もうおわってもいいかい(返事はいつまでもない

みやこまちクロニクル33話、ひとりでお風呂に入れなくなってしまった父の陰茎をタオルで洗ってあげるコマの「勃たないよな…!?」、わらってしまった。いや、わらいごとではないのだが、しかし日常のユーモアのひとコマが漫画のコマとしてバキバキに屹立していた(ちんちんはしぼんだままだった

同世代(+-3あたりをそう呼んで差し支えないと思っているのですがそんなことないですか?)のデザイナのなかでもっとも「いいデザイナだな、、」と思っているじんぶつからついったをフォローされ、oh...となる。いったいなにがきっかけで、、いんすたもそうだが、さいきんはデザインをやっているようなひとからフォローされることが多い。いったいなにがきっかけで、、(感謝の念、

書店で作家の特集がなされ、そこに作家自身の手による選書棚ができるという状態、たのしそうでいつか自分もそんな僥倖にあずかりたいと思う。選書っていいよな、、

制作、やっつめ完成す。モチベーションは高いがやる気はないみたいな、そんな状態にある。ひとつ入稿もおえる。

夜、キャベツ玉ねぎ豚の蒸し焼きバターレモン醤油ソース。うまい。

イデア浮かばず、素材の収集に充てる。

朝、豚ナストマトのハリッサ炒め。うまい。

ワークの成果物がとどく。背がけっこうずれていて「おう?」という感じだが、概ねいいしあがり。デザイン段階でのミスが一件あり、落胆。

夜、そうめん。つゆは牛肉トマト玉ねぎ生姜を酒みりん酢醤油昆布ポン酢水で炒め煮したもの。うまい。

ひろプリ27話。ワクワクレッスンモード回。エルちゃんがミラーパッドをいじった結果、4人が鏡のなかに吸いこまれ、とつじょはじまった試練をたがいの「得意」をシャッフルした上で受けることでおたがいへの認識を更新し、パートナーの絆を深めるという構成。ツバサが受けるはずだった飛行機クイズに不正解を連発して「サゲ〜」なあげはがかわいい。OPのメイクカットを回収するソラのメイクレッスンもいい。ましろんのイマジナリーソラに代表されるようにそれぞれの相方を想像しながら試練に励むさまがよかった。最後の試練としてのバトルにくりひろげられるキメ技ラッシュも販促および見応えバッチリ。お盆の時期ならではの演出である。EDキュアは誕生日を2日後に控えるキュアバタフライ。作監に8名の名前がならんでいてビビった。プリキュア史上初ではないか?



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制作、牛歩ながら漸進。あとよっつと半分をしあげれば当初の想定の数が揃う。

母の友人Nちゃん夫妻から大量に野菜がとどけられる。トマト・じゃがいも・茄子・オクラなど。インゲンもあったのでスァンドウジャオの第2陣がしこめる。おれも畑を耕したい。

夜、キャベ豚のあまりに牛肉を足してハラペーニョタバスコとマヨをかけて丼に。うまい。

深夜まで制作の準備をすすめ、小茄子を漬けて明け方床につく。

夜、キャベツとささみの3種和え(トマト+ハリッサマヨ、味噌マヨ、塩わさびマヨ)、鶏出汁わかめスープ、氷見豚のにんにく醤油ソテー、茄子のレンチン浸し。うまい。ハリッサマヨはケバブの具材という感じ。ゴーヤも漬ける。塩もみの上、砂糖・酢・昆布ポン酢。苦味が弱まってくれるといいが。

ニャンが2階のわたしの部屋から1階のリビングまで靴下をくわえてはこんでくるのをここ数日で3回も見た。3日ともちがう靴下で、すべて洗濯済みだが、はたして匂いがのこっているのか。愛らしい行為である。

グレタ・ガーウィグのインタビューを読んでいたらナルニアの監督に決まっていると書いてあり、マジかよとなる。原作は途中まで読んでいたし、映画版1作目も映画館で観ている。もうひと月以上も前に発表されていたようだが、まったく耳に入ってきていなかった。それにしてもこんなかたちで注目が集まってほしくなかった。観てもいない映画に作品内容とは関係のない観点から低評価レビューをつけてるにんげん、総じてクソである。

制作、ひとつしあがる。当初のコンセプトからずれすぎるか?という躊躇があったが、わたしは「雑なるもの」を志向するにんげんだしな、という自信の性質に鑑みてまあいいかということにした。ちょっとくらいはみだしているほうが愛嬌もある。そもそもその「はみだし」こそが大事であるとテーマを読み替えることもできるはずだ。

ラジオ第3夜。勘がちょっとずつもどってきた気がするとおわってから思った。時間配分はまだつかめていないので、おわり際は前回に引きつづいて鬼の駆け足になった。なぜか30分で放送が切れなかったが、コメントが盛り上がっていたわけでもないのでそのまま手動で終了した。ツイキャスのしくみ、ちゃんと学びたい。

3回やって放送中の来場者数が10-11を低空飛行しているが、(そしてこのブログもそうだが)誰にも見られ/読まれないものをいつまでも継続するちからがわたしにはある。見られる/読まれること自体が問題なのではなく、そこで起きる接触の深度こそが問題なのだとかつて詩を書いていたときに考えていた気がする。そもそも、わたしにとってのラジオやブログは、そのメディアを用いることでの思考の深まりや〆切の誕生にこそ意義が置かれているのではないか。

ラジオで上記の『推しの肌が荒れた』にも触れたが、たとえ薄っぺらい感想であってもブログにまとめてから喋ったほうがつらつら喋れるなと思った。そんなことはs1の経験でわかっていることなのに、制作に追われていてそんな余裕がないので上記の感想はラジオがおわったあとに喋ったことを思いかえしながら書かれた。ブログはのこるが、ラジオはのこらないのでまあこれでいいのかと思いなおした。のこらないものにちからを入れるのも愉快なことではあるが。わたしが日々記録をつけているつくった料理も、ものとしてはのこらない。書きつけられた言葉と、食べたという記憶だけがのこる。