家の方が来ており、その方とともに、コラボレーターである誰でも知っているスーパーミュージシャンのCを家主に紹介される一幕もあった。ワンテンポ遅れて「え、あの**?!」となって咄嗟に反応できなかったのだが、後になればなるほどふしぎな出来事だったなと味がでてくるのだった。めちゃくちゃおしゃれであった。

王子に移動し、劇場の入り口で不審者とまちがわれながらブート版フライヤーをHさんに託したあとはお札と切手の博物館にて開場まで暇つぶし。受付しようとしていると後ろから声をかける者があり、ふりかえるとIくんが立っているではないか。同じ回を観るために早入りしていたということで、いっしょに世界各国の紙幣や切手をながめ、インフレ国家の桁のでかさにわらったり、エングレーヴィングの技術に関心したりする。

排気口『光だと気づいた順に触れる指たち』@王子小劇場。代弁の構造、というのをおもしろく思った。舞台上にはあらわれないお爺ちゃん(この台詞の上でのみ登場する存在は近年の排気口に頻出するキャラクターな気がする、ゴドーはドラマをつくるということだ)の言動、レミコの秘められたきもち、亡き息子についてのお父さんの懐旧、ほかにもいろいろあった気がするが、それらが別の人物によって語られるというフレームを印象的に思った。その骨格があるからこそ、本人の言葉がでてくるシーン——たとえば、くらげやおかかが告白する「はじめて」のよろこびが際立ってくる。

ピノがパニックになって鼻くそを食べるふざけがめちゃくちゃおもしろかった。鼻くそとは身体と世界の境界に生まれるその混淆物であり、人体の防衛反応の証でもある。世界と切り離されたホスピスという舞台、あるいはピノが詐欺師かつ泥棒のクソヤローである点を踏まえてこのコミカルな芝居を見つめなおしてみれば……と書きすすめていこうと思ったが、とにかくおもしろかったことに尽きるのでやめる。

レミコとタカシによるラストシーンは『午睡荘園』3場のサイドバイサイドの構図(こちらもかたわれはレミコである)を思いだした。しかし、格段に本作の方がいい!と思った。観ていて、空気がぎゅっと詰まる感じがあった。舞台上と客席に、ムードがしっかりと根を張っている感覚があった(悲哀にもおどけにもあきらめにも傾かないレミコのぜつみょうな表情がかなり効いていたように思う)。暗転を挟んで、そこにはだれもいなくなっている、という幕切れもすばらしい。みんな星になってしまった。そのさびしさを抱えて、わたしたちは帰路につく。星を呼ぶのではなく、星になること。そしてそれをながめる/ながめようとすること。


▼『午睡荘園』について触れている記事、好きな作品というじっかんがあったので、この記事を書くにあたって読みかえして「なんか文句ばっかり言ってる!」とおどろいた
seimeikatsudou.hatenablog.com


観ている最中はあまり気にしていなかったのだが、観劇後しばらく経ってからあきら氏が少年役であったことの新鮮さが浮き上がってきて、まっすぐさが身体から発されているようなまぶしさがあったなと思いかえした。これまで比較的クールな役割のキャラクターを演じることが多かったように思うが、意外とハマり役なのかもしれない。

観おえた2日後、フライヤーをながめながら藤沢の喫茶店でAくんと話していた折、「役者の名前に、みんな木とか川とかあるね」と言われておもしろかった。自然ゆたかな客演チーム(劇中にあらわれるふたつのチーム……読み解きがいがあるのでは、だれか書いてください、ほかにも何か書こうと思っていたことがあったのに何も思いだせない、おれはもう記憶力がカスになってしまった……)。