ちゅう/ななつの唇

わたしはあなたの代弁者でもなんでもない。自己の思想や精神を代表するおこないの総体である。フェミニズムを念頭にした作品をつくりながら考えるのは以上のようなことだ。これは外山恒一が政治活動において「正義感」ではなく「被害者意識」にこそ重きを置くことと同義で、つまりは実存主義という話でもある。自己を基底にして、世界と対峙しないことには、運動は持続しないし、徹底もされない。わたしはわたしの拡声器である。

祖母には恋人(?)がおり、20年ほどいっしょに暮らしていたのだが、そんな彼女がわたしたちといっしょに住むことになった理由は、彼がたおれて入院してしまったからだった。コロナの所為でお見舞いに行くこともできず、もうひと月以上経つ。今日、入院する階がかわって終末期の病室へ移ったことを祖父の経験でしっているのだと話す祖母の声がふるえはじめ、その落ちくぼんだ瞳になみだがたまのっているのを見たとき、こういうろくでもない引き裂かれが多くの場所で起きたのだし、今後も起きるのだろうとかなしくなった。

献立、コーンスープ、ミートボールとブロッコリのトマト煮。よいお味。ミキサーをつかえばスープはもっとぐっどになったろうが、洗い物がめんどうなのでやらない。トマト煮はにんにくを利かす。


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食前食後はクライアントワーク。レイアウトのフォーマットづくり。いま勘案しているものではノドの余白が足らなそうということに気づき、すでに投げたもの含めつくりなおしの作業。だいたいの見通しがついた段階で眠気がピークになったので退散、入眠。明日は2週間ぶりのラジオがある。

めざめ、昨日のトマト煮をパスタソースにして朝食。タバスコを入れて味変する。自室にこもり、江原由美子『増補 女性解放という思想』を読みすすめる。「有徴」という言葉をおぼえる。この「徴」は、ガールズバンドにおける「ガールズ」や、女流作家における「女流」といった「しるし」のこと。男性を基準としてまわっているこの世のなかにおいて、女はつねに「女として」位置づけられる。この非対称性が、セクシズムの根源として横たわっている。

「性差があるのだから、平等である必要はない」という論は、一見妥当に思える、しかしそうではない。こうした場面で言われる性差とは、通常、男性基準に達しているかどうかという基準で測られる性差に過ぎず、女性と男性との間にあるその他の様々な差異のほとんどに対しては、そもそも関心を持っていない。性差を問うているように見せながら、女性に男性と平等の処遇ができない理由を探すことだけに焦点を当てているのだ。そのような文脈で性差の有無を問う問いは、女性がどのような力を持ちどのような世界に生きているんかにはそもそも関心を持っていない。「性差は差別の根拠ではない」のである。(江原由美子『増補 女性解放という思想』)

まだ半分も読んでいないが、セクシストに悩まされるひとびとに勇気を与えてくれる書になるはずだと思う。

午後、昨日のフォーマットを確認し、送信。