はつめい家卍くん、空を飛ぶ/地に墜ちる

自分で自分の支えをつくっていく。そういう意識のもちかた。たとえば、第二次大戦期に生まれ育った土地から難民として逃げのびて、27年ものあいだその地をふたたび踏むことのなかった詩人であり、映像作家であるジョナス・メカスが、「わたしの国/故郷は文化/映画です」(『フローズン・フィルム・フレームズ』『どこにもないところからの手紙』)、と答えるようなそぶりで。大家に自分の住む家を追いだされた稲川方人が、そのことを述べた原稿であらためて言及した「何をどんなふうに壊しても」「残る」という「悲しみ」と「怒り」(『詩と、人間の同意』)を携えながら、自らの手で自らの地盤をつくっていくこと。ここまで書いて、以前わたしがかかえていた感情の存在を思いだす。

立脚する地面がない歯がゆさはここ一年ずっとかかえていた疾患の一つだったのだが、自らが地面になる/であることによって克服できるのではないかというところに行き着いた。逃亡願望を持ちながら根付く場所を求めている姿より足場を備えた浮遊体である方が自然ではないか。のたうつぬかるみ耕すように
(2014年のわたしのついーと)

学生時代にあたまの片隅にあったこの「足場」の問題はいまではあまり考えることがなくなっていたが、「自らが地面になる/である」という意識は、根なし草ととなったにんげんにとってのひとつの処方箋としてひじょうに有効なのではないか? 主にアメリカで活動するヴェトナム生まれの詩人兼映像作家トリン・T・ミンハが、「私の家とはまさにここにしかなく、私を包んでいるこの身体こそが私の家と言うべきなのだ」(『ここのなかの何処かへ』)というときの身体性と、「「故郷」とは、私たちになじみの物語のことであり、物や場所が私たちのなかに呼び起こす感情のことであり、物や場所と結びついた思い出のこと」(『なぜならそれは言葉にできるから』)だと述べる、世界各国の紛争地に取材するドイツ生まれのジャーナリスト・カロリン・エムケのリテラシーを自らのうちにたたみこみながら、自身が自身の支えになるように生きること。支えはなにも物理的なものだけではなく、思考のフレーム自体がひとつのひとの支えになるだろう。

めざめ、ぎょにそ。プリキュアをみのがす。上にでてくるような著者の本を読む。しばらくして、夕食。米を炊く以外はとくに何もせず、ぶりの刺身やピーマンのたらこバター炒めや玉ねぎの味噌汁などをおいしくいただいた。のち、ラジオの宣伝visualに手を入れてあっぷしたり、どうぶつえんで起こった「手つなぎ」についてついーとしたり、このブログを書いたりした。


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催眠療法に触れたついがバズっているのを目にした。タイムラインでも、複数のひとがりついーとしていたり、言及していたりする。該当の漫画にはまだ目を通していないが、かつてわたしがいた職場にはまさに催眠療法や波動療法などをおこなうひとらが複数出入りしていて、そうした「オカルティズム」への抵抗が「退職」という決断を促した理由のひとつだったりするので、反射的に「怖い」と思ってしまった(この「怖い」の対象は、漫画ではなく、現象に対してのものである)。その怖さが適当なものなのかどうか、漫画を読んでみることにする。6文字にすべてをつづめれば、「気のもちよう」のことが作品では描かれていて、つまり上で書いた「思考のフレーム」のこととさほど変わらないのではと思った。この「さほど変わらない」ことが、疑似科学的な療法の肯定にも通ずる回路だという認識をもつことはだいじだろう。弱ったひとびとの、弱った心につけこんで金を吸いとっていくクソのようなビジネスに、自身の精神と健康をゆだねないためにも。「信じる者は救われる」かもしれないが、藁にもすがりたいきもちの到来にそなえて、信仰の対象を見さだめる視力をこそ丹念にみがいていたいものである。