わたしと過ごした年月が疾うの昔に追い越される

島口大樹『鳥がぼくらは祈り、』。中上健次に「海へ」という初期短編がある。小説から詩へと自身の読み書きの現場を移しつつあった大学生のわたしがその頃に書いた小説を読み、劇作家のHさんがすすめてくれたのだった。小説のなかに詩への憧憬・跳躍があり、なるほど、この作品が想起されたのはうれしいしわかるな、と読んだ際に思ったものだが、本作を読んでいてそのことが思いだされた。べつに似ているとかではなく、「詩と小説」を考えるような読書だったという話だ。巻末の解説で古川日出男が本書の題を「詩集のようなタイトル」と評しているのに比して、本作は4人の高校生を主人公に据えた移人称的テクニックが多用されているとはいえ、詩の言葉ではなく小説の言葉で書かれている。その対比、すなわち、〈小説の言葉は滞留し、詩の言葉は流れる〉ということを、本作を読みながら考えていた。持続と瞬間、あるいは水平と垂直(ともにベルクソンバシュラール?)のちがいと言ってもいい。たとえば、以下の文。

高島は口を開けなかった。立っている、と考えていた。自分が立っている、と考えたのはそれが瀬戸際で保たれていたからだった。身体の内部で引力が生じてそのまま特異点となり飲み込まれてしまいそうだった。

このように、ちいさな歩幅で同じところをなんども踏みかためていくような歩行が、この小説の歩みかたであり、持続の技法のあらわれである。友人の問いかけに対してなにも言葉がでてこない状態をあらわす場面だが、単に「答えられない」などと一語によって解決を試みるのではなく、その事実を、その場に深い穴を掘りすすめることで表現する。この持続のムードは、以下のようにも出現する。

各々の理由はどうあれぼくらは住み飽きていい思い出もとくにないこの土地でただのらりくらりしているだけで鬱憤が溜まるというか、ただ日々をやり過ごしていくだけの日々に摩耗してしまって、詰まるところ何かしら欠如したぼくらは、いや誰もが欠如を抱えながら生きているのだろうが、それに後ろ髪を引かれ続けて自分が今立っている場所も未来も正しいかたちで見ることのできないぼくらは、何かしら手を動かして自分自身でその欠けた部分を補い続けないと、一般化普遍化された世のしきたりや生活に追い越されていつかは埋まってしまうという強迫観念があって、でもそれがあるからこそぼくらはこうして今、場を空間を共有することができているのだけれど、そんな中ぼくらの中でぼくだけは特になにをするでもなく過ごしている。

9つの読点によってだらだらとつづけられたこの一文には、地方に生まれ育ったユースの鬱屈したマインドと、その共有による「ぼくら」の連帯が描かれているが、その「だらだら」(つまり持続)にこそ「ぼくら」が棲まっていることが暗示されている。たった一文のなかに4度も「ぼくら」が用いられるこの文は本書の前半に置かれているが、まさしく作品の主人公が「ぼく」だけではなく、「ぼくら」であることも宣言している。そうした迂遠的な文のつらなりのなかでひときわわたしが惹かれたのは、「ぼくら」のうちのひとりと、その彼に自身の自傷行為に触れられた「ぼく」が会話するシーン。

「ぼくのせいだから」
「俺も似たようなもんだよ」

直後、「余りに情報が少なくそれでいて月並みな会話、記憶に溶けていくほどの安っぽい二言の裏側が奥にぐんと伸びた。果てしなく広がった。それはぼくらの歴史だった。切羽詰まってその言葉を選び吐き出してしまったことを無意識のうちに山吉とぼくは了解した。言葉が足りないと自省したことを互いに悟った。ぼくは山吉の過去を垣間見、山吉はぼくの過去を垣間見た。ぼくが思い出しているぼくと山吉よりもさらに遡ったところにいるぼくと山吉が邂逅した」とこのやりとりがそのうちに含む「内容」が説明されてしまうものの、この「二言」の「裏側」には、まさしく「果てしなく広がった」「歴史」がある。そのことが、こんな説明なんてなくともきちんと読者には伝わる。その「信頼」をよいものとして著者と読者のあいだにむすびつけることは、はたしていまの商業出版の世界ではきびしいのだろうか?

