marudebatsu

ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』を13章の半ばまで読む。どの章もうんうんそうだよなというきもちで読みつつ、ん?と思ったことをメモしておく。うんうんのほうもふくめて、おしりまで読みおえたら読書記事を書くかもしれない。

まず「資本主義的で家父長主義的なファッション業界や化粧品メーカー」、あるいは同様の「病院や医薬業界」に対する反発運動において、「自分たちの消費の力」をつかって「積極的な変化を引き起こ」すことの矛盾性について。すでにある枠組みのなかで改善を試みる改良主義フェミニズムを批判し、そもそもの制度をくつがえさんとする革命的フェミニズムを謳う本書が、消費の力=購買力にものをいわせるたたかいの方法を手放しに称揚(とまではいかなくとも)するのは、資本主義の制度にのっかりすぎてはいやしないか。もちろん、資本主義下でその制度に反抗することのむつかしさはよくしれたことで、そのちからを反転させる一例としてわたしはこの事例を読むけれども、そのことについてのエクスキューズが該当の章には見当たらなかった。

もう一点、中絶と暴力について。あらゆる暴力の根絶を謳いながら、中絶の権利を主張するのは欺瞞である。女性による子供への暴力を認識すべきだと著者はいうが、同様に、中絶は子供に対する暴力であることを認めるべきだ。わたしはそのうえで、中絶を肯定する。産める身体をもった存在の、当然の権利だろう。そして、革命を考えるうえで暴力を捨ておくことはできない。暴力なき革命など夢物語なのだから。


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自己の技術や活動をつたえる能力がいまわたしには必要とされている。自らをどのように演出するのか。正直そんなところに時間もちからも割きたくない。作品だけで語っていたい。

親しいひとがわたしに対して怒っているときにわらってしまうという話を以前書いたことがある*1が、いま10年ぶりくらいに家族と過ごしていて思うのは、この傾向は家族との関係性のなかで生じてきたのではないかということだ。今朝、母親ともろもろの家事をめぐっていくつかのやりとりをしていたとき、彼女はわたしに対して怒りを見せているのだが、それを受けるわたしはわらっているのである。怒りといってもけっしてキレているわけではなく、まだくっついた怒り、おふざけのようなアングリーぶりなのだが、そうだとしても、わたしは自分のうちからこみあげるわらいを止めることができず、荒れた呼吸をしながらあはあはやってしまうのだ。そして同様の感情のやりとりは1時間ほどのちに、関係性が反転した状態で、つまりは怒りの立場に立つわたしと、わらう側にいる妹とのあいだでも交わされ、そうかこれはこういう風にできあがっていったのかと合点がいったのだった。なんでもわらいごとにしてしまう生き抜いていくちからの横溢がここにはある。

*1:ざっと読みかえしたがべつに親しいひととは書いてなかったな