他者を待たせてばかりいる/あなたもそのうちのひとりでしょう

めがねがずり落ちるのでした。すこしうつむくと、鼻のあたまと耳の裏手をセル・フレームがすべって、わたしの視界に縁ができるのでした。うっとうしいわね、となかゆびでめがねの山に触れてぐいと押しもどすのですが、またすぐに鼻あてはすべってきて、ちいさな音を立てて落下するのでした。読書の光景・2021年の深夜3時。

お腹が空いたのでスープを飲みました。晩ごはんののこりの、豆腐と卵のスープです。溶き卵をふわふわの卵にするコツは、流し入れる際に鍋の温度を下げないことです。卵を入れたら、スープの温度は下がります。温度が下がったまま卵を入れてしまうと、卵はかたまらずにスープを濁らせてしまう原因になります。卵は一気に流しこむのではなく、少しずつ入れるのです。再度沸騰してくるまで、じっと待つことが大切なのです。

どう考えても自分の制作で食っていくのがいちばんの幸せだなと思いました。もうずいぶん前から放置しているつくりかけの写真集を完成させようと思いました。こんなことをずっといいつづけています。やるひとはだまってやるのです。


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見たことや聞いたことがあるやりかたを、じっさいに試してみる。その一歩に至る身軽さのおもさ。

派手な服を着てゴミ出しに行った帰り、出勤間際の母親に朝からそんな格好で歩いているひとは怖いとおおわらいされる。いまほとんど外出していないので、おしゃれポイントがゴミ出しくらいしかないのだった。

いわゆる「ソーシャル・ジャスティス」のためにグラフィックの技術をつかいたいなと思っている。よりポリティカルな方向へ。この志向は「現代美術」のフォーマットがわたしに影響を与えている気がする。わたしがつくってきた「美術作品」はすべてが政治的な性質をもっている。でもそれって「ソーシャル」が冠につくんだろうか。そもそも「ジャスティス」でいいのだろうか? サッチャーの「社会など存在しない」発言を引いて書きだされている、フーコーの「社会は防衛しなければならない」を念頭に題されているであろう市田良彦の「社会は防衛しなければならないのか」というテキストにはこのように書かれていた。

一方は「社会」のとは市場のことだと言い、他方は、国家でも市場でもなく、その中間地帯に広がる領域を「社会」だと位置づける。新自由主義とそれに対抗する闘いは、「社会」の場所と機能をめぐる争いという位相を確実にもっています。

これは新自由主義社会を推しすすめる勢力と、それに反する勢力を俯瞰した見取り図であるが、この「闘い」の戦場の選定は無効ではないか?というのが市田がこのテキストで言わんとしていることのひとつだった。サッチャーが「社会」の代わりにあると述べたのは「家族」と「個人」だが、そもそもその「個人」のなかに「社会」は含まれているのではないか、と。

近代にあって「個人」とはそれ自体が、ホモ・エコノミクスと主権者という二人の異質な主体のインターフェースである(…)つまり、「個人」のなかに断層が走っている(…)こう述べてみたい。「社会」が国家と市場の中間領域に発見される前に、そもそも「個人」が同じ中間性として、あるいは二人の相入れない主体の共存として登場していた、と。経済学の誕生以降、「個人」は強い意味において、それ自体として「社会」であったのです。個人が社会を作るのでも、社会が個人を作るのでもなく、同じ一つの断層が個と全体の間で投射、反射しあっている(…)「社会」とは近代のはじまりから今日にいたるまで、全体的かつ個別的なこの断層をどう処理するのかという問題の名前にほかならない。今日の「社会運動」も同じ断層線の延長線上にあることは間違いないでしょう。

であるならば、「ソーシャル・ジャスティス」とはいったい何を守るための正義なのか? わたしが「わたし」を守ろうとするそぶりと、わたしが「社会」を守ろうとするしぐさの連続写真が、ひとつの壁にプロジェクションされるとき、そこに見える像はどうわたしたちに見えるだろうか?