(好きの決め打ち)

さまざまなモチベーションのおわりを感じる。とはいえ〆切はつぎつぎに襲いかかってくるので奮起しなくてはならない。ゴリゴリフォーマットデザインをすすめる。心身は失調ぎみである。今週のプリキュアを寝坊して観逃しているのもデカい(録画はしてある)。

マウリツィオ・ラッツァラート『資本はすべての人間を嫌悪する』読みはじめる。まだ冒頭を読んだだけだが、すこぶるおもしろい。たとえば以下のような記述。

今日、世界革命の可能的条件は、ひとつには、新たに植民地化された人々(何よりも移民者)の運動が身体的に体現している新たな国際主義、そして今のところ唯一女性の運動が世界的レベルのネットワークによって動員力を持っている新たな国際主義を発動することができるか否かにかかっている。

訳文読みにくくないか?というつっこみはさておき、移民と「フェミニズム」(ベル・フックスによる定義を支持するわたしはフェミニズムが「女性の運動」とは思っていないが、便宜上こう表記する)が革命の契機であるというのはおもしろい指摘だと思った。ここ日本でも「入管」や「Colabo」、「夫婦別姓」etc.が闘争の現場となっているのもその証左である。「#metoo」が新たな国際主義を発動するための足場にならないのは、ハッシュタグポリティクス、ひいては身体を介さない運動、つまりはインターネット上の運動が総じてカスだからである。ラッツァラートは上記引用のあとに「そしてもうひとつには、労働領域に限定されない資本主義ヒエラルキーに対する批判ができるか否かにかかっている」と述べるが、そんなふうにふるまえるにんげんは学者をのぞいては暇人(学生・フリーター・ひきこもり・ニート……)くらいなんだよな。労働はマジで思考を殺してしまう。あと思考する手がかりとなる本がけっして安くない(本書も¥3200+税する)こともでかい。

以下の記述もおもしろかった。

(…)統治、自己生産企業家〔「個人は自分自身を生産する企業家である」というフーコー新自由主義的概念〕、自由、市場の「合理性」など──は、説明されることなく入念に消去されたある前提を有している。「統治される者」の主体性は、彼らを政治的敵対者から「敗者」へと移行させる流血を伴った敗北からのみ構築されるという前提である。/この点、ラテンアメリカは典型的なケースである。ラテンアメリカの闘いは植民地主義帝国主義に対する戦後の世界革命の重要なサイクルをなしている。このサイクルは資本主義とその世界経済を根底から揺さぶった。それはその強度と広がりにおいて西洋と比較にならないほどの組織的闘争を生み出した。資本主義による支配の乗り越えに参加したこの革命的主体性に対して、自らを「人的資本」と見なすように誘って、全員の全員に対する競争の世界に引き込んだり、エゴイズムを培養して個人的「成功」を望ませたりすることは不可能だった。この主体性に対して、市場、国家、企業、個人主義を受け入れれば、「自らの人生を獲得できる」ということを信じさせることはできなかった。この主体性を「自己実現」に向かって導きコントロールすることはできなかった。

チリ・クーデターを見よ、ということである。後半の記述は自己啓発書を出版する出版社・編集者の倫理、あるいはそれをもとめる読者の主体性/主観性を考えざるを得ないもので、なんでこんな世のなかになっちまったんだとつらいきもちになる。大学が職業予備校化を推進していること(そもそもそれを「学生側」ももとめているのがおわりである)も、つみたてNISAの奨励も、「コスパ」「タイパ」概念の蔓延も、すべて資本の専制下で生じている出来事である。


▼さいきんおわりを感じた例
togetter.com


日本で刊行されたラッツァラートの本は『〈借金人間〉製造工場』以外漏れなく所持しているが、そしてその大半が積み本のままだが、どれもマジでおもしろい。現存する革命左翼の思想家としてわたしのうちにおおきな位置を占めている。しかし今月でる新刊の値段・税込¥4950はでかすぎんよと底辺なめられゴミカスフリーランスはなみだを流すのだった。

夜、味噌ディップエシャロット、大根の味噌汁、豚大根生姜味。うまい。



開催直前ですが、文学フリマ東京36に出品されるこちら、デザインを担当しています、お立ち寄りの際はぜひゲトってください、詳細は以下より


https://www.tumblr.com/seimeikatsudou/717615689573302272/sz03
seimeikatsudou.tumblr.com


このところブログが怒りの場になっていてウケるが、意外と以前からそうだったかもしれないなと古い記事に目を通すことでわかった。そもそもかつてはそれをついったにぶちまけさえしていたのだから、ずいぶんおさまりがよくなったと言ったほうがいいのかもしれない。そんな自制がありつつも、怒りの感情をきちんと保持できていることは肯定的にとらえたほうがいい。怒りが大事だとナンシーもリンギスも言っていた。おれも心底そう思う。怒りがあるからものがつくれる。殺意があるからものがつくれる。

わたしのベッドのかたわらには窓があり、ニャンズは窓辺から外の風景を見るのが好きなので、寝ているわたしの腹部を跳躍および着地の土台にする。まだ仔猫の範疇とはいえだいぶ体重も重くなっており、その衝撃はなかなかのもので、体重をかけられるたびに「ウッ」とうめき声をあげている。たまに金玉をつぶされることもあり、さらにおおきな悲鳴をあげたりもする。