ピュー的接吻数のQ.E.D.

サリンジャーナイン・ストーリーズ』に手をつけ、「バナナフィッシュにうってつけの日」を読む。すごいおわりかた! メタファーのひとなのか、との印象をいだき、幼い少女と沖へでていく場面のほほえましさと不穏さの同居がたのしいなと思った。心配性の母のやかましさを伝える反復の描写もほんとうにやかましい。

ラース・フォン・トリアーダンサー・イン・ザ・ダーク』の4kリマスター上映の報を見、公開当時の興行収入が24.2億円というのをしってマジかよとおどろく。近年話題になっていた感のあるアリ・アスター『ミッドサマー』ですら7億円だから、その熱狂ぶりは計りしれない。観客が何に惹かれて観にいったのかわからないが、にわかには信じがたいことである。

ハダニの湧いた植木に水浴びをさせてもどると、さっきまであった受け皿がなくなっており、きいてみると祖母が洗ったという。なにで洗ったのかと問いただすと「そのたわし」といい、「そのたわし」とはわたしの鉄製フライパン専用のたわしで、思わず「はあ?」と声がでてしまう。ひきずる怒りの感情がある。「よかれ」はあぶない思考である。そもそもわたしも植木をよかれと思って水浴びさせている。

コネティカットのひょこひょこおじさん」読む。サリンジャー、あんまり好きくないかもと思う。たった2篇読んだだけで判断するなという話だが。タイトルはめちゃくちゃいい。

あたまを丸刈りにする。イースタンユース。ジョー・タルボット。生涯でいちばんみじかい。


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チョン・イヒョン『優しい暴力の時代』を「『優しい暴力の時代』作家のことば」まで読む。「アンナ」という短篇を最後*1に置いていること、冴えた編集だと思った。「優しい暴力の時代」=現代を生きるひとびとの悲哀がそれぞれの短篇で描かれているわけだが、ここでは唯一、その体制への反逆といっていいふるまいが書きこまれている(「私たちの中の小さな天使」における殺人計画も無意識的にはそうかもしれないが、そこに意識的な理由を見いだすのはむつかしい)。薄暗い諦念にみちた作品群のなかにあって、貧困のまま30代を迎えた女のささやかな抵抗が、きらと光って瞬く間に消えていってしまうことの余韻は、本書全体にはっきりと新たな層をつくりだしている。そんな反抗の刃を振るう手の持ち主は、以下のように描写される。

アンナは水曜日の打ち上げには参加しなかった。練習が終わるとすぐに、稲妻のようにぱぱっと服を着替えてすぐにいなくなるのだ。水曜日の夜には仕事に行かなくてはならないと言っていた。平日の夜十時に始まる仕事とは何なのか知りたくはあったが、そんな様子は外には出さなかった。土曜日は打ち上げに来ることもあったが、ビールをきっかり一杯だけ飲んですぐに帰っていくことがほとんどだった。いつも態度は同じだった。ほかの人たちの話をじっとよく聞き、よほどのことがない限り自分からは誰にも声をかけないが、誰かが質問すれば気さくにはきはきと答える。意味もなく大げさに笑ったり、妙に無関心な態度で座を白けさせたりもしなかった。アンナは正確にアンナだけの重みをもってその場に存在していた。

このつつましい「態度」。その重みが、振り上げた刃の落ちる速度になる。これはことを起こす8年もまえの様子の描写だが、であるがゆえに、その事細かには描かれることのない年月にも彼女のつつしみぶかさは作用して、やぶれ目を見た/読んだわたしたちにとっては、我慢の限界が訪れるまでの準備期間として過去が振りかえられることになる。

ただ、全体的な印象としてインテリ/プチブルのムードみたいなものがほのみえ、それはどうだったのかと思った。こんなこと言っていたって、きりがないのだが。さらなる不幸の追求は、それが目的化してしまっては負の影響しかもたらさないだろう。ほか、短編集全体で「きちんきちんと」という言葉がにどほどもちいられ、それが印象にのこった。

*1:日本版では独自編集がなされており、短篇「三豊百貨店」が「作家のことば」のあとに追加収録されている