新鮮なきもちでなんどでも怒りなおす

展示ステートメント、ひと晩経って細部が磨かれ、ほぼ最終稿がしあがる。ステートメントが書き上がるということは、展示の背骨が完成したも同然なので、作品の制作自体は停滞しているが視界はやけに明るい。なお、今日の制作は全ボツ。これだ!という素材にたどりつけないでいる。

中元で送られてきた桃、圧倒的にうまい。まいにちかじりつきたい。

暑い。室内でも暴力を感じる。2階で昼寝するのが好きなニャンたちも、ひと通りピャッとパトロールしたらすぐに1階にもどって床にへにゃりととけている。

制作、やっと光明が見えはじめる。浮かび上がってきたワードは「対」と「ウォーホル」。当初想定していた「3日」ではどうにもならなかったが、あと2-3日でおわりまでたどりつけるはず。

プチトマトを昆布ポン酢に漬ける。

夜、ヤングコーンの唐揚げ、鶏胸肉のトマト大葉茗荷だれ、鶏出汁わかめスープ、冷凍きゅうりのポン酢和え。うまい。ヤングコーン、めんつゆと酒にしばらく浸けて片栗粉をまぶして揚げただけだが、髭から根元までぜんぶパリポリ食べられる逸品だった。冷凍きゅうりはさいあくの食感。まだ数本あるがどうやって調理しよう。

止まっていたワークに進展があり、フィニッシュに向けたさいごの作業。さいしょに考えていた案がじっさい当てはめてみると微妙、という印象で、しばらく手をうごかして改案。うまくいけば明日入稿となる。

明朝4時半、ベッドの上でネットサーフィンをしつつ考えごとをしていると背中をたたくものあり。ニャンはエアコンの効いた1階でねむっているのでこの部屋にはほかにだれもいないのだが、、とまわりを見わたすと窓に向かって壁を這い上がる何ものかが裸眼に映る。視力がおわっているのでそれがいったい何なのかはわからない。指の先で眼鏡を探りながらわたしの脳裏に浮かんでくるのは先日の同様の体験で、なるほどロールカーテンをめくれば一匹の蛙がぺったりと張りついている。侵入経路をおしえてくれーー、と念を送りながら窓から逃がしてやる。蛙はどれだけ高い場所から落下してもつぶれない。


▼先日の同様の体験
seimeikatsudou.hatenablog.com



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夜、茄子の焼き浸し、ハムチーズエッグ、トマト・きゅうりのピクルス、だし、鶏むねトマトだれののこり。うまい。冷菜もりもりにしたので夏を感じる。

うまくいかなかったので今日は入稿日にならず。再調整に奮闘する。

2年ぶりにネットラジオを再開する。初回は一定時間話しつづけるためのリハビリのようなものだった。毎週水曜の24時半頃から30分間放送しているので聴いてください。だれも聴いていなくても枠がおわるまでは虚空に向かってひたすら話しつづけています。人生はつねにそのようなものです。とりあえ2023年中はつづける予定です。


▼ここから聴けます、アーカイブはのこりませんのでオンタイムにどうぞ、インスタでの同時放送はやめました
https://twitcasting.tv/c:seimeikatsudou


毎週ラジオがあることがわたしのうちがわにひとつの規律を植えつけます。「おまえは読ま(観な/聴か/考え……)なくてはならない」。毎週なにかしらについてきちんと喋るために、そのような命令がくだされます。なので、数日前から枕もとにひっぱりだしていたアラン・バディウ×ニコラ・トリュオング『愛の世紀』を読みはじめます。2008年にアヴィニョン演劇祭でおこなわれた対談をもとにした一冊ですが、さっそくこんな一節にぶつかります。

「死者ゼロ」の戦争、「リスクゼロ」の恋愛、偶然もなければ、出会いもない。わたしはそこに、広汎な宣伝という手段を用いた、恋愛に対する最初の脅威を見るのです。それを、セキュリティーを求めることによる脅威、と呼ぶことができるでしょう。(…)その事前調整は、リスクの不在という根本的カテゴリーを名目とし、あらゆる偶然、出会い、そしてついに生存に関わるあらゆるポエジーを回避するのです。

「Meetic」という出会い系サイトの台頭を受けてのバディウの語りです。ここで話されていることは現代における「法制化」や「自粛」といった運動にも通ずる話として目に入ってきました。「安心」「安全」というお題目のもとですすめられるジェントリフィケーションや明文化(次の記事で触れる選挙公報でもその字句を目にしたが「見える化」ってカスなのかもしれないと思いはじめてきた、わたしがいらだっている「数値化」と変わらないじゃないか、いやシャドウワークの可視化とかは断然いいと思いますが、、)といったグレーゾーンの破壊は総じてクソであるということです。「愛とは真に、偶然に対して寄せられた信頼なのです」とバディウは述べています。めちゃくちゃいい言葉です。この言葉の前に付してある「もし愛が、相互の利益の交換とは考えられず、利益を生む投資としてかなり前もって計算されたものでないとすれば、」という前置きは、すなわちマッチングアプリ的恋愛と言って差し支えないでしょう。バディウはこの時点で出会い系サイトは旧来のお見合い結婚と変わりないと喝破していますが、AIによるマッチングでさえ「ふつう」におこなわれているいま、その指摘はまったく正しいものとしてわたしの目に映ります(さいきん目にした記事内のアプリ利用者の声〈利用中の女性は「マッチング相手がAIがおすすめした人に限られ、探す手間がない」とメリットを指摘〉……)。そして、こうした文化の増長は「生存に関わるあらゆるポエジーを回避する」。AIによって決められた相手と結婚し生まれた子供が、AIの選択によって決められた学校に通い、マッチングサービスをもちいて友人をつくり、人工知能おすすめされた企業に入り、ふたたびAIによって選ばれた相手と結婚する。なにもかもが決まりきったレールの上だけでくりひろげられる人生、、そんなものはくそくらえだと、唾を吐いてやりたくなりますが、それはもはや(もとから?)少数派のふるまいなのでしょうか。


▼上で触れたようなことはここでも再三書いていますね
seimeikatsudou.hatenablog.com


マッチングアプリに対するキレ、こういう感情がこの本を手にとらせたのかもしれない?
seimeikatsudou.hatenablog.com


夜、インゲンのトマト煮、ハムそせじの類とキャベツの蒸し煮、だし、きゅうりのライタ。うまい。

入稿。ようやく登頂だ。エラーがないといい。

制作は捗らず。好調だと豪語していた数日前が早くもなつかしい。手もうごかないのでOSのアップデートを済ませて自室へ退散する。