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女性から男性へとプロポーズするさまがテレビで流れていたときに、「逆プロポーズ」と父が声を発し、この「逆」にこそ家父長制が流れているわけであって、そこにあぐらをかく親のすがたをつよく再認識した。そんな性役割クソくらえである。

ラジオのグラフィックをつくる。3週連続だ。毎週つくることになるのか? いや、であるならばグラフィックシリーズのほうもそろそろ再着手したいところであるが。どちらにせよ制作にはちがいないので、筋トレのような感じでやっていく。

どうやら母親は更年期のようで、なにかといらいらしており、そのあたりちらしの標的にわたしがなっていてとてもめんどうだ。自己の感情をコントロールできずにすぐにおもてに発露させてしまうので、いらぬ摩擦がつくりだされ、もめる羽目になる。まあ両親が喧嘩している空間で生活するのよりはましかと藁人形のようなきもちで生活している。かつてわたしが東京にでてくるまえ、妹の反抗期がわたしに向いていたことを思いだす。藤子Fの憎まれ屋的ポジション。

フェイスブックがトランプのアカウントをバンしたとあるが、これはけっこうおそろしいことではとも思った。もはや「国」よりも広く深い領域を掌握しているグローバル企業によって、言説が統制されること。かといってフェイクニュース蔓延の社会がいいのかといわれると、そんなわけはない。フェイスブック+言論統制でつい検索すると、陰謀論トランプ支持者たちばかりがあらわれ、どうなのという気分になってくる。それなりに名のある作家や音楽家たちがそういう考えであることがSNS上であきらかになるのを見ていると、あまりしらないひとであろうとも気がふさぐ思いがする。わたしが見かけたなかでは、島田荘司(ちょうど戸田ツトム特集の『ユリイカ』でその文章を読んでいたところだった)、ブンサテ中野、森田宏幸ら。『猫の恩返し』も『ぼくらの』も好きなのでつらい。俳優が逮捕されたことが理由となって映画の公開がキャンセルされるのはおかしいとか、いくら作家がクソでも作品がよければいいじゃないかとふだんのたまっているわたしが、作家と作品をじょうずにきりわけられていない事実がこうしてあかるみにでる。


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めざめ、カレー。チーズもかける。2021年の映画初めはアンジェイ・ズラウスキー『COSMOS/コスモス』。登場人物も画作りもみごとに狂っていて、なんども声をだしてわらった。過剰さにホドロフスキーのことを思いだし、彼のイマジネーションはけっこう苦手なのだが、こういう具合だとたのしく観られるなと思った。些事に過ぎない(と見なされがちな)ことがらに拘泥する男が、聖/俗の二元対立的世界のなかで、妄想の果てにファム・ファタールを幻視する物語として見た。法学から文学へ。人工から自然へ。そのようなベクトルの渦中で、「迫りくる事物に抵抗できない」主人公ヴィトルドが、下宿先の家族の狂ったふるまいと周囲に起こる災禍の前兆に物語≒文学を読みとっていく。法学を学びながらも小説家を志すヴィトルドがラップトップに向かって文字/小説を打ちこむシーンに象徴されるように、言語がほとばしっている作品であるが、奇妙でちからづよい画によって映像は言葉に負けずに屹立し、きちんと映画のかたちをたもっている。ゴンブローヴィチの小説が原作だということを観おえてからしり、なるほどとなる。隣りあう男女が自分の手もとのスプーンを執拗になでまわしあうシーンの官能性や、精神が昂ぶると停止する母親の奇天烈さ、虚構性を強調するかのようにエンドロールのバックでメイキング映像が流れるぶちこわしぶりなどが印象深い。それにしてもズラウスキーの描く狂った女はサイコーすぎると思った。めちゃくちゃに好きだ。めちゃくちゃにされたいのだ。

いつもはついーとをさきに書いてからブログを書くのだが、今日は順番が逆で、上記を圧縮して以下のついーとを制作した。編集の手つきの一例でもある。

コスモス、些事に拘泥する「迫りくる事物に抵抗できない」小説家志望ヴィトルドが、下宿先の家族の狂ったふるまいと、周囲に起こる災禍の前兆が織りなす聖/俗の二元対立的世界において、とめどのない連想的妄想の果てにファム・ファタールを幻視する。ズラウスキーが描く狂女はほんとうにサイコーだ!