記号のマニピュレーション

すべての思想は「とりあえず」のものである、という立場に立つ。つねに未完成であり、不完全であるということだ。「絶対的権力は絶対的に腐敗する」(ジョン・アクトン)でも「スローガンを与えよ。この獣は、さながら、自分でその思想を考えつめたかのごとく、そのスローガンをかついで歩いていく」(埴谷雄高)でも「個人的思索の成就があって、初めてわれわれは自由なる人間となるのだ。いかに自由主義をふり廻したところで、その自由主義そのものが他人の判断から借りて来たものであれば、その人はあるいはマルクスの、あるいはクロポトキンの、思想上の奴隷である」(大杉栄)でもいいが、とにかく、自己の内面に立てんとする思想が固定化したときが思考の堕落であり、「革命主体」の終焉である。もしフーコーがいうような「技芸」を生き、「存在そのものをひとつの芸術作品とする」ためには、自らの思想を、自らの手とあたまをつかってこしらえつづけなければいけない。むろん、考えるという営みの多声性を踏まえた上でである。わたしたちの手もとには、数えきれぬ書物がある。「作品には作者名がついてまわる。本には著者名が必要だ。だがその名前は、特定の個人に所属する固有名詞なのではなく、集合名詞なのである」(鈴木一誌)。このことは、われわれ「作者」においても一貫している。

「革命主体」とは何か? それは、わたしが理想とする存在である。わたしがより多くのそれを増やしたいと願う存在である。それは制作者であり、工作者(谷川雁)である。つまり、つくる者である。つくりだす者である。それはマルチチュードネグリ=ハート)かもしれず、暴力階級(マルグリット・デュラス-廣瀬純)かもしれない。反民主主義的で、理想的かつ徹底的な民主主義的主体ともいいうるだろう。彼女はいつでも宙吊り状態を保っている。彼はどこでもラディカルなエッジの方を向いている。theyはつねに反抗的な目をしている。わたしがかつて《とうそうぶんぽうの発動装置》を用いて呼びかけたのは、彼や彼女やtheyに対してである。むしろ、呼びかけることを通して、彼や彼女やtheyをつくりだすのである。声はつねに返答を求める。声はつねに選択を求める。「あなたを同じ仲間の一人の共犯者に仕立てる何かが語られたのだ。ケツァール鳥、野蛮人、原住民、ゲリラ、遊牧民、モンゴル人、アステカ人、スフィンクスの」(アルフォンソ・リンギス)。

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わたしは見る。わたしは読む。わたしは聴く。松本俊夫の映像論におけるフレイミング、モンタージュ、コンストラクションになぞらえて、文意、文体、文脈で文章を考えること。かつて小泉明郎がイメージ、構造、パフォーマンスによってコンセプトを伝える、という話をしていたことを思いだす。ヤコブソンにおける言語の伝達機能/表現機能(情動機能、詩的機能)の三すくみ。

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ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ(吉本隆明

一篇の詩が生まれるためには
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ(田村隆一

瞬間的な同意と、持続的な拒絶が、わたしを走る。「今夜、きみ/スポーツ・カーに乗って/流星を正面から/顔に刺青できるか、きみは!」(吉増剛造)と疾走する。その速度のなかで、「俺は野菜が首都高に生えているのをみる。」(稲川方人)。その両極のなかで、「俺はのどに助からない言語をつまらせている。」(同上)。

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どうかわたしは、「夢を見させる草」(ジョー・ブスケ)でありたい。それは「たんぽぽの葉」(谷川雁)にすぎないかもしれない。少なくともそれは、雑草としてむしられる草であろう。

2020.4
SARS-CoV-2舞う世田谷にて記す