消された記憶の残存形象

なぜなかったことにするのか? 確実にそこにあったものごとを、われわれの記憶に存するその何にも代理されることのない出来事を。それは「ふたり」の結束を隠蔽するとともに、より強固にするまじないともいえる。意味づけは隠されることによって強調される。肌が衣服によって覆われることによって官能性をたたえるように。けっして表沙汰にはならない結合の時間が、それぞれの人生の一場面を占有している、そのことの尊さをかみしめる勇気がきみにはあるか? にどともどってこないやまびこが似た峰のはざまをかけめぐっていく。わたしはそれを谷の底できいている。そばにはだれもいない。それが自己として生きるということである。きみの深い谷底にもその声がひびいていることを願う。

思想に興味はあれど思想史には興味がない。史的なものに対する嫌悪? 史よりも私をとりたい。体系的に学ぶ、ということができない。鉱脈的に学ぶ、ということはわかる。つきあたった鉱山から、それにつらなるべつの鉱山へ。「気風の持続を負う」(稲川方人)のもわかる。感動する。のだが、あらゆる時空がフラットなものとして知覚される現代において、リニアなものとしての歴史を負う困難を感じる。単に不勉強であり、勤勉でないことのいいわけに過ぎないのかもしれないが。あるいは、生の時間に即した時間的パースペクティブのなさもあるだろう。わたしは90年代以前を体感的にしりえない。00年代も辛うじてという気がする。長らく積んでいる『シミュレーショニズム』、読むか。これまで読んでこなかったあずまんもきっと助けになってくれる気がする。

「ひととしてどうかと思う」といういいまわし、つまり安いヒューマニズムの要請。これはそこに流れている論理をうやむやにする都合のいいものとして召喚される。対象の人物の言動に対して、あるひとつの常識的、模範的人間の型を対置し、断罪あるいは称賛する。もしヒューマニズムを徹底するのであれば、そのつきあたる先はテロリズムにほかならないとわたしは信じている。この対極にわたしは倫理を置く。倫理の徹底とは、すなわち自殺である。この両極を絶えずうごきつづける振り子であることが、革命主体の条件でもある。人間への信頼と疑いのはざまで、なんどだって宙返りする。

ここでの「ヒューマニズム」という語のありようは危ういと思う。もう少し言語化と勉強が必要だ。

(「人間が書けていない」というクリシェへの反発もこの「安いヒューマニズム」の構造が関与しているのではないか。リアリズムへの反感もそこにははたらいている)

語のありよう、すなわち用語法。ハイコンテクストに対してはローコンテクスト、ローコンテクストに対してはハイコンテクスト、といってみる。さながら工作者のように。われわれは複雑を複雑として生きねばならない。単純さえも複雑に、われわれは幻視者、われわれは幻聴者、われわれは……。