密集・死後

完成したいきおいに乗って、もうひとつグラフィックをつくる。細部以外はだいたい詰まる。すごいペース。えらいわたし。わたしえらい。今回はめずらしく自分の撮った写真を素材に構成した。さいきんは「作品」を意識した写真を撮っていないので、そういうモチベーションが上がるきっかけにもなるといい。いまやっているこのシリーズは、言葉と判型をいんすたのすとーりで募集し、このふたつを来た順にむすびつけて制作している。今日すすめていたのは「終電」×「A4コピー用紙」。もう3年ちかくもまえにもらった言葉たちだ。

DQM3の体験版をMKRの実況で観る。褒めるタイプのメスガキ風パートナー妖精、くぎゅ風ボイスのマスコット的悪魔、主人公好き好きなんでもします奴隷のエルフと、まわりにいる存在になにかと都合のよさを感じ、いろいろ大丈夫か?となる。FFやドラクエのターゲット層およびメインの購買層はおっさんだとさいきんなにかの記事で目にしたが、まさに弱者男性に向けた導入がなされているのではないか? 異世界転生的な想像力? 闘技場で主人公にイケメンイケメンと連呼するレフェリーのものがなしさよ、、

ひろプリ33話。パワーアップ回。OPはマジェスティが追加されるとともに、映画仕様に! ましろんとぬいぐるみランボーグを相手に、マジェスティごっこを何回も得意げにくりかえそうとするエルちゃんがかわいい(エルちゃんと呼ばれたのに対して発される「エルチャンジャナイヨ」のかわいさ!)。CMのフルタ・カナデールにもわらう。

エルちゃんがマジェスティとして矢面に立つことを心配するましろんと、それ以外の3人を、パワーアップにつながる遺跡に備えつけられた羽根型の半透明巨石(?)によって分割する構図がいい。ひとを想うきもちがひとをプリキュアにさせるわけだが、このように「心配」するきもちはそれを遮りもするのである。そうした作劇を踏まえて、変身BGMなしの4人の変身、次いでマジェスティのみがBGM付きという演出も冴えている。

バトル作画もリキが入っていて、作品よりもアニメーターが出張っている絵柄も、描きこみも相当なものだった。とりわけ、マジェスティの初撃パンチと汗だくミノトンの画。カットの緩急がそれをよりすぐれたものとして彩っていた。和解後のましろんとマジェスティの髪の毛がこすれあう、ラストの描写の尊さも見逃せない。信じる心は心配を超えるのだ。

絵コンテ・演出は畑野森生。作監には稲上晃の名も。EDキュアはスカイ、かつ映画仕様の特別形式。スカイが見上げる階段に歴代プリキュアの映像が投映されているヤバさにはターンエーの黒歴史回演出を思いだし、それだけでなみだがでそうになる。おれは劇場で死ぬだろう。

リコロイ?話。ガラルの炎ジム回。第1話で「セキエイ学園」が舞台となっていたように、このように複数の地方(シリーズ)をまたがっているのがいい。わたしは剣盾をやっていないのでガラル地方にはてんでくわしくないが。まっすぐに生きるワカバちゃんのようなサブキャラのよさには、見ていてベリィベリーのことを思いだした。ホゲータとロイがホホホ♪と延々やっているのはフレアソングへの布石なのだろうか。それにしても多用される画面のななめさはなんなのか?

夜、ひき肉れんこんししとうのごま味噌炒め。うまい。



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グラフィック完成。合間に保坂和志『草の上の朝食』を読みすすめ、ときおり声を上げてわらう。三谷さんやガトなんかを見ていると、同じ言葉をくりかえすやりとりってめちゃくちゃおもろいんだなあと思う。これは小説ゆえのおもしろさのような気もしていて、志村けんのおばあちゃん的なユーモアともちょっとちがっている気がするが、どうか。

だんだん鬱っぽくなってきた。このところ鳴りをひそめていたので安心していたのだが。

保坂和志『草の上の朝食』読みおえる。ひじょうにおもしろかった。前作『プレーンソング』の記憶は海でぷかぷか浮いている劇的にサイコーのシーンがあったな、という記憶ぐらいしかのこっていないが、本作から読んでもぜんぜんたのしめると思った。ラジオで話した箇所とはちがうところをここでは書く。

階段をのぼりながら工藤さんはぼくのうしろ姿を見ているのか、三十歳のぼくの尻は見られることに耐えうるかなんてことを考えると一秒でも早くのぼりきりたかったが、のぼりきると今度は席に坐らなかったことが惜しくなってガラスの扉を開けながらちらっと振り返ると工藤さんが上目づかいにこっちを見て微笑んで、それを見てぼくはゆみ子に電話したくなった。

茶店で給仕をやっている工藤さんに対して恋慕のようなものを抱いている「ぼく」が、デートの約束を果たせないことを伝えに店まで行き、「いま降りてきたばかりの階段を上がっ」てそのまま引き返す場面。性差に関わらず好きなひとからの視線は気になるものだと思うのだけれども、この「ぼくの尻は見られることに耐えうるか」という意識は、あまり「男性」のなかに生じないようなものなのではないか?と読んでいてたのしくなった。見る男と、見られる女というまなざしの不均衡は、30数年生きてきたわたしのじっかんとしてもかなりあって、たとえばそれは「審査」や「賞」の場における「ジャッジする側」の男女の人数差にもあらわれているし、ニュー速などによく立つ「品評会スレ」で品定めされる「品」が「女」ばかりであることにも示されている。

で、そうした感心を得た矢先に「ぼく」が「女」である工藤さんを見、同じく「女」であるゆみ子を連想するというのがまたおもしろい。視線の切り返し、性差の切り返し。ゆみ子は文中では「大学のときの友達」と表記されるが、「ぼく」がじっさいに電話をかけた際に子供に授乳中であることが明かされる通り、ここには性欲のイマジネーションがはたらいている。「尻」「上目づかい」「オッパイ」ときて、そうでないわけがない(オッパイときたら1頁に3回もあらわれる!)。しかし、ふたりのやりとりを読んでいると、どうも「ぼく」とゆみ子のあいだに性的な関係がむすばれていた過去はなさそうだ、というのがまたいいのだ。この浮遊感は、本書の終盤にあらわれる保坂和志史のなかで唯一(とどこかに書いてあるのを読んだ)のセックスシーンに至っても途切れることがなく、それはまさに先に触れた『プレーンソング』の海でぷかぷか浮いているシーンにも通じているのではないだろうか? サスペンスではないサスペンス、そんな語句が浮かんでくる。


▼男性身体をもつ自分のなかに「見られる」意識がつよく根づいたのは、排尿中にちんちんしごきおじさんたちに公衆トイレで囲まれたときだった
seimeikatsudou.hatenablog.com


まだ付箋を貼った箇所は大量にあり、つづけていくと長くなりそうなので次回も『草の上の朝食』の話をする。