愛のセンサー

昨晩から今朝にかけてすすめられていた肉そば千へ。町田が誇るゲロマズラーメン屋こと、ぎょうてん屋を二郎インスパイアとして数えなければ、人生はじめての二郎系だ。はじめてのコールをすこしだけ緊張しながら唱え、これが噂のゴワゴワワシワシした麺か!とその噛みごたえに感動する。今回はアブラだけにしたが、この麺量だったら空腹時はヤサイ、とコールしてもよさそうだ。Hさんも昨夜は中盛りを食べたと今朝言っていた(夜なのか朝なのかややこしい文!)。

家に帰るとSさんのすがたも。遅れてOくんも。みんなでリリースされたばかりの『サーフ・ブンガク・カマクラ(半カートン)』を聴く。スパルタおよびオウガからの流れで、Sさんにビルト・トゥ・スピルをすすめ、ギターの鳴りで射精するさまをながめる。のち、がばいばあちゃんでひとしきり盛り上がる。「がばいばあちゃんでひとしきり盛り上がる」。意味がわからなすぎるが、そして、記録しなければすぐに忘れ去られてしまうようなひとときではあるのだが、そのような時間がたしかにここにあったのである。



バックホーン、アート、アジカンの新譜をひと通り聴く。部屋に流れるアート、アジカンバックホーンの新譜にひとしきり盛り上がれる時間の旅だ。アートが試聴から想像していたものよりも断然すばらしく、うれしくなる。少なくとも『Just Kids .ep』よりいい!とHさんとうなずきあう。バックホーンは懸念していたオールアコースティックアレンジ(いろんなアレンジがごった煮になっているのがよかった)ではあったが、オッとなる曲もいくつかあり、落胆するほどのアルバムではなかった。

新宿ピカデリーでシャーロット・ウェルズ『Aftersun/アフターサン』(2022)。年間ベスト10入り級。ポスターとパンフのビジュアルのみの前知識で、勝手にメカス的なものを想像していたのでその点では期待を裏切られたのだが、愛と余白にみちたカットの連続にいつしかしずかにエモーションが昂り、結果的にはきょうれつに胸を打たれた101分となった。鬱病と思わしき父と、娘のひと夏のヴァカンス。父母はすでに離婚しており、おそらく娘はふだん母と暮らしている。これらの情報は断片的に観客に開示され、しかもはっきりそうであるとは言い切らない。その想像する余地のおおきさ(波に浮かんだエアボートの上で親しみ深い会話をする父娘、その圧倒的な引き画における広大な空と海の背景!)に惹かれるし、このような語り口の映画がいまの日本でも(大規模ではないにせよ)支持があるということがひとつのはげましとしてわたしにひびいてきた。何かいろいろ書けたはずだが、次記事冒頭に触れるようにTさんと話して満足してしまった感があり、それから2週間ぐらい経ってこの文字を書いているいま、なにひとつ言葉が浮かんでこない。パンフが売り切れでかなしかった(おれたちの大島依提亜……(だれかわたしのために一部買っといてくれ!



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上映スクリーンのある階まで上がるためにエスカレータに乗っていたとき、わたしの前にはスリットの入った黒いロングスカートの裾から、白く細い足首が見えていた。その中心を通るまっすぐな骨の上に、ひとすじの青筋が浮かびあがり、さらにその三寸ほど下には靴ずれで赤くなった皮膚が、黒靴の履き口の際で音もなく燃えていた。街中で見かけるこのようなイメージが、わたしの制作に影響を与えているのだと、これを書いているいま、事後的に思っている。

広州市場で二種盛り雲呑麺。こんなでかいレンゲだったっけ?みたいな疑問符を浮かべつつ、移民の店員に食べ方のレクチャーを受けながら、うまいうまいと啜る。生姜だれが好みだった。店名が揚州商人とすぐにごっちゃになる。揚州商人には行ったことがいちどもない。紀伊國屋書店をうろうろしたのち(昨晩Iさんに「新刊でますね!」と言っていた本、そのIさんが担当編集だった!)、Tさんと合流してせんがわ劇場へ。

盛夏火『カーニバル・アザーワイズ』。前作『スプリング・リバーブ』を踏襲するオープニングが?という始点からの『第七の封印』(イングマール・ベルイマン)だ!ではじまり、『第七の封印』だ!でおわった迷宮的円環構造をもつ、(セルフ)オマージュの濁流で彫琢された「前夜祭」の持続。「そしがや温泉21(作中での名称を失念……)」の閉店フィーバー(?)には乗りおくれ、幾たびも開始が予告される「カーニバル」は到来せず、「迷子犬」そのものが舞台にあらわれることはない。そのけっして絶頂しない温度感のなかで、ループと思わせてループでなく、と思わせてじつはループで……というような何重もの反復構造(「作品」外までその視野をのばせば、公演が3ステージであることと、劇中に登場する3度見ると街ごと夢の世界へと連れ去ってしまうとされる「猿の夢」の話はつながっていると見なすことが可能であり、ゆえに、この作品自体も「夢」として上演されているようにも観ることができる)があり、それが『スター・クルージング/パジャマ・キャンプ・アルファ』で掲げられたものと同様の看板(視力がおわっていて何が書いてあるか判読できなかったが)によってブツと断ち切られるラストに沸々たる高揚があった。

オマージュという点では、バンド演奏シーンでのギターサウンドは盛夏火超監督である金内健樹がフロントマンを務める夏アニメーションの「性徴」に通ずるものを感じ(というか同じだった?)、グッと惹きつけられた。また、ベルイマンに引っ張られているのかしらないが、hocotenがホールスタッフを務めるオクトーバーフェスの会場にはタル・ベーラの『サタン・タンゴ』にでてくる酒場のようなアトモスフィアを感触し、勝手に気分が上がっていた。


▼夏アニメーション「性徴」MV
youtu.be


この場に観客が存在することに対するエクスキューズを作品内に置くのも盛夏火の特徴だが、今回は失踪した犬探しに集まった人々、あるいはオークション会場に集まった呪物コレクター(?)たちという見立てはあるものの、それをわたしたちに直接的に接続することはしなかった。では、その代わりにむすばれている関係線とは何か? すなわちそれは先にも触れた「夢」である。演劇はフィクションであり、夢はもっとも身近なフィクションである。物語が展開される場所は「仙川」であり、われわれがいま劇場の座席におさまってじっさいに存在する場所も「仙川」である。そのラインによってつながったわれわれは、まさしくべつなやりかたotherwiseで集まったカーニバルの参列者以外の何者でもなかった。到来しないと思っていた祝祭はすでにはじまっていたのである。

もうひとつ、書きのこしておかねばならないことがある。受付の列にならんでいる際、わたしの前の前に立つひとの肩に鳥(おそらく雀)が止まっているのをTさんが見つけ、盛夏火が好んで用いる「迷い鳥」へのオマージュアクセサリーを付けてきたつわものファンか?とながめていると羽をはためかせて飛び立ち、じっさいに命をもった鳥であることが判明する、というワンシーンがあった。これまでの作品でも開演前から観客の存在する時空を物語の領域へと招き寄せてきた盛夏火の、マジカルでワンダーな時間はすでにここからはじまっているのだと告げる、きょうれつな出来事だった。