くそばかに対するたたかい

これに尽きる。くそばかと名指してしまう回路自体も問題かもしれないが、世のなかにはくそばかがそうではないという顔、むしろかしこさをあたかもにじみだしていますよというような素振りをして悠々とのさばっているのである。参院選直前であるいま、無数の政治的ツイートが(発話者本人にとってはともかく、そもそも政治的でない言動などあり得ないが)わたしのタイムラインを飛び交っているが、そこで非難されている事象、あるいはその非難から生じる新たな摩擦や、そもそもの「どこに入れたらいいのかわからない」「どこもまともなところはない」といったようなふぬけた発言自体にいらだつばかりである。「世のなか」という範囲づけがおおげさだというのであれば、わたしの見聞してきた身のまわりといいかえてもよいが、そんな小手先の予防線など必要ないくらいにそうとしか思えないし、少なからぬ同意の念をあなたはいま胸のうちに感じているのではないか。そこに罪悪感や良心の呵責と呼ばれる「教科書的規範」からの要請による人間性をたもつためのブレーキがかかっていたとしても、そんなものは幻想であり、コミュニケーションの弊害となる脱ぎ捨てるべき鎧であると、現在のわたしは思っている。


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いわゆる「無差別殺人」が起きたとき、テロリズム肯定派としてはつねに加害者の立場をとる気構えがある。出来事に対するかなしみや、やるせなさ、怒り、どよめきにみたされ、反射的な反応に終始する被害者側の視点しかないにんげんのことをわたしは信頼しない。そこで起きたことよりも、そうしたひとたちが大半だということにおそろしいきもちになる。何もかもがあきらかになるまえに次々と放たれる「狂人」「キチガイ」「サイコパス」「不良品」といった犯行者への蔑称……。なぜ自分を蚊帳の外に置くことができるのか。なぜあなたとわたしをそんなにまで切り離せるのか。その距離こそがひととひとのあいだに横たわる断絶であり、殺戮の現場ではないのか。他者を理解することなどもちろんどこまでいっても不能であるが、そこで即座に理解できないと簡単にのたまえる思考がこわい。わたしのテロリズムへの信頼は、人間への信頼に基づいている。わたしはあなたを信じたい。人間の力能を信じていたい。だけれども、まさにあなたとわたしの距離の遠さをまざまざと見せつけられるような発言を日々読んでいるうちに、そんなきもちをもちつづけるのももう無理かなと思いはじめてしまっている。

そもそも「無差別殺人」などあり得ないことだ。心神喪失だろうがなんだろうが、殺意の矛先が何かしらのかたちで設定されたがゆえに故意の殺人は起きる。ここで重要なのはいかにして敵を見定めるかである。テロと単なる殺人はその判断によって分け隔てられる。分け隔てられるといっても、あらゆる行為は政治的な意味あいをはらまざるを得ないという立場をとるとき、ふたつを分かつものは本人の自覚の有無しかない。ここでおさえるべきは、論理と行為はまったくのべつものであると認識することだ。論理は感情に先立たない。

こんなことを書きつらねていたらまたも「大量殺人」が国内で起こってしまった。しかも、明確な殺意をいだいたうえでの、敵を見据えた殺人である。まだあきらかになっていない犯行の動機や、犯行に対するさまざまな言論をさしおいて何よりもまず、ただただやるせないきもちになる。テロを肯定することと、殺人万歳はイコールではないし、死者を悼むこととも両立は可能である。だれにも死んでほしくないきもちも、テロリズムが救済や変革の一歩になりうると信じるきもちも、ともにわたしのなかに併存している。よりよい世界をつくるために、わたしたちは矛盾をかかえながら思考しつづけなければならない。

分断を煽るな、という論調の記事をさいきんよく目にする。ネットであろうが、路上であろうが、あらゆるヘイトスピーチが声高に放たれ、想像力の欠けた発言がまいにちのようにだれかを傷つけている。男/女、老/若、貧/富、右/左……。現在が分断の時代であることはまちがいないし、わたしがいま書いているこの文章も、だれかを傷つけるものとしてあるだろう。わたしはそれを回避しない。1wallのキャプションに書いたことのくりかえしになるが、「たがいに傷つけあわないための器用さではなく、やさしく傷にふれあう繊細さを選びと」りたい。むろん、わたしもその分断にいらだつまいにちを送っている。だが、いま問われるべきはいかに分断を防ぐかではなく、いかに分断線を引くかではないのか。ろくでもない出来事ばかりが起こる今夏、その思いは日ごとにつよくなるばかりである。

(180日前に書きはじめた思考の記録として)