ぼくのたましいが産毛になってきみの後れ毛とむすびつくまで

観劇後は客席で見かけたひとらと飲みに行こうと考えていたのだが、唯一わたしを見つけて声をかけてくれたAさんはロビーで写真を撮ったりしているうちにすがたが見えなくなっており、けっきょく観劇前に駅で待ちあわせしていたTさんとふたりで阿佐ヶ谷にて餃子とビールになだれこむことになる。演劇や若おかみの感想をワイワイと言いあっているなかで、Tさんも『Aftersun/アフターサン』に感銘を受けたうちのひとりだということが判明し、その解釈でまた盛り上がる。父は同性愛者である、というTさんの読解は(インタビューによると監督はそのように意図していないそうだが)ひじょうにおもしろく、また新たな魅力が作品のうちに見いだされるようであった。こういう夜がある場所がわたしにとっての東京であり、それが消えてしまった生活をいま送っているわけで、バックトゥトーキョーの思いをひときわつよくした。思いがつよくなるだけではもどれない。

HQハウスに帰ると、盛夏火の同じ回を観ていたというKさんとNちゃんもおり、酒を飲んでいた。会場で声をかけてくれればよかったのに!とか言いつつ、文化的ルーツの話をする。Tさんがインターネットと言っていたのに乗っかってわたしは「2ch」と答えておく。2chが文化的ルーツって、字面がさいあくだ。でも、服も、音楽も、漫画も、この巨大な掲示板群を苗床にしてそれらへの愛情が育っていった気もする(詩や映画や美術は大学に入ってから愛がでかくなっていったカルチャーである)。今回会うのがにどめであるKさんと、前回にひきつづきハイタッチする場面があった。Kさんには『Aftersun/アフターサン』があまり刺さらなかったようだったので、その話こそを聞くべきだった。



しばしだらだらし、Hさんと別れの挨拶を交わしたあとは表参道へ向かうQさんとカレーを食べに新宿へ。昨日Tさんにすすめてもらったカレーハウス11イマサにて、キーマカレー。しっかりした辛味と塩味のある固形感がつよいカレー。デフォで温玉トッピング。うまい。Qさんは背脂カレーを食べていた。ほかにもいろいろ種類があったので、こんどはべつのメニューを試してみたい。

電車内にて、トイレに寄っても乗り換えに間に合うかな?などとスマホで乗換案内を見ながら考えていると、70代ぐらいの目の前に立つおじいちゃんがとつぜん「綺麗な写真ですねえ!」と大きな声をあげる。どうもiPadでこれから行く場所の写真をながめている男性に話しかけているようで、その写真を男性が撮ったわけではなさそうなのだが、おじいちゃんは男性が撮ったのだろうという体で話しかけており、しかし男性もそれを否定するのがめんどうで話をあわせて相槌を打っている、という時間がわたしのとなりでしばらくくりひろげられていた。コロナが封じたパブリックな場所でのみしらぬひととのコミュニケーションも回復の傾向にあるのかもしれない。



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帰りの新幹線で井戸川射子『ここはとても速い川』読みおえる。Sさんが2作目は微妙と言っていたが、わたしはけっこう好きなタイプの小説で、あらわされる内容よりもその文自体が声を発するタイプの書きぶりにグッと惹きつけられた。よくここから表題作のような場所に着地できたなと思う。そんな2作目「膨張」で付箋を貼った箇所は以下。

就職したての時のように、食器を一枚吟味して買っていくこととかは今の私にはとりあえず関係なく、そうなると買い物は加工済みの食料品だけになり、歯磨き粉を久しぶりに買うことが嬉しかったりした。

こんな風に言葉にして考えたことはなかったが、書かれてみると「わかる」となる感覚がここにあった。通常はこのような使われかたをしないであろう「関係なく」という語をもってきているのがカッコいい。

「幼稚園くらいの時アパートの上に住んでた同い年の男の子がよく家に遊びに来てて、私がトイレ行く時絶対一緒に入って来てたんだよね」エロい話?と太田が聞いた。「そんでずっと見てただけ。で、私のお母さんがいない時にはその子の母親も一緒に入って来てじっと見てたんだよな。並んで、細長いトイレで親子の目線は下の私に向いてて、あれ変だったな。顔が細くて似てる二人がさ」

多和田葉子の小説にでてくるようなエロティシズムのあらわれだと思った(cf.『犬婿入り』における使用済みトイレットペーパーでお尻を拭くときもちいい、話など)。これは書き写していて思ったことだが、末尾に置かれた「顔が細くて似てる二人がさ」が不気味でいい。自分には付言できないと思った。技術を感じる。

「私も思い出したの、言っていい?夜一時にお腹がすいちゃった、って起きたら夫はちゃんと、中華鍋でチャーハンを作ってくれた、それぞれ米粒が光ってた。サラダ油がなかったから、その前にコロッケを揚げた後の油を使ったらコクが出て香ばしかった。本当に、材料さえあればいつでも作ってくれた」

「恋人に殴られることがあるんです」と告白しつつも、「でも、大丈夫なんです」「後ろから抱きしめられて寝て、私が体ごと揺らすと千里も揺れてくれて、あたたかいの」とつづける主人公に対して、すでに別れた夫との思い出を語る友人(とまではいかなさそうだが顔見知りレベルでもない微妙な距離をもつシングルマザー)イブさんの発話。親しい友人にもなかなか話さないであろうプライヴェートな自己開示に対して明かされるこのエピソード、およびそのだしかたに心を打たれた。このような些細な思い出こそが、ひとを前へと歩ませる、生かさせるものであることをこの書き手はしっており、なおかつ会話のありかたとしてダイレクトにつながるものではない/だからこそ通じあう、作中の主人公の言葉を拾えば「私の言ったことと、そう遠くない気が」する、というのがビリビリにひびいてきた。保坂和志が泣いたのは表題作に対してだが、彼の書く小説のなかにもこのような質感をわたしは感じる。

表題作にはもっとたくさん付箋を貼ってあって、いろいろ書けることもあるんだろうけれども、小金井公園にいくまえ、Aさんと口頭で話してしまったので割愛する。