きみが地獄に行くのをいっしょに眺めてみよう

黎明、すさまじい稲光と豪雨。窓から見えるすこし離れた家の前の電灯が青灰の薄闇のなかで煌々とかがやいており、晩にごみ出しにいったときからつけっぱなしだったなと思いかえしながら神話的・絵画的な質感を眼前から感得していた。風を通すためにすこしあいていた窓辺には、吹きつける雨によってちいさな湖沼群ができていた。

家庭内不和が起きている際のコミュニケーションのありかた。AとBはもう月単位で口を聞いていないが、Cの発語に対してA/Bがともに返答するという時間があり、ふしぎだと横で聞いていて思った。わたしがここで似た例として思い浮かべるのはソラとましろんがたがいのきもちを別人を介してやりとりするひろプリ屈指の名シーンだが、「名シーン」にはならないにせよ、同様に、「映画」となる場面だと思った。


▼ソラとましろんのサイド・バイ・サイドショット、いま思いかえしてもグッとくる
seimeikatsudou.hatenablog.com


冷静であろうとすることが冷笑につながる。愛の世紀を読みながらふと思った。しかし情熱に身をゆだねることは(ナショナル、レイス、トータルetc.)イズムの波にのまれるための過程でもあるだろう。かつてわたしが好んでもちいていた「宙吊り」概念がここにふたたび召喚される。耐えの姿勢が鍵になる。冷静と情熱のあいだってそういう本?

アラン・バディウ×ニコラ・トリュオング『愛の世紀』読みおわる。キラーフレーズがある本はその一行に出会えただけで買ってよかったなと思える。本書もそうした一冊である。たとえば以下。

愛とは、最小限の「コミュニズム」である

愛とは真に、偶然に対して寄せられた信頼なのです。

「あなたを愛している」という言葉は、世界にはあなたというわたしの幸福の源泉がある、という意味を持つでしょう。この泉の水面に、わたしにはわたしたちの、何よりもあなたの喜びが見えるのです。

しびれるね。カッコよすぎる。こういう言葉が好きだから、わたしも詩を書いているのかもしれない。しばらく前に詩人のMさんが堀川正美の詩論を引いて、わたしの詩にも「ファシズム的」なところがある、というようなことを言ってくれたことがあるが、まったくそうである。わたしは「詩」という名をもって、アジテーションとしての言語芸術をやっている意識がある(もちろん、それだけではないが、、)。


付箋を貼った場所すべてに言及していると際限なくつづいていきそうなので、いくつか抜粋してきりのよさそうなところでおえる。

マラルメは詩を、「ひとつひとつの言葉によって偶然が廃棄されて」いく過程だと考えました。愛における忠実さとは、この長期にわたる偶然に対する勝利を意味しています。出会いの偶然性が日々、ひとつの世界を可能にする持続の創造によって打ち破られていくのです。

これまたカッコよすぎる。もうこの「カッコよすぎる」だけでおわらせてしまいたい、この阿・吽の応答だけでじゅうぶんじゃないかという思いは山々なのだけれども(だからこそ?)、さっそく脱線した文を書く。以下はだいぶ前にわたしの書いた未発表のメモ書きである。

わたしにとって小説を書くということは毎行毎行物語に敗北することです。その歴史がそのまま作品となり、やがては一冊の書物になるのです。

小説なんてもうしばらく書いていないが、わたしは詩をやっているにんげんなので、こういう認識のもとで小説を書くことになる。敗北の歴史がひとつの散文としてまとまったものが、わたしにとっての小説である。このことが、マラルメの言葉、転じてバディウの言葉を読んでいて思いだされた。「偶然が廃棄」の箇所を読むと、シュルレアリストたちってマラルメを乗り越えようとしていたのかな?とかまた話がずれていくが、そうやって自身の考えが書かれてある言葉によって照らしだされる本は、印象深い読書の経験をわたしにもたらしてくれる。もしくは、べつの本に書かれてあることが、異なったやりかたで書かれてあるときにもわたしはうれしいきもちになる。

芸術だけが、「出来事」の強烈な力を再構成し、また再構成しようと試みることができるのです。芸術だけが、出会い、蜂起、騒擾といったものの可感的次元を再構成できるのです。

上記の文は、以下の文をわたしに想起させた。

芸術は結論であることをやめた。反対に、芸術は、ひとつの前提条件なんだ。喜びなくして、詩学なくして、もはや革命などありえないだろう。繰り返すけれど、芸術は革命に先んじるものなんだよ。(トニ・ネグリ『芸術とマルチチュード』)


または、以下。

政治の問題とは、愛ではなく、憎しみを管理することなのです。そして憎しみとは、敵についての問題がほとんど不可避的に引き起こす情熱なのです。

これは埴谷雄高-シュミットの友敵理論(「やつは敵である。敵を殺せ」)が立ち上がってくる。

愛の思考とはやはり、あらゆる秩序に反し、法のもつ秩序としての力に抗して生み出される思考のことです。

なんて、「蜂起とともに愛がはじまる」(廣瀬純)ではないか! そんな「蜂起」をテーマに据えた個展をわたしはいまやっているので、ぜひ来てください。



展示は明後日8/31までです、明日も最終日も在廊してます、ぜひ遊びにきてください◎◎◎


▼展示の詳細はこちら、なんども貼ってうるさいが、しかし来てもらいたいものは来てもらいたいのである

https://www.tumblr.com/seimeikatsudou/723504641322713088/bolnights
seimeikatsudou.tumblr.com


夜、じゃがいものサブジしらすすじこ、もやしのナムル、ひき肉茄子トマトのナツメグ&カイエンペパー炒め。うまい。


▼オモコロのこれ、読んでいてこちらまでとんでもなくうれしいきもちになった、みくのしんの読書の新作もよかった
omocoro.jp


制作、放置していた中途半端な作業画面からグッと思考がのび、ひとつ完成する。昨晩のインターネットサーフィンがバチバチに影響した作品になった。

ラジオ。調子に乗って事前に内容予定の項目を増やしつづけた結果、数々の話したいことが省略された挙句に尻切れとんぼになっておわり、30分の限度を身を以てしることとなる。

TABに展示情報を送ったら翌日にはあっぷされていてそのスピード感にビビった。ありがたいことだ。ジャンルは複数挙げておけばよかったと掲載されてから思った。

夜、ちくわピーマンチーズの昆布ポン酢かつぶし炒め、豚ピーマン筍の豆豉醤生姜炒め。うまい。オイスターソースがほしかった。

ひろプリのサントラがサブスクで解禁されていたので聴く。「ランボーグ出現」にあまりのキュアメタルさにわらってしまう。弦楽にはシンフォニックメタルみも。これちゃんと劇中で流れてる? つづく「激闘の嵐」もツーバスドコドコスラップバキバキでサイコー。ホーンもいい味をだしていて、キング・クルールのライヴ映像を思いだすなどした。深澤恵梨香はFの劇伴も担当しているのでますますたのしみになった。