むすばれることのなかったたましいだけに語る

隣に座った写真家のお姉さんなどにもたのしげに絡まれながらビールを飲んでいると、関西方面から来たという現役の院生Mさんと彼の友人Yさんが展示が気になってと来店。わたしがついったにランシエールがどうの、と書いていたのをきっかけに来てくれたそうである。基本的に「きれい」とか「この作品が好き」とかそういう感想(これらもひじょうにうれしく、ありがたいものであることに変わりはない)が大半のなか、それぞれの作品の顔が匿名化されていることの「交換可能性」がどうとか、「労働者の手が一色に塗りつぶされている」とか、かなり突っこんだ話をしてくれて、刺激的な一夜を過ごすこととなった。相手がそのような意図で発語したのかはしれないが、制作における倫理の話にも触れることとなり、ふりかえってみれば「現代美術」として作品を作る際のわたしはつねに「加害」的なアプローチでものをつくっているなと思った。これはこの日の翌日Oが展示を観て言ってくれたことと関連するかもしれない。「先日観たグループ展は内省的な作家・作品ばかりだったが、この展示(わたしの展示のこと)はそうではない(歴史性への言及がある?)」、だから「(他者に対して)怒りとかあるの?」と尋ねられたのだった。べつに制作時には怒りはない気がする、、が、ふだん生きている際には怒りはある。さいしょの展示も根底には怒りがあっただろう。他者の倫理をゆさぶるために、わたしはこのような方法をとっている。そう言える。ハネケが背後に立っている。見た者の感情をかきみだす傷を与えること。ブスケも立っている。毒にも薬にもならない表現を(他者ではなくこのわたしが)やってどうするのかという意識がある。


▼さいしょの展示の概要

https://www.tumblr.com/seimeikatsudou/114825187739
seimeikatsudou.tumblr.com


▼こういう「怒り」が自身のうちに起こることもかなり減ったような気がするが、作品制作における「加害」への意識はここで書かれてあるようなマインドと通じている気もする
seimeikatsudou.hatenablog.com



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話変わって、この夜話したことを踏まえて考えたことを備忘録として書きつけておく。作家の意図について、以前こんな記事を書いたことがある。作品の完成後には作家の意図なんてものはどうでもよくなるという話だ。さらに論をすすめれば、「作家の意図」は、作品をつくる際の「つくり手にとっての手がかり」としてあり、それ以上でも以下でもないということだ。作家がそこに意味をこめていたとしても、作品はミステリではない(もちろんそういう作品もあるだろうが)ので、その「謎=意図」を探ることを第一に作品を見つめられても困る。こういう考えをしているから、『君たちはどう生きるか』を観おえたあとに見かけた若者が「つまりあれは○○のメタファーで」と話しているのを苦手に思ったのかもしれない。ここで書いていることは構成の話にも通じるかもしれない。以下は以前ブログに書いた文。

ひとが「すぐれた構成」というとき、そこで「正解」とされる構成はすべて似たかたちをしているのではないか?という疑問。秩序だち、巧くつながりがむすばれ、無駄が省かれたものだけが「よい」とされている風潮に抗いたい。雑然とした、余計なものが至るところからはみだしている混沌としたコンストラクションだって「すぐれた構成」のひとつのモデルとして考えることができるはずだ。これは詩手帖の選評で文月悠光に自作が言及されたときからずっと考えていることだ(結論はともかくその指摘はただしい!とも思った)。構成力の尺度がひとつしかない空気をぶちこわしたい。


「物語に配置されたあらゆる要素が、その物語に奉仕するために置かれている、そしてそれがよいこととされている」という風潮に対して文句を言っている記事もいくつかあるはずで、それを展示に引きつけて言えば、「展示会場に配置されたすべての作品が、ステートメントに奉仕するために置かれている」必要はないのでは、ということだ。作品はステートメントの挿絵ではない。ステートメントを「作家の意図」と言い換えれば、作品がそこからずれていたっていいということだ。とか書いていて、自分が展示を観に行った際に「正解」のまなざしを走らせてはいやしないか?とも考えた。キュレーションに文句をつけているわたしを思いだす。でもそこで論われているのは個々の作家ではなくキュレーターである。「個展」と「(複数作家の参加する)企画展」のちがいがそこには見いだせるかもしれない。このようにして思考がのびるきっかけとなる会話を為せるのは幸せである。多謝。