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夜、ピーマンのドルマ。タネはピーマンのわた、豚挽肉、トマトの果肉、生米。風味はハリッサ、にんにく、塩胡椒、ナツメグ、パプリカパウダー、乾燥パクチーローリエオレガノも入れたかったが、妹が嫌いなのでやめておく。玉ねぎはなかった。うまい。ピーマンを立たせて煮るのを忘れていたので次回はちゃんとそれをやりたい。タネが余ったので冷凍し、キャベツか何かで巻くことを計画する。

保坂和志『残響』を読みおえる。石川忠司の解説における、「推理小説」という形式についての以下の言がおもしろかった。

初期の推理小説は奇想天外なトリックそのものや犯罪のショッキングさ、スケールの大きさよりも、明らかに犯人の個性が刻み付けられた痕跡を追究し嗅ぎまわる作業の方に重きが置かれている。テーマはまず第一に、探偵から遠く離れた場所と時間に存在したはずの個性のゆくえなのだ(中略)探偵小説/推理小説はそれ[引用者注:ナショナリズムの熱狂]とは別のかたち、「犯人の探索」というかたちでいかに人間どうしのつながりや交歓を回復させればいいかについて考えていたわけだ。

わたしは推理小説・探偵小説・ミステリと名指されるジャンルの小説を読まないが、この見立てはおもしろいと思ったし、この文を読んでいてミステリ愛好家でもある劇作家の友人Hさんのことを思いだした。彼の作品は「つながりの回復」なんてものを目指しちゃいないとわたしは思うが、その「つながり」自体への興味は作品のなかにあって、この解説を読むことで、何かを納得したときのような感慨が心中に起こるのだった。

ゆかりが資本主義に開発される以前のにんげんであると石川は述べ、その理由を「自らを安易に〈芸術〉化したりしない」ことに見いだしているが、この芸術という単語を読んでわたしがあたまに思い浮かべるのは「技芸を生きよ」といったフーコーのこと(もっと言えば、このことについて書いた廣瀬純の文章のことを思いだしている)で、もちろんここで芸術と技芸を即座にむすびつけるのはちがっていると思うけれども、このコードはネオリベラリズムの要請でもあるのだなあとぼんやり考えた。この命令が意味するところは、わたしたちの生が、すみずみまで資本の論理に覆われてしまっている、ということの証左でもあり、でもゆかりの生きかたがじゃあその抵抗になるのかと言われると、どうなんだろうかとも思ってしまう。むろん、寝そべり族が呑気に生きられる社会であるほうが好ましい社会だとは思っているのだが、、


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夜、れんこんサラダ、れんこんとにんじんのきんぴら、鰈のみりん焼き。サラダは味噌マヨかつぶしで味をつけ、チーズも入れる。うまい。きんぴらには鶏ガラだしをつかう。うまい。

ブリュノ・デュモンのジャンヌダルク2部作が日本でも公開されるとの報をしり、それをきっかけに第2部を絶賛するついを複数目にしたが、ほんとうに?と首を傾げた。わたしは第1部しか観ていないが、それがほとほと嫌になるだめだめな映画だったからである。がっかりしてもいいから観たい。もっといえば00年代の作品が観たい。

ボアズの『3020』をここのところまいにち聴いている。コロナを受けてリリースされたアルバムのなかでいちばん好きかもしれない。「3020」と「それから」がすごすぎる。