がんさくを視かぎる眼

クレジットに谷川雁とあるべきところに谷川雁作とプリントされた合唱曲か何かのハンドアウト。いつぞやのついったでそのことについて会話するひとらがおり、このガンサクの音がわたしのあたまのなかでいつまでも反響音を鳴らしている。

昨日は料理をおえたタイミングでねむたくなり、食事を摂らずに沈没した。夜が明ける前に起き、ついったなどをちらほら見ながらぬくぬくし、昨日の煮込みと春巻のあまりで朝食。水が多かった。雪が積りに積もっていたので食後は雪かき。パウダースノーなので重くはないが、車が止まっているので作業がしにくい。ひと仕事おえ、腕をプルプルさせながらこの文章をタイプしている。

わたしはほうれい線にフェティッシュを感じているのかもしれない。かつてフローレンス・ピューを引き合いにだして「表情のゆたかさに惹かれる」と書いたことがあったが、「ほうれい線」という顔のなかに引かれたふたつの曲線には、このこととの深い関連性を感じる。

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ピューが料理を食べている動画はこれである

ただ、ほうれい線があればいいというわけでもないようで(そりゃそうだが)、まだまだ言語化の余地があると思った。線へのフェティシズムではなく、表情が優先されるのか? ともかく、自身の「好き」の感情に向きあうことはたのしい。「嫌い」の感情に向きあうことだってたのしい。昨日触れた「つまらない映画」についていえば、それは「画への注力に対して、編集がナラティブに奉仕してしまっているのがつまらない」と歩みをすすめることができるが、そこで足を止めてしまうところがわたしの限界であり、作品の限界でもある。そこを突破するのが見巧者であり、すぐれた作家のちからであるが、幸福な出会いをすることのできなかったわたしたちはたがいに歩み寄る前に動作を停止させるのだった。


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今日のはじまりBGMはバックホーン『心臓オーケストラ』。名盤や……。「夏草の揺れる丘」や「夕暮れ」のセンチメンタリズムに殺されそうになる。次いで、29地図の『花束みたいな恋をした』回を聴きながらWCシリーズの制作。映画は観ていないが、めちゃおもしろい。「センキュー・フォー・ユアアドバイス」!!! じっさい、29地図が映画内にでてきていたらマジでサイコーだったろうな。本棚に岩波がないことに憤るタカシマさん、わかる、となった。『ピラニア3D』のくだりとかもめちゃくちゃおもしろかった。カップル間のイヤホン共有話にめちゃくちゃアツくなっているさまがマジでサイコーだった。カルチャーこじらせにんげんのひとりとして、ユーネクストかネットフリックスにきたら観なければ、と思った。途中山田さんが語っていた『カルテット』の話を聴くに、そっちもおもしろそうだなと思った。貸した詩集を鍋敷きされたら、そりゃなにかが「おわる」だろう。たしかむらこそさんも当時観ていたはずだ。

「ポリティカルでなくちゃ!」というジレンマの問題はめちゃくちゃその通りだし、社会に迎合するか否か問題はわたしの身にも切実な問題としてあるわけだが……となにかしら書こうとしてみたものの、映画を観てもいないのにこのまますすめていくのは、と思い至り、いつか作品を観たときまでその思いは秘めておくことにした。