もう間に合わない蛞蝓

ジェフ・ニコルズテイク・シェルター』(2011)。ファーストカットで風に揺れる木の葉が映しだされ、つぎにそれを見る男のカットが接続される。来るべき「嵐-カタストロフ」を察知/幻視する男のイメージだが、つまりここでは「見ること」が本作において重要なポイントであることも宣誓されている。本作は、これまで男だけが見ることのできた「嵐」が、隣りあう人物の目にも等しく映っていることが明示されることによって、物語に決着がつけられる。たったひとりで見ていたものから、ともに見る存在へ。リーマンショック当時のアメリカを舞台にした、「先の見えない」時代に生きるブルーカラーの家族が、不安につつまれた現在のなかで、いかにして未来を「見る」ことができるのか? そういう話として観た。

さて、不安に取り憑かれた男はシェルターづくりを通してそれを解消しようとするわけだが、その様子を見て思いだしたのは、園子温『希望の国』のたったひとり防護服を着て街をさまよう妊婦のすがただった。あるいは、藤子・F・不二雄の短編「あの日……」。来るべきカタストロフに対して、いかに対処するか。「イカれた人間」がその全存在を賭けて問うているのは、「狂っているのはどちらなのか」ということだ。

現在を暗くするのは何も経済的な不安や嵐の到来だけではなく、「過去」のトラウマも同様に影を落とす。統合失調症の母親にスーパーの駐車場に置き去りにされた記憶と、その母の血を引いていることからくる懸念は不安を増長させ、男を苦しめる。シェルターに籠り、外にでようとしない男に対して、妻は代わりに解錠するのではなく、自分の手で扉を開けなくてはいけないと諭すが、つまりここでは自らトラウマに向きあうことこそが焦点化されているのである。単なる物理的な解決ではなく、囚われた精神の解放を主題に編むことによって、ジャンル映画の枠組みをやぶってゆく。ある制約のなかで、いかにそれと格闘していくかは制作における重要な力点である。

また、「暗雲」が立ちこめる空はつねに頭上にひろがっており、フッテージにおける窓外の殺人現場と同様に画面に緊張感を生みだしている点も本作のおもしろポイントのひとつ。スリルをいかにして生みだすかを考えるための参考になる。

スリルということでいえば、チャリティの食事会のシーンにおける暴力の発露が映画のひとつの山場となっているが、同じ食事でも前半に配された自宅でのシーンをわたしは興味深く思った。それなりの人数で食卓を囲んでいるのに、誰ひとりとして会話をしないのである。シーン全体を通してみればいくらかのやりとりはあるのだが、それぞれが目の前の皿に向きあうだけのカットがあって、ひじょうに不気味だった。このように非直接的におそろしさを演出してくれるのはたのしく、そうした創意が映画をよりゆたかなものにしているのはまちがいない。

Today's dinner.きゅうりの味噌マヨ和え、豚ロース、厚揚げ、長芋、はんぺんの煮物。ほんとうは煮物に茗荷を入れたいのだが、妹がきらいなので泣く泣く生姜にする。わたしもべつに好きではないが、あの冴えがいいアクセントになると思うのよな。食事の折にはししゃもも焼く。ちいさいころ、やけに好きだったことをふと思いだす。


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落選したグラフィックをリファインする。落選作は見れたものではなかったので、これを完成作ということにする。応募の際にこういう発想ができていたらなあと悔しいきもちにもなるが、気に入った作品ができたのでまあよい。

ラジオ、話にひろがりがでてくるので、個別の作品に対して問いや雑談の比率を増やしていこうかなみたいなきもちになるのだが、そうするとリスナーがいない場合に放送がまわらなくなるので、とすぐに壁にぶち当たり、けっきょくは心構えというよりも回ごとの偶然性に委ねられることになるのだよなと着地する。答えのでない話をしていくなかで、矛盾にぶつかっていくのはたのしい。他者が介入することによって、ひとりで考えているだけではないところにたどりつくことができる。