mass murder's John

(排気口『時に想像しあった人たち』の感想、前の記事からのつづきです)
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配置の話にもどる。2場における阿佐ヶ谷エキチカの不在と、3場における登場も印象深いものだった。夏祭りのあと、ハロウィンパーティを企画する場にはおらず、おそらくボランティアサークルのメンバーとしてはこの町との関わりもだんだんと薄くなっていったであろうと思われるエキチカ(彼女に思いを寄せ、それをきっかけにボランティアサークルに入った三浦おじやが、最終的には最も熱心に活動をするようになるという対比も効いている)が、なぜこのタイミングであいさつに来るのだろうか? たとえ来春から海外に行くからと言って、いっときサークルで世話になっただけの町の集会所にやってくるだろうか? そう考えて、わたしが思い至ったのは、彼女はかおりが籍を置いていたガールズバーではたらいていたのではないかということだ。

劇中にそのような描写は存在しないが、かおりとの出会いをきっかけにエキチカがガールズバーに勤務するようになったと考えれば、わざわざあいさつにくる理由として合点がいくし、渡米費用を稼ぐという点においてもその流れは納得できる。前半にキレたゆみの口から語られる接着したダンゴムシを生きた弾丸にするエピソードが、「銃社会アメリカへとつながっていくのにも舌を巻く。

3場においては、おじやとエキチカ(まさに距離を体現した名!)をへだてる日本とアメリカという物理的な距離もさることながら、かおりとかおりの父の距離についても「想像」せざるを得なかった。直接的にそう語られはしないが、かおりの父はもっとも遠い場所へといってしまった、すなわちすでに死んでいるのではないか?と思わせるあかるさが、2場のかおりの底知れぬ暗さと比較した際にあらわれているように思った。イオン誘致への反対運動に身を投じるようになったという生活上の変化も、介護-父という彼女のバックグラウンドが、さらに後景へと一気に退いたように思われた(反対運動といえば、さびれた商店街にイオンを誘致することですべてを解決しようとする鮫島えくぼがキャピタリズムを体現する道化として劇中に存在しているわけで、終演後に聞いた話によればそちら方面からの本作の読解も大いに可能だと思われるが、ここでは割愛する/キシダー、クンカ、オンラインサロン……)。

先に触れた1場のラストに、あふれんばかりのひとを舞台上に集め、それを秋冬である2場・3場で葉の落ちた枯れ木のように欠けさせるのも、さびしさを増幅させる、シンプルにしてすぐれた配置法だった。


キャラクターとしては馬場ゴジラとラージマックが好きだった。馬場ゴジラの真摯さが発揮される、メモちゃんが学校で仲間はずれにされているエピソードが明かされる場面は、幕切れに次いでわたしの胸をつよく打った。剣を得たよろこびによってかなしみを観客へと伝えるメモちゃんと、その悲喜のギャップ=ディスタンスを全身で受け止める馬場ゴジラ。このふたつの身体から、見事に哀切の重力が発生していた。まるで舞台に穴があいたかのようだった。穴……。ラージマックが穿った、未来への「穴」(それは『エウァンゲリオン』における「風穴」にも似ており……)。


▼澁谷桂一『エウァンゲリオン』最終話の感想
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ヘンテコな登場人物たちのなかでも、とりわけふざけた人物であり、イマジネーションのちからによって未知なる未来-ユートピアへと突きすすんだラージマックの存在は、排気口史上、もっともすばらしい幕切れだと感じた4場のレイヤーを、よりゆたかにする存在としてかがやいていた(4場についてはたんぶらーにあっぷされるフライヤーの制作ノートでもあらためて触れる気がする)。ここでいうレイヤーとは、わたしが泥酔したあたまで書き記した三つの未来、すなわち「かつて想像した未来」「すでに到来した未来」「もしや実現したかもしれない未来」である。ひとつめは、1場においてそれぞれが期待に胸をふくらませて計画している「夏祭り」。ふたつめは、2場・3場において過去のものとして語られる「夏祭り」。そして、さいごの未来こそ、ラージマックが体現する電子マネー「クンカ」のつかえる「夏祭り」であり、それが想像されるかぎりにおいて、4場の時空間もまた、「かつて想像した」ものや「すでに到来した」ものとしてだけでなく、「もしや実現したかもしれない」ものとして観ることが可能なのだ。

この複数の時間のかさなった集会所=周回所を、「夏祭りがはじまりますよ〜ん」と、ハンディクーラーを片手に陽気に駆け回るメモちゃん。彼女のそのうごきが為されるのは「反時計回り」(だったよね? いや、過去も未来もいっしょくたになったこの場においてはどちらの向きでも構わないのだが)であることが、わたしにはあまりにも痛切な祈りに見えた。『凱里ブルース』(ビー・ガン)を人体でやっているのだ。その手にもったファンがどちらの向きに回転しているのか、わたしの衰えた視力では確認できなかったが、この無邪気な回転運動は、過去から未来に至る、あるいは未来から過去に至るあまりにも遠く、あまりにも永いへだたりを、かぎりなく零距離にせんとする切なるモーションなのだ。そんな彼女の呼び声をたしかに耳にしたタカシとレミコは、それに応えるように集会所をでる。すべてがとけあったまぶしい夏のひかりのなかへ、手を繋いで去っていく。嗚呼、『エウァンゲリオン』。嗚呼、『映画 プリキュアオールスターズF』。


▼ビー・ガン『凱里ブルース』の感想
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▼田中裕太『映画プリキュアオールスターズF』の感想
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Tの執拗な人力目ざましによってHさんのベッドで目をひらいたとき、なぜわたしはきちんと着替えを済ませてここにこうして横たわっているのか理解できなかった。そのときはじめて、夜のあいだのすべての記憶が消滅していることに気がついたのである。

ながい滞在をおえて帰路につくNさんを見送り、わたしも出発。渋谷パルコの田中そば店で昼食を済ませ、アニバースでキュアマリンとベリィベリーのアクスタを買い、渋谷西武にて開催されているダンバイン40周年展へ。その規模感からしてかなりしょっぱい展示ではあったものの、流れつづけるサウンドトラックや、展示されているオーラバトラー、オーラシップらのすがたに、オーラロードが自身のうちにひらいていくのを感覚した。おれは戦士〜と東京浮上Tを買い、くじ引きでポスターを当てた。

昨晩粗相した(なんども外にでようと試みたのちにトイレに籠って便器に嘔吐し、便座カバーをひっぺがしてトイレからでてきたそうである、なにもおぼえていない自分がこわい)お詫びの便座カバーとトイレ用のスリッパを買い、hmv booksに立ち寄ったのち、ゴールデン街へ。OさんやIさんと談笑。地方でデザインをやっていく際の実態を話しつつ、プリキュアの魅力を大いに熱弁した。