ひらかれない頁に眠る女の顔

ホームに立つと、くしゃみがつづけてみたびでた。昨日鼻毛を切ったからであろう。髪をみじかく刈ってから首筋にあたる陽の光が痛むようになった。バスを待っているときにそう思った。よくねむるわたしの目が覚めたのは14時ぐらい、運転手がおしゃべりのボリュームを絞ってくれと乗客にアナウンスするバスの車内だった。伊藤計劃『ハーモニー』を入眠前と覚醒後にひらいていた。字面を追うわたしのあたまのなかでは、映画の記憶がたちあがってはくずれていく再生と崩壊の運動が起こっていた。いくつかのシーンが脳裏に浮かんでも、どんな話だったかはおぼえていないというこの脳のつくりは、再読や再訪に適している。不快なる車酔いで頁はとじられる。

肉玉そばおとどにて肉玉そば並。まずい。さいきんの東京滞在はこんなんばっかりだな。ライスが無料でつくというので空いた腹の嘆き節を聞いてお願いしたが、茶碗に盛られてでてきたのは変色したカピカピのゴミ米。次いででてきたラーメンのどんぶりもかなりの安っぽさを感じる器で、徳島ラーメン食べてみたいと思ってたんだよねーのきもちがこんなかたちで昇華されることがやけに腹立たしかった。とはいえ、ごはんをのこさないおれはきちんと完食した。近辺のマルイをうろうろし、紀伊國屋書店をふらりとし、HQハウスへ。ロングラン公演に疲労したHさんが迎えてくれ、焼酎で乾杯。しばらくしてから駅前のつけ麺屋に食事を摂りにゆき、再度乾杯。明日は千秋楽だ。

Qさん、Hさんと談笑。劇場へ向かうHさんを見送り、わたしもしばらくして同様の道のりを出発。雨が降っている。昨晩おすすめしてもらった中華屋は2軒とも閉まっており、もうしばらく歩いてべつの中華屋へ。高社楼。老夫婦とその息子さんと思しき家族経営の町中華。炒飯と餃子を食す。800円。炒飯の具の少なさに衝撃を受けつつ、熱々の餃子によって口内をはげしく火傷する。観劇後はIくんとKと3人で作品について語り、彼らのやっているラジオの話を聞いたりしたのちに打ち上げに合流する。


排気口『時に想像しあった人たち』。すばらしい幕切れ。かつて想像した未来、すでに到来した未来、、もしや実現したかもしれない未来がとけあい、まぶしい光のなかでとけあい、かがやきだす

公演を観た翌日、スマホをひらくと、撮ったおぼえのない打ち上げの動画と、書いたおぼえのない上記のメモが保存されてあった。動画の撮影された時刻は22:36とあり、その内容はみなが帰り支度をしている様子だったので、「編集時刻: 21:28」と表示があるこのメモはどうやら打ち上げの最中に書かれたようである。にども「とけあい」とくりかえしていることからもその酩酊具合が察されるように、この夜、わたしは生まれてはじめてアルコールによって記憶を失い、おそらくひときわうつくしかったであろう夜に交わされた言葉や身ぶりの大半を忘れてしまったが、そんな忘失のさなかにおいても書き留めようという意志の発現を促し、わたしの脳裡に鮮烈な印象を植えつけていたのが本作である。

忘れる。本作にはふたつの父娘が登場するが、その一方の父は舞台上にあらわれることはなく、その身のうちに「認知症」と称される記憶と判断力の不調を宿している。「どうでもいいこと」ばかりをおぼえているとその娘によって形容される父の「不在」。その字義通りの「どうでもいいこと」が舞台上に無数に飛び交う本作だが、しかし、彼女が口にする「どうでもいいこと」は親から子に注がれる「愛」以外のなにものでもない。このアンビバレントな引き裂かれはつまるところ「距離」をつくりだすものであり、それは排気口がその立ち上げから一貫してつねに問題としてきたテーマである。2019年に上演され、主宰である菊地穂波も自身の文体をつかみはじめるきっかけとなった公演だと語る『群れたち』を観た折、わたしは以下のようなついをした。

『群れたち』を観て想起したのは、第1回公演の『遠くが近い』だった。そこに横たわるのは距離の問題である。距離とは、たがいへの無理解であり、意思の断絶であり、畢竟、死である(第0回公演は『死を想え』と題されていた)。排気口は一貫してそのディスタンスを埋めるのは想像力であると語りつづける

開幕のフィクショナルな抱擁は幾度も変奏され、現実の抱擁として結実するが、そこに至る足運びは安易な越境を許さない。ふたつのダンスは混ざることがなく、はなればなれのふたりは名前だけが呼び交わされる。わたしたちをつなぐ身体と言葉の直接性からこぼれるところにこそ、跳躍の一閃が賭されている


さて、この距離は、本作ではいかにして扱われ、いかにして架橋されたのだろうか。最初の台詞を思いだしてみよう。「もういいかい?」。この一方の「娘」から、また一方の「娘」へと為される〈呼びかけ〉は、まさしく本作においても距離を問題にするという宣言でもあったのだ。この冒頭のやりとりのなかで、かおりの呼びかけにきちんと「応えない」という態度をとっていたメモちゃんが、ラストでは夏祭りのはじまりを呼びかける側に立っているというさりげない転身。こうした「配置」の妙もまた本作の特徴である。大学生たちの恋路をはじめ、舞台の上にはいくつもの「片思い」が存在しており、すなわちそれはたがいを「想像しあう」ためのちいさな滑走路としてひととひとのあいだをつないでいる。

とりわけその「原型」としてわたしの目に映ったのは南てんぷらで、恋慕を寄せる相手であるダメージヶ原ゆみ(それにしても、なんちゅう名前なのだろうか……/媚態とふてぶてしさを瞬時に行き来するキレ芸のおもしろさも印象的だった)に対して、マッチングアプリでタカシのふりをするという直接的でないアプローチをおこないながらも、もっともストレートなベクトルを発する人物として関係に線を引いていたように思った。

この関係の相似を視覚的に感じたのは、一場のラスト、メモちゃんの父であるときめき松太郎とかおりの父である認知症の父親がごっちゃになり、なぞのTシャツデザインを描いた犯人探しもはじまって登場人物が全員集結した場面。同様の立場にあるにんげんたちのことなり/かさなりが、同様の姿勢で壇上に静止しているという状態によって浮き上がってくるようで、やりとりされている内容のくだらなさとは対照的に、わたしの心中には静かな感動が起こっていた。

この「かさなり」が視覚の上ではなく、立場として明確にあらわになっていくのは、季節変わって、不在の父をもつ娘と、不在の娘をもつ父とが交わす悲痛さをたたえたやりとりにおいてである。奇しくも冒頭の「もういいよ」のない「もういいかい?」の反復によって幕を下ろすシーンだが、ここで会話をしているふたりは、次第にこの場にいない「父」と「娘」としてもそのすがたをダブらせていく。1場においては喜劇的に「ごっちゃ」になっていたふたりの「父」が、あるいは「娘」が、ここでは暗い陰影のなかにシリアスにとけあっており、客席にひとわらいを起こしていた「エクストラデイ・エクスチェンジ」と同質の、しかし異なったしかたでの変転が、その場に立つふたりの役者の身体を通してあざやかにじつげんされていた。

こうした二重化を通した想像の構造を見てわたしのあたまに浮かんでいたのは、劇中でもその名が呼ばれることになる保坂和志である。彼の書いた「残響」を読んだ際の感想を以下に引用する。

保坂和志「残響」のなかの、婚約発表前の雅子に思いを馳せる、というよりももはや雅子になって(「自分はもういままでのようにして一人で街を歩くことができなくなる、本当にもう二度とできなくなるのだなと思いながら雅子さんは街を歩いた」と文は断言する)そのきもちを語る場面、つよくこころを打たれた。「そしてこんなことを考える人がいれば雅子さんのそのときの孤独も少しだけだけれど救われると感じた」と保坂は書くが、これは文学の為せるわざのひとつでもある。乗代雄介がかつて生きたひとの感動を文を通して触知し、また自らの感動を文に託して残そうとするさまと、ここで書かれていることは同じ線上でむすぶことができる。遠い昔のだれかが感じたことが、いまそれを読むわたしも「わかる」と思えてしまうこと。わたしのこの感慨が、顔も名前もしらないあなたに伝わること。ふたりのなかに起こった感情は、「同じもの」ではないだろう。だが、そこで何かが交わされている。

あたしが「自分一人」と感じるのと雅子さんが「自分一人」と感じるのや渡辺さんが「自分一人」と感じる感じ方は本当は違っているのかも知れないけれど、私が「自分一人」と感じているときに、渡辺さんが渡辺さんの感じ方で感じている「自分一人」の気持ちを私に当てはめて何か言ってくれたとしたら、私は「そうじゃない」なんて絶対に言わない。人は自分の感じていることしか本当に感じることができないのだから、あたしはそれを「そうじゃない」なんて絶対に言わない。(保坂和志「残響」)

読むことや書くことを通して起きる伝達。わたしは小説よりも詩にその可能性や力能を信じたくなるけれど、いずれにせよそこで生じるつながりにつよく希望を抱いている。これは岸田将幸のいう「愛の可能性を最も短距離に結ぶ滴り」(『孤絶-角』)の話にも通じる。ある文を目にし、「そう」とわたしが肯くことが、あるいは、あなたが「そう」と思わず口ずさむことが、「われわれ」を形成する唯一の条件だと、わたしは断言する。

本作が試みているのはここに書かれたような方法ではないのだが、それでも、演劇を観ているわたしの目のなかでは「あたし」が「雅子」になるような現象が起こっており、それはまさしく「想像」するという回路が行き着く果てのひとつである。であるからこそ、本作におけるほかの多くのパロディのように『書きあぐねている人のための小説入門』をパロるだけで済まさず、わざわざ「保坂和志」と作家名を口にして補足を入れているのではないだろうか。


(ながくなったので感想は次記事につづきます)