焦がれた手、つなげたかった?(火を吹く石

ひとと暮らしたくないという思いの肥大化。うるさくてしごとにならない。対処法としてイヤホンを耳に詰めて音楽を聴くというのがあるが、そんなことをすれば校正作業の精度は落ちる。必然的にべつのことをする羽目になる。ところで、わたしがさきに対処すべきなのは、冒頭の「ひと」というどでかい範囲をかぎりなく狭めることである。世に生じる誤解の大半は主語デカ問題に帰結する、というここに掲げた命題自体ももちろん主語がデカい。デカいほうが思考の負荷が減るので楽なんですね。わたしもできることなら楽をして生きていたいので、そのきもちはとってもよくわかります。SNSには「気楽さ」が減ってきている気がしますが、かといってそれが皆が「思考」した末の結果なのかというと、けっしてそんなことはなく、、話はこのまま脱線していきそうなのでここらで冒頭の「ひと」に立ち戻ると、その言葉を用いる代わりに「気遣いのできないひと」というより指す範囲を狭めた語があたまに浮かびますが、そもそも「気遣い」の問題なのか?と疑問符も登場し、けっきょくは罵声が募るばかりなのでした。テレビでアニメを流しながらスマホからピアノの演奏を流しはじめたときにはさすがにあたまが狂ったのかと思いました。けっきょく寝るのにでっかい音流してんじゃあないよというきもちになります。ここではずいぶんとマイルドに書いていますが、所作のいちいちに腹が立つのでもうおわりだと思います。

編集権について。もちろん編集者によってそのとらえかたはちがうだろう。わたしも会社に入るまでは、書き手の意志を尊重して原稿に手を入れるのはあまり、、などと引け腰スタイルでいたのだが、現場でもまれているうちにそんな考えでは編集者の存在意義がないし、書き手だって育っていかないと考えかたをあらためたのだった。そもそもちゃんとした原稿を書けるにんげんなんて、ほんとうに少数しかいないのだということも、しごとをしていくなかで理解したことだった。何冊も本を書いているひとが、とうてい読めたものではない原稿を送ってきたときのおどろきたるや。かといって、わたしはつねに(例外はいちどもなかった)著者よりも年少者であり、その立場から文章に赤を入れていくのは、やる側からしても心の滅入る作業であり、受け取る側に至っては、である。なんでこんな話をしているかといえば、原稿に対して「あんまり手を入れんでくれよな!」というような指示が付されていたからで、せんじつラジオで編集権について触れたこともあって、もういちどこのことをちゃんと考えたいなと思ったのだった。というか、今回の案件に関していえば、わたしはそもそも校正の立場で参加しているのだから、編集の領域にまで手をだすなよという忠告をもらったという話に過ぎない。Exactly.とあたまを下げ、その指示を肝に銘じればよいのである/加筆:こんなことを書いておきながら、多少は踏みだしてしまうのが編集者の性……


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いざ、生きめやも、と原稿pdfを印刷してみると、データ上でははっきりと明示されている文字の8割9割が印刷されず、印刷代が!となみだを流す羽目になる。ピャッとググるに、フォントが埋め込まれてないのではという記事がでてきたのだが、プロパティを見てもすべて埋め込まれていて、いったい何が起こっているのかわからずもやもやする。画像に変換してどうにかするしかないかというところ。世間では電子化電子化いうけれども、紙で見ないと見落とすものが多いのよな。とはいえ長大な原稿をいちいち紙に焼くコストも馬鹿にならないので、電子校正のためにipad+apple pencilがほしいなあとは思ったりする。つかっているすがたを見たことがあるけれども、あれぜったい便利やんね。