ハウ

つくり手の意図について。どこでその意識を切り離しているのか。Aという作品をクライアント(依頼主)Xに見せたときの、つくり手の意図の重要性(重要でないという値も含めて)? 手を離れた時点で、つまりはそののちに加筆修正があろうともいったんは「完成」となった時点で、それをつくったわたしの意図などはどうでもよくなり、あとはもう観る者の解釈の領域に作品は手渡されるのではないのか? そこでは、わたしはつくり手としてそれをながめるのではなく、クライアントやそのほかの鑑賞者や読者とおなじひとりの解釈者として、そのAの内実を見定めようと感覚をはたらかせるのである。そんなことを、ここのところの経験と、戸田ツトム×鈴木一誌『デザインの種』を読みながら思った。本にそんなことが書いてあったわけではなく、書かれていた文字がもとの文脈から切り離されてわたしの思考を促し、このテキストを書かせたのだった。本を読むことは、そこに書いてあることをまなびとる以上に、書いていないことにも思惟をのばしてくれる効果がある。そう、本棚にならんだ背表紙から発される念波を浴びるだけで、人体に霊感作用があるように。こういう話をラジオでしてみるか?/加筆:した。

デザインの語彙について。SNSにあふれる役立ちハウツーまたはチップスの波はデザインの領域にも押し寄せていて、たとえばイラレやフォトショの小技のようなものに対してわたしもへえと思うこともなきにしもあらずであるが、そんな「単語」をふむふむいいねとやっているだけでデザインのちからはつきようがない。読み書きの基礎がそうであるように、デザインにおいても「読解」が第一である。とまで書いて、単語の獲得は読解力の養成につながるなと思いなおした。単語を増やしてボキャブラリーを増やすという目的の誤りをこそ、わたしはここであげつらいたいのだろう(ほんとうか?)。デザインの語彙は、条件や制約との格闘(読むこと)によって獲得されゆくものであり、単語先行での語法では……こんなことが書きたかったのか? モチベーションが消滅した。愚痴っぽくてやんだこと。


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きのうのサラダに米と焼いた肉を投げ入れ、それをまた腹のなかへとほおりこみ、家を飛びだしてもろもろの手続きをしに役所へ行く。行くまでがめんどうだが、行ってしまえばみなやさしいのでなんとかなる。複数の案件を同時に投げ、暇そうな空間に約90分の煩雑さを与えた。感謝。

夜、肉巻きズッキーニのレモン醤油ソース、白菜のゴママヨ中華和え、玉ねぎ卵のカレースープ。三品もつくるパワー。なんにもしていないからな、、はじめてやったが、ズッキーニに肉を巻くのはアリだった。レモンとの相性もばつぐん。スープは家にあったキーマカレー用のルーを溶かしこんだもの。尖った味で、あまりスープには向いていなかった。明日は肉まんをつくる。包子!

深夜、小説を書く。ここにあっぷするみじかいものです。また毎月書いていきます。