わたしたちがまだ何者かになるまえに会っていた時間

夜、茄子とひき肉とチーズの春巻き、フリカデレ。春巻きは味噌+ハリッサをベースに、ドルマの逆版みたいなイメージで。フリカデレはヨーグルトを多量につかい、酸味をきかせたアレンジ。水気が多すぎてすこしゆるくなってしまったが、ともにベリうまし。ピーマンがめちゃあるのでこんどはドルマをつくろうと思った。米を主食ではなく、主菜や副菜にもちいるのは、日本で育ったわたしにとってワクワクすることだ。

もうこんなに寒くなったのに蚊が飛んでいる。手のひらをなんどか打ちつけあわせ、仕留めようとするがすべて外す。手のひらが真っ赤になる。日をいちにち置いてふくらはぎを刺される。

チョン・イヒョン『優しい暴力の時代』を冒頭2篇のおわりまで。以前触れたときにハン・ガンの名をだしたが、そこまで似た質感ではない気がしてきた。たとえば2篇目「何でもないこと」の構成のしかたにはサスペンスフルに書く、という意志を感じ、それはわたしが読んだハン・ガン作品には見られなかったもののような気がする。とはいえ、エモーショナルに筆をすすめるわけでもなく、一歩引いた地点から話を記述する姿勢は共通するものを見いだせるかもしれない。短文が多く、リーダブルで、ごろっとした手触りがある。余計なものを足さないという姿勢。わたしはその「余計なもの」を愛するたちなので、ちょっと物足りなくもあるのだが、たまにはこういう書きかたの小説を読むのもいいなと思う。これを書きながら4篇目の途中まで読んだが、どれも暗くさびしい話が淡々と描かれている。

夜、ねぎ塩豚バラ炒め。ザーサイを添え、生卵を落としてすた丼みたいにして食べる。うまい。インスタントの味噌汁もつける。

小説を書く。


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保坂和志「残響」のなかの、婚約発表前の雅子に思いを馳せる、というよりももはや雅子になって(「自分はもういままでのようにして一人で街を歩くことができなくなる、本当にもう二度とできなくなるのだなと思いながら雅子さんは街を歩いた」と文は断言する)そのきもちを語る場面、つよくこころを打たれた。「そしてこんなことを考える人がいれば雅子さんのそのときの孤独も少しだけだけれど救われると感じた」と保坂は書くが、これは文学の為せるわざのひとつでもある。乗代雄介がかつて生きたひとの感動を文を通して触知し、また自らの感動を文に託して残そうとするさまと、ここで書かれていることは同じ線上でむすぶことができる。遠い昔のだれかが感じたことが、いまそれを読むわたしも「わかる」と思えてしまうこと。わたしのこの感慨が、顔も名前もしらないあなたに伝わること。ふたりのなかに起こった感情は、「同じもの」ではないだろう。だが、そこで何かが交わされている。

あたしが「自分一人」と感じるのと雅子さんが「自分一人」と感じるのや渡辺さんが「自分一人」と感じる感じ方は本当は違っているのかも知れないけれど、私が「自分一人」と感じているときに、渡辺さんが渡辺さんの感じ方で感じている「自分一人」の気持ちを私に当てはめて何か言ってくれたとしたら、私は「そうじゃない」なんて絶対に言わない。人は自分の感じていることしか本当に感じることができないのだから、あたしはそれを「そうじゃない」なんて絶対に言わない。(保坂和志「残響」)

読むことや書くことを通して起きる伝達。わたしは小説よりも詩にその可能性や力能を信じたくなるけれど、いずれにせよそこで生じるつながりにつよく希望を抱いている。これは岸田将幸のいう「愛の可能性を最も短距離に結ぶ滴り」(『孤絶-角』)の話にも通じる。ある文を目にし、「そう」とわたしが肯くことが、あるいは、あなたが「そう」と思わず口ずさむことが、「われわれ」を形成する唯一の条件だと、わたしは断言する。

昼、ひき肉うどん。ラードと姜葱醤で肉を炒め、レンチンした冷凍うどんを和えてかつぶし・胡椒・山椒・醤油をかけた。うまい。