失悲歌・ノイチ・読唇術

起床。イデオンを観ながら食事。家事をおこないつつ、メールをかえす。昨日しごとをつめたので今日は休みにしようと思う。イデオンをもう1話観たのち、『ヒーリングっどプリキュア』の最終話も観る。それから夕飯の支度をし、シャワーを浴びる。献立はひき肉と大根の紅生姜炒めと、じゃがいものバター大葉かつぶし炒め。食事の時間までは自室にひきこもって多和田葉子『献灯使』を読みすすめる。

イデオンは28-30話とか(ちょっと曖昧)? はじめてのイデオンソード発動シーンになみだがこぼれ、そのシーンにも、落涙している自分にもショックを受ける。まだ年端もいかないどころか、言葉も喋ることすらできないちいさな赤子に対して「思考回路破壊ビーム」というぶっそうな武装を向け放つきょうれつな描写。その光線を浴びて死の恐怖に絶叫する幼児パイパー・ルウの、過敏な防衛反応にイデが共振し、見たこともない光線がイデオンの腕先から放たれる。その「閃光の剣」が、敵機をなぎ倒し、窮地に陥った主人公たちは救われる。この苛烈さを梃子にした作劇にわたしはなみだを流したわけであるが、こんな描写はいまの子供向けアニメではなかなかできないのでは。ふりかえってみれば、そもそも第2話で子供たちに向けて躊躇なく発砲していた描写からしてヤバさが炸裂していたのである。

プリキュア、まるまる1話がエピローグなことにまず前回の予告の時点でおどろいていたが、どうやら近年のプリキュアはそのようなスタイルをとっているらしい。作中に次回のプリキュアが登場するのもふしぎである。そんな構成自体をたのしんだのとともに、いちばん驚愕したのは、ファンシーな妖精の世界を舞台にしながら、「人類」に対して自己反省を促すハードコアなストーリーが展開されていたことである。妖精たちの住むヒーリングガーデンにおそらく長らく住んでいるのであろう老猿サルローの口から語られるのは、地球を汚染し、ほかの命を奪って進化してきた人間だってビョーゲンズと同様地球を蝕んでいるではないかという、ラスボス・キングビョーゲンも口にしていた否定できない事実であった。それを受けて一瞬は返答に困るプリキュアたちだったが、最終的には「わたしたち、がんばります」「わたしたちにもできる地球のお手当を考えていきます」と和解する。

本作はすこやか市に帰ってきたプリキュアたちの以下の会話によって終幕するが、それがまた修羅の道を歩んでいくんだというハードなエンドなのだった。

のどか「これからもやることいっぱいだね」
ひなた「地球のお手当、まだまだつづくもんね」
ちゆ「生きているかぎり、たたかいはおわらないってことね」
のどか「うん。でも、そういうのもぜんぶ丸ごと生きてくって感じ」
3人「うふふあはは」

かわいらしくわらって幕切れしているが、ここで為されているのは「生きるとはおわりなき闘争である」ということの確認である。中学2年生の女の子たちが、このげんじつに対して「やっていくぞ」と決意をたしかめあっているのである。なんときびしい話だろうか。だが、これはわたしたちの生きるこの「げんじつ」そのもののきびしさの反映であって、作り手たちの真摯さのあらわれとしてこのような会話がエンドマークとして選ばれたのである。また、ヒーリングガーデンを統治する女王テアティーヌに「いざというときがきたら、人間を浄化する覚悟はあります」と語らせているのもきょうれつだ。本作で語られた倫理性をわたしは支持したいし、本作を鑑賞した未来を担う子供たちに対しても、それを踏まえて生きていってくれるだろうという無条件の信頼がある。グレタさんがブチギレるすがたに希望をかさねることができるかという話でもある。


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献灯使、ひとまず表題作のみ読みおえる。ほんとうのほんとうにすばらしい。文のいちいちにここさいきん感じることのなかったときめきをおぼえ、心底うっとりする。マイラブだと思った。多和田葉子はまぎれもなくマイラブの一人である。感激をおぼえた愛くるしく恋しきディテールの数々についてはラジオで話したので割愛。完読したらなにか書くかも?

ラジオはいままでになくコメント欄が活発で、やっていてたのしかった。リスナー同士が話しているすがた、めっちゃいいなと思った。ああいうのを見ると、もうちょい集客がんばるか?というきもちになる。短い放送になるのではと事前には思っていたが、けっきょく2時間くらいになり、場はひとのちからで活力を得るのだなあとうんうん頷いて寝た。