会話の舌を抜く気合

はんぺんを焼く。バターに、シュレッドチーズとだし醤油。うまい。白いジャージにドレッシングのかかったレタスをこぼし、憂鬱になる。食後すぐに洗剤をかけ、もみ洗いしたあとネットに入れて洗濯機にほうりこむ。

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「#わきまえない女 たち」。いんすたのストーリーにあげていたひとがいて、ちょうど放送中だったのでのぞく。画面には5人のにんげんの顔があり、その視覚的な情報量が多くて、観ていると話している内容が耳に入ってこないのがおもしろかった。目に耳をつかまれる。声だけで聴くとちょうどよい。「時代の変化」という言葉が複数の話者からでてきたが、そもそも性差別はそのような時間的なものに回収される問題ではないのではないか?とも思った。歴史的なペースペクティブのなかで考えたらそれはまあそうなのだが、そこに担保させてしまうのはあぶない気がする。この語をもちだしていたのは文筆を専門とするひとらではないが、そうしたひとたちがためらうことなく声を上げていくこと自体はよろこばしいことだ。話すことによって、あやまりやまちがいは正すことができる。その前提となる、すでにそこにある抑圧を、いちまいいちまいはがしていく姿勢をわたしももたなくてはならないと思う。

上記の放送を見た翌日、上野千鶴子『家父長制と資本制』を読んでいたら以下の記述に目が止まった。

解放の理論(﹅﹅)を欠いた解放の思想(﹅﹅)は、啓蒙もしくは運動論に帰着するほかない。女性解放運動家にとっては、この世の中は、「性差別」という「社会的不公正」がはびこる野蛮な社会であり、この「不正義」を許しているのは、「男性の横暴」と「女性の蒙昧」だということになる。「すすんだ理想」と「おくれた現実」──これが近代主義フェミニストがしばしば陥る「フェミニスト進歩史観」である。

めちゃくちゃおもしろい。上記の「時間」の話にもつながるが、「価値観のアップデート」などという言葉でいいあらわされるフェミニズムの波及に対するわたしの違和感までもがここで明快に解明されている。枝葉だけではなく、根を見ろということだ。本書は「解放の思想は解放の理論を必要とする」とはじまるが、まさに、と思わされる。

わたしが観ている最中は5000人程度が視聴していて、その数を多いと見るのか、少ないと見るのかはわからないが、それでも即座にこのようなアクションがあって、反応があるのはとてもよいことだと思った。日々目に入る報道に、「ヘルジャパン」を感じてほとほと嫌になるが、こうした「運動」の存在に勇気づけられる。アルテイシアというひとの、ユーモアまじりの語調のはげしさがとくによかった。司会の永井玲衣氏による、しめくくりの言葉。「こうして発信すること、行動することに関して、連帯の表明ではなく、たくさんのご忠告、ご指示、ご教示をくださったおじさまがた、男性の皆さまがいらっしゃると思いますけれども、新しい社会では二度とお目にかかりませんように」、super-cool! サイコー!


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nana yamato、シロップなどを聴きながらブログを書く。『hurt』、いいアルバムだ。リリースからもう7年も経っている。信じがたい。のち、麻雀を売ったりしつつABMGのグラフィック制作。WCシリーズとちがってもとになるものがないので、素材の選定に苦労する(詩は詩でたいへんだが)。こんなパーツでやるべえと決めたら、ベーコンを念頭に置いて、トリプティックをやりたいなとすすめていくのだが、あまりうまくいかないまま肝心の「ガール」抜きのものが仕上がる。これはこれでカッコいいのだが、コンセプトをないがしろにしてしまっているためにこのままではGOできない。

休憩がてら卵かけごはんをつくり、いつもの醤油がないのだったと落胆しながらパクパク食べた。もう5時である。過剰労働の域だが、自分の制作に関してはまったくつらくないのだった、、