翻筋斗はあもにい

和合亮一『続・和合亮一詩集』をおしりまで読む。このようにして震災直後からいまに至るまで、そのことを書きつづけることのできる体力と気力にまず気圧される。わたしは福島でゆれを体験しているといえども、詩を書きはじめたのは2013年(本書収録作は2011-13年間に書かれている)からで、なおかつ作品のなかで手応えを感じるほどに震災にまつわるなにかを言語化しえたことなどいちどもない。がゆえに、この「持続」につよい印象を受ける。この持続は、2021年3月現在までつづいている。

ついったを発表媒体とした『詩の礫』から『詩ノ黙礼』、さらには『詩の邂逅』を経て、『廃炉詩篇』に至ってようやくわたしのしっている──というよりもっている詩集(『誕生』『RAINBOW』)のテイストが全開になる。どちらかといえば当時の「ドキュメント」としての前三者よりも、わたしは後尾に置かれたもののほうが読んでいて高揚するが、付箋を貼った箇所は前半のほうが断然多かった。テイストにちがいはあれども、それぞれで目指されているものはいっしょであって、それを象徴する詩句が「詩の礫」のなかに書かれている。

私は震災の福島を、言葉で埋め尽くしてやる。

この「埋め尽くしてやる」という欲望が、和合の基本的な方針としてある。詩の書きかたにはおおきく分けて凝縮と拡散の二方向があるとわたしは考えているが、拡散の方向でいくぞという宣言である。言葉を切りつめて、たった一語で世界と対峙するのではなく、とにかくありったけの語を乱射して、世界にぶつかろうと試みること。だから以下のような語法があらわれる。

余震。揺れている。わたしが揺れているのかもしれない。揺れている私が揺れている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている私を揺すぶっている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている私を揺すぶっている私を揺すぶる。

ここではつづけようと思えばどこまでも継続することができる語の積みかさねが意味の脱臼化を押しすすめているが、では、こうした語の堆積はいったい何に懸けられているのか?

内部被曝」 恐ろしい言葉だ そんな言葉は 消してしまいたい ここはぼくの故郷だぜ そして息子の故郷だぜ…… どうか 消させて下さい その代りに ぼくの言葉を くれてやる いらないのかヨ?(「詩ノ黙礼」より)

そう、負の言葉をかき消すために、これらの「礫」は放たれているのだ。だが、じっさいにはそんなことをしても「恐ろしい言葉」が指し示すげんじつは変わることがない。どれだけ詩の言葉を積みかさねようと、放射性物質が消えることも、汚染された土地がもとにもどることはない。竹槍主義めいたヒロイズムがそこには見いだすことができるだろう。だからといって、わたしは本書を無価値の書物と断ずるつもりはない。情念はひとをうごかし、それは理論よりも強力に作動することをしっているからだ。そもそも、詩人とは「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想」をもつ者に与えられた名称でもある。谷川雁は「詩は交換されえざる、無効な対象化であるがゆえに交換性をもち、効用性をもつ」と「断言肯定命題」のなかで述べていた。「詩は蚤一匹も殺せないからこそ私的に流通し、貨幣のごとき等価交換ができないからこそ社会的に効用をもつ」のだと。

ところで、綿野恵太はいわゆる「震災詩」について、上記の吉本の詩句にも触れながら以下のように書いていた。

詩人は世界に匹敵する詩の力能を信じて疑わないが、同時に詩人みずから「妄想」と退けることによって、世界に対して無力である「廃人」であり、それゆえに世界を優越する特権をもちうる。このような無力であることをことさら自覚しながら、さらには無力さそのものを詩の主題としたのが、とりわけ震災以降の詩であり、それらの言葉を「震災詩」と呼び評価する言説にほかならないが、相変わらずそこに透けて見えるのは、やはり詩は世界と対峙しうる確信である(「谷川雁原子力(中)」)

上と下が読めない環境にいるいま、ここからさらに考えをすすめることはしないが、ここで指摘されていることは「詩人」という主体を根底からゆるがすものとして受け止めるべきだろう。わたしにもよく刺さるするどい刃である。

巻末寄稿文のうちのひとつで堀川正美に対する言及があったので、『詩的想像力』と『堀川正美詩集』をひっぱりだす。「きみの/くちびるのうえに わたしの/くちびるをあげよう わたしの/くちびるのうえに きみの/くちびるをくれたまえ(「波」)」。ラブい一節だ。いくつかの時評として書かれたテキストを読み、麻雀を打つ。このところ1着が続いており、3段までの階段を駆け上がる。


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深田晃司『さようなら』。幕引きのよさがひかっていた。ここでおわれる、という箇所でおわらないねばりづよさ。これは『よこがお』を観たときにも感じたことだった。勇気の前進。異国感のあるふしぎなロケーションもよかった。原発事故によって総難民化した日本が舞台となっているが、ずっともやがかったようなカラーグレーディング+天候選定も相まって、その設定にうまくマッチした非現実的な風景が画面を覆っていた。エンドクレジットを見るに、長野の霧ヶ峰高原がこのヴィジュアルに一役買っているようである。

劇中でアンドロイドによって朗読される谷川俊太郎の「さようなら」という詩がとても鮮烈だった。この詩のなかでは「ぼくもういかなきゃなんない」という、子から親に対する「別れ」──しかも永遠を予感させ、なおかつ「どうしてなのか」本人もわからない「別れ」の言葉が、「いつもながめてる」という慣れ親しんだ風景や、将来訪れるであろう「死」という言葉も持ちだされながら語られるが、まさに死や離別の予兆がうっすらとただよいつづける映画の質感を端的に伝えていた。映画のなかで、いかにして言葉を扱うかは重要な問題だが、この試みはとても効果的なものとして目に映った。

ほか、中盤にあらわれるシアーがかったショットの奇妙さや、水中で紙をつかんでプカーっと浮き上がる謎の虫、かつての幸せなひとときをとらえたホームビデオの映像に手で触れようとするさまなどが印象に残った。