愛さぬ摘みの首代わりのベロ

ブログ用の掌編を末尾まで書く。こんなものを量産──しかも信じられない鈍足で──していないで、長いのをおわらせるのに時間をつかったほうがいい。尻を叩いてくれるひとを、わたしの外側に欲しているのだ。内面の話をすぐに外部化に頼るな! ここ数ヶ月の富野アニメの受容体験はかならず今後役立っていくだろうという確信がある。ターンエーがおわったらVガンかキンゲが観たいのだけれども、どちらもユーネクストでは観ることが叶わないのだな。Zで茶を濁す所存。高畑勲の『母をたずねて三千里』も完走したい。アニメスタイルでよく名前の挙がっている作品だ。

今日もサッカーを観る。後半の途中から。日本がポコポコゴールをかましていて、素朴に興奮する。どちらも久保のコーナーキックが端緒。素人目に見ても球のまがりぶりと標的の選定がすごい。試合後のコメントの太々しさも好ましく思った。

バックホーンの『B-SIDE THE BACK HORN』を聴く。ベストを聴くよりこっちを聴いたほうがバンドのコアの部分に接することができる気がする。


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想田和弘『選挙2』(2013)。まず「ドキュメンタリーの続編」という構造的なおもしろさをたのしんだ。前作が踏まえられた選挙活動、山内夫妻に子供が誕生していること、作家が介入しはじめているという手法のちがいといったさまざまな差異が、「前作を観ている」という支えによって、作品をより豊かなものとしてわたしに見せていた。投票のメタファーとして前作にも登場していた改札を通過していく川崎市民のショットは、3.11直後という状況も相まって、マスクの有無というひと=有権者放射性物質への意識の差も映しだしており、それがたったひとり「脱原発」を訴えて無所属で立候補した山内さんのすがたにもかさなって、げんじつのきびしさを物語っていた。

日本における選挙運動の空虚さは本作でも映しだされていて、選挙公報に掲載された候補者名の漢字をひらく・ひらかないで問答している山内さんとその友人の会話を見ていると、ほんとにわたしたちはナメられているよなと思うのだが、そののちに山内さんを「内山さん」と呼びつづける山内さんが前作撮影時に住んでいたアパートの大家さんのふるまいを見せられると、かわいたわらいをこぼすしかなくなってしまう。こうした構成的な巧みさは、たとえばほとんど受け取ってもらえない選挙ビラを配る候補者のシーンの後に、みんな受け取るティッシュ配りのカットをつなげたりしているところにも見ることができる。

ナメられといえば、東国原が都知事選に出馬する際の決起集会の場面が記録されているのだが、そこで突撃インタビューをおこなうサンデージャポンの記者の質問が「サンコンさんの視力が1.2になりましたが」というもので、ほとほと嫌気がさした。その光景自体も最悪だが、そんな質問が「数字を取れる」「視聴者の興味を引ける」と考えている「テレビ」という「マスメディア」の方針に反吐がでる。

先に「作家が介入しはじめ」と書いたが、前作では声すらもが作品のなかに登場しなかった撮影者=監督の想田和弘が、本作では冒頭から山内さんに声かける様子がカットされずに残されており、洗車中の車窓に映る本人のすがたまでもが記録されている。そんな介入がピークを迎えるのは、自民党議員の街頭挨拶をおさめたシーンで、相手方のスタッフが「撮らないでください」と監督に文句をつける場面がある。ひとりのドキュメンタリストとして作家はそれに抗って撮影をつづけるが、その際に相手の口からこぼれる「大人として」「常識的に」という語が、強権的で理不尽な「大人」がよく使用するヘゲモニックなロジックを前面化させており、嫌悪をおぼえた。

こうした嫌悪の感情は、何も対立候補者だけではなく、主人公として据えられている山内さんに対しても浮かんでくる。前回の自民党からの出馬とは打って変わって「お金をかけない選挙」を掲げて選挙活動をおこなうのだが、その実態は行き当たりばったりであり、金銭的コストを費やす代わりに友人や妻は動員され、「子育て支援」を掲げていたはずの彼の幼い息子は、閉店間際の郵便局にて宛名書きをする両親のそばで大声で泣き叫ぶことになる。皮肉である。「私の感覚は市民の感覚」といってしまえる妻の感覚も危うい。「私=市民の代表者」を直結させる慢心的な思考は、悪政を生む胚芽になりうるものだ。

そんなドタバタの末、投票日前日になって最初で最後の街頭演説に臨む山内さんは、放射能を遮るための防護服に身をつつんで、たどたどしく「とにかく投票に行ってください」と駅前で演説をおこなう。息子は元気にはしゃぎながら彼の周囲を走り回っている。歯切れのわるいスピーチをおこなう彼のすがたからだんだんと遠ざかっていくカメラのなかに映りこむのは、誰ひとりとしてその演説に聞き入ることなく立ち去っていく「無関心」の実像だった。山内さんがちいさくなっていくにつれて駅の喧騒はだんだんと大きくなり、画面はブラックアウトする。やがてそこには投票の結果、つまりは「民意」が開示されることになる。選挙がおこなわれたのは2011年4月。わかりきった結果がそこにはあらわれ、わたしたちは映画から突き放される。