ぼくら引くあなたイコール

ゆきづまりを感じています。自身が納得できるような生の出口を見いだすことができず、20代さいご(と、年齢におおきな意味づけをしてしまうのもよくないですね)の日々を送っています。かつて想像した未来と、いま想像しうる未来と、はたしてどちらが華やかな、あるいは悲惨な色合いを帯びているでしょうか。もしそこに著しいちがいがあるとすれば、それはこれまで歩んできた道のりのたしかさを、この先も同様に、あるいはさらにおおきな歩幅ですすんでゆけると信じるに値するものとしてとらえることができるかどうかに懸かっているのではないでしょうか。岐路にある、と思いこんでいるわたしがそこに突っ立っています。

断食の効果か腹を下ししつつ、江原由美子『増補 女性解放という思想』をひもときます。序文をパラと読み、おもしろそうだぞときもちを高めますが、寝ます。今日は打ち合わせがあるので、そこに標準をあわせてゆきます。

今日の献立、チャーシュー生姜炊き込みごはん、たらのムニエル、タイムオニオン添え、きゅうりと長芋のピクルス。妹はタイムも苦手のようです。ハーブや香辛料の類がきらいなひととはわたしはいっしょに生活できないでしょう。

夜は打ち合わせ。これはデザインではなくテキストのしごとです。疑問点をつぶしつつ、方針を明確にしてゆきます。美術に関する話がひさびさにでき、英気が養われます。しごとがあると、生活が律されるので、ほどよいプレッシャーは精神に好影響を与えることがわかります。明け方まで取りかかり、全体の見当をつけます。睡眠をとらないと脳みそがつかいものにならないことをしっているので、ちゃんとねむります。入眠前に、別件のデザインフォーマットをしあげ、送りだします。


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今日の献立、キャベチャースープ・ごま風味、みりん干しの魚を焼いたやつ。どんなに忙しくても料理をするわたしは自己隷属化した主体性をもっています。とはいえ、冷蔵庫にある食材を見計らい、メニューを決め、調理をおこなうことは、わたしの編集感覚を鍛える契機としてもとらえることができます。そもそも、わたしに編集的な能力があるとすれば、それはまちがいなく料理を通して磨かれてきたのだという自覚があります。このことについて、1年ほど前に書いた文章が下書きに残っていたので、以下に成仏させます。

わたしの10倍ぐらいの年月を業界で生きのこってきたひとのくちによって編集についての話がなされるとき、たまにスーパーでの主婦の買いもののたとえがだされる。それをきくたびに、わたしの編集観(というよりも買いもの観?)とはちがうなあと思うので、忘れないためにそれを書いておく。

曰く、あたまのなかに献立がない状態でスーパーへ買い物へ行ってその場の感情に任せて買いものをしていたら、なにをつくったらいいのかよくわからなくなってしまってどうしようもなくなる云々。つまり、事前の計画、コンセプト、地図なしに取材や制作をしていれば編集はぐちゃぐちゃになってしまうということだと思うのだが、わたしは献立を考えずに買いものをすることが多い。そして集まったもののなかで編集の思考をのばし、何をつくるかを決める。そのくりかえしがわたしの編集観を磨いてきたし、いま手もとにあるものを元手に、新たな材をあつめ、編みこんでゆくのがわたしの手法であった。

あと「主婦」というのも気に食わない。そこに自分がいない。家政は女に押しつけるものという考えが透けて見える。台所は女のものという発言を以前同じ口からきいたおぼえがあるが、いいかげんにしてほしい。