「この『歴史』を瞬間的・垂直的に伝達させるものが詩の言葉であり」云々と書きすすめようともしたが、なんかちがう気がしたので、上に書いたようなことを関連しそうな和合亮一の詩について触れた以下の記事を代わりに貼っておく
seimeikatsudou.hatenablog.com


アゴム、もといビアードゴムがどこかにいってしまった。心当たりの場所はすべて確認したが、どこにも見当たらない。食事を摂る際にかなり困る。いったいいずこへ。買いなおすのであれば、かわいいやつがほしい。ボタニカルな感じの、花を植えたい、髭に、花を、草花を髭に。

ラジオ。これまででいちばんいい感じに話せた気がする。が、視聴者はこれまででいちばん少なかった。よかったものを、すでにブログでいちど言語化させた上で話すのがもっともいい語りになる。と言いつつ、ウリのはずの「脱線」がうまくできない場面がいくつかあったのでそれは次回以降の課題。流暢な語りを意図的に破壊する意志をもたねばならない。

だいぶ放置していたフライヤーデザインの制作ノートの執筆に着手。3ブロックのうち、最初のブロックの草稿をしあげる。来週くらいには完成させたい。

阿部卓也『杉浦康平と写植の時代』読みはじめる。杉浦事務所のあったマンションと、写研のビルをともに手がけた建築家・芦原義信の存在をタイトルに挙げられたふたつの固有名詞をつなぐ存在として冒頭にもってくるその導入の手つきにまずしびれる。編集的連接の発揮された卓越のオープニングシークエンス。読みすすめていくのがたのしみ。

夜、チキンカツ(惣菜)、きゅうりのピクルス、チーズ、鯖フレーク。うまい。食材が切れかけているのでだいぶ手抜き。



たくさんの的vol.9、発行できるのは本日10/17の23:59:59まで! この記事が公開されて1時間の猶予しかありませんが、すべりこんでくださるとハピハピハッピーです


▼デジタル版はこちら
naoremora.booth.pm


制作ノートをすすめつつ、東京滞在記の執筆も並行しておこなう。前半の記憶なんてすでにだいぶ薄れているから書くのがたいへんである。片方に行き詰まったらもう一方に手をつけ、また行き詰まったらもとにもどる、をくりかえして制作ノートの第2、第3ブロックの下書きの下書きまで完成させる。下書きの下書きとは、書き入れたい要素を文法やつながりを無視してとにかく詰めこんだもので、これを切ったり貼ったり足したり削ったりすれば草稿が完成するという次第である。滞在記の方は本や映画の感想がノータッチでのこっており、このままだと更新日に追いつかれそうでまずい。

夕、レトルトハンバーグ丼。ふつう。

もりもり寝、もりもり書く。昼寝の最中、ニャンがふとんに潜りこんでき、もうそんな季節なのかとうれしく(?)なる。かわいいやつである。

夜食にグリーンカレー(レトルト)うどん・唐揚げ(惣菜)トッピング。うまい。が、辛すぎる。GLOBO FOODSというメーカーの、現地のお土産。食中、なみだも鼻水もだだもれ。食後しばらくしても胃が熱を帯びていた。

明け方までかかって制作ノートの草稿を完成させる。まいかい3つの引用文をもってきて3段落で記しているのだが、今回はこれだ!という感じでテキストを引っぱることができておらず、その点でいまいちな手応えになっている。

昼、唐揚げ(惣菜)丼。うまい。

文フリ参加が消えたぶん(?)、今後刊行されるであろう制作物の予告グラフィックをつくる。だしますよと公言することによって自らの退路を消すためでもある。いい感じにかわいいのができる。これをくりかえして詩集の出版費用を積立てることはできるだろうか?

夜、唐揚げ(惣菜)豆腐山椒チーズうどん。うまい。両親はでかけており、祖母はショートステイ中なので数日は炊事を手抜きできる。