母体を内から割ること

香港・ファシズム特集の『HAPAX』の酒井隆史インタビューを読む。ひとの来歴を読むのはたのしい。そして運動史を読むのも。外山恒一の『全共闘以後』を思いだす。このインタビューでは1980年代後半の大学時代が振りかえられていて、その数年のあいだでも劇的に大学空間が変化していったことが回顧されているが、わたしが大学に在学していた2010年代前半でさえ、入学時の4-5-6年生と卒業時の1年生を比べると雲泥の差があったので、悪化の一途をたどっているのかとぜつぼう的なきもちになる。脱臭脱色的な大学の風景。もちろん、そんななかでもおもしろいひとたち(大失敗など)はでてきているわけだが。

そして、わたしがいいなあと思ったのはグレーバーに対して「大好き」という言葉を用いていることで、これは感情の問題としてあるわけですが、つまり感性の話にもつながりますね。ひとは感性によってものごとを見聞し、そこに感情が生まれるからです。一方、ものごとを判断する知性は、感情とは切り離されている。いや、知性も感性もめちゃくちゃ密接にからみあってるな。わたしがここで想定しているのはたとえば先日したこんなついーと。

家賃ストを賃貸人と賃借人の二項関係だけで考えている「常識人」には「運動」も「政治」もわからない

ここでわたしは「常識人」のセンスのなさを嘆いてるわけなのですが、知性がないからともいいうるなと思いなおしたわけです。でも知性があってもセンスがなければ「わからない」か。にんげんは論理よりも感情でうごくし、感情の方が遥かにつよいちならをもっている。知性と感性、どっちをとるといわれたらわたしは感性をとるタイプだ。

それはさておき、わたしは「好き嫌い」というのが重要だと思っているわけです。むろん、これは論理の正誤、つまりは知性を抜きにしたものではありません。先にも述べたように、その判断には知性も横たわっている(疑似科学を信ずるひとたちがわかりやすい例です:多少なりとも知性があればあんな非合理的なものを信ずることはありませんね、とはいえ、淵に立たされているひとにとっては、そこであばれているのは感情なのかもしれません/末期癌患者の藁にもすがる思い……)。好き嫌いは欲望を駆動させます。欲望は「革命主体」の主観性の鍵です。善悪で考えれば道徳が要請され、損得で考えれば資本が動員されてしまう。贈与の話にも通じるかもしれません。話がスライドしっぱなしなので、この話はまた機をあらためて深めてみようと思います。

酒井隆史の話にもどると、人民新聞でのインタビュー(後編はこちら、ぜひ読んでください)でもそうだったが、わかりやすい言葉で現状の精緻な分析を語ってくれていて、ひとりの大衆としてとても助かるなあと思う。「行き過ぎた民意とか、民衆の暴走とか」「リベラルと右派はポピュリズムをデモクラシーの過剰であると捉える」のに対して「左派はポピュリズムをデモクラシーの過小の生む現象として捉えるべき」という視点はめちゃくちゃ大切だ。ぶあつくて最初の方を少し読んで放置している『自由論』読まなきゃなあとなる。その前に『暴力の哲学』を読みきる。

読書会でも話したことなのだけれど、コロナ禍でほんとうに嫌だなと思うのは「リベラル」が馬鹿のひとつおぼえのように「選挙」を称揚していることで、これはネトウヨの「ぼくたちが選んだんだから安倍さんへの批判はやめよう」、あるいは批判アレルギーの「中立」(反吐がでる言葉です)主義者みたいなクソ論理とまったく同じ地平、つまり選挙原理主義に基づいているわけですね。こうした制度自体を問うことなく、選挙を唯一至上の政治行動と考える単純思考が、「民主主義」(むろん、「リベラル」の掲げる民主主義とは異なります)の到来をかぎりなく遅延させるとともに、べつの政治回路を奪っているわけです。地獄ですね。

そもそも国民の半数は選挙に行かず、なおかつ選挙に行くひとの大半が「一票を投ずることによって一日だけ主権者になるという政治の任務を果たしたと思えば、絶えざる主権者としての姿勢をとりつづけぬことにももはや非一貫性を感じない」(埴谷雄高)わけです。理想的な民主主義的主体なんてほとんど存在しないのです。そして現行の小選挙区制で選挙をしたって民意なんてものは反映されない。この後に及んで「選挙に行きましょう」と呼びかけているような「優等生」ではどうしようもないのです。それはどこまでいっても、国家にとっての優等生なのです。


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そしてここ数日の読み書きを通じて反省しているのは、わたしが抱いている反民主主義的態度の内実の検討をおろそかにしていたことです。山崎望というひとの著書がそれを手助けしてくれそうなので、つぎに書店に行くときは買ってみようと思います/加筆:買いました。上野千鶴子がすすめていたものは売っていなかったので同様のテーマのアンソロジーを。

昨月半ばに通信制限に入ったことを端緒にインスタを見なくなった。とくになんの支障もないので今月も可能なかぎり継続しようかなと思った。SNS断ちというわけではないのだが(ついったはやってる、それもいつになく)、時間の再編をしたほうがいいという思いにとらわれたので。通信量もでかいし。ひとまずまいにち見ることをやめる。

体重がゆるやかに落ちてきた。落ちたといっても年始に太ったぶんが落ちてるだけだが。運動量としてはぜったいに減っているし、酒量も増えているはずなのになぜだろうか。もしかして筋肉が落ちているってこと? それはやだな。スクワットちゃんとつづけなきゃ。いっつもシャワー浴びながらスクワットしてる。ヒンズースクワットならぬシャンプースクワットだ